国民突撃隊(こくみんとつげきたい、独:Deutscher Volkssturm 「ドイツ市民軍」)は、第二次世界大戦終盤の1944年9月25日の総統命令により、ドイツ本土防衛に備えて創設された軍事組織である。16歳から60歳の文民で構成されており、指揮官も軍人ではなく、ナチ党の地元指導者が任命された。これにより10,180個大隊(約600万人)の新しい兵力の創設が予定されていた。ドイツ国防軍はスターリングラード攻防戦の敗北以降、慢性的な兵員不足に陥っていたが、1944年7月には国民擲弾兵師団を編成し、14~50歳までの男子を動員した。しかし、同年後半になると連合軍はドイツ本土に迫り事態が更に深刻化したため、郷土を守るために一般市民を最低限の訓練を施した後(最末期には訓練なしのまま前線に投入されていた)、郷土防衛の緊急度に応じて第一次召集、第二次、第三次、第四次と計画されていた。編成としては、1個大隊には4個の中隊、1個中隊には4個の小隊、1個小隊には3又は4個の分隊で構成され、これをドイツ全土を42に分割した地方隊の指揮下に置き、警備と居住地区の防衛を任務としていた。1944年11月12日に大ベルリン大管区指導者(ガウライター)のゲッベルスがで行われた入隊宣誓式に演説をする姿がニュースフィルム、『ドイツ週間ニュース』に納められている。傍らに駐独日本大使の大島浩中将の姿も見られた。動員された兵士(隊員)の質は一般部隊とは格段にばらつきが大きく、第一次世界大戦に参加した古参もいれば、老人、十代前半の子供もいる寄せ集めであり、士気もお世辞にも高いとは言えなかった。更に、大戦末期のため武器不足が深刻で、対戦車攻撃用に大量生産された使い捨てのパンツァーファウスト以外は小銃はおろか、拳銃でさえ前大戦時の物をかき集めても全てには行き渡らず、鹵獲したものをそのまま使ったり、個人所有の猟銃までもが駆り出される始末だった。その上、銃を支給されても弾は満足に無く、小銃一丁につき銃弾が三〇発も支給されれば良い方だったという。当然、補給はほとんど無かった。例えば、カルカノM1891が極度の武器不足のため駐イタリアドイツ軍部隊のみならず、ドイツ本土の当突撃隊に支給されたが、後者の場合では弾薬の供給が困難であったことが今日に至るまでその状況が伝えられている。支給される銃にしてもVK98のような簡易戦時生産型もあった。とにかく数をそろえることを目的に生産された物なので装弾数など基本的な仕様すら個体差が大きく、その質も安定していなかった。また、武器とともに物資も不足していたため鉄兜等も満足に行き渡らず、制服に至っては国防軍から提供される軍装では到底足りなかった。そのためヒトラーユーゲント等の党組織やドイツ鉄道の制服、さらにワイマール共和政以前の旧式軍装を流用・改造したり、私服に腕章を着けただけの物まで出るという有様だった(自前とされていたため「野戦向きの服装なら何でも良い」とされた)。不充分な装備の老兵が目立つ国民突撃隊に対して、国防軍からは「補助予備役補」、「遅摘みのヒトラーユーゲント(HJ-Spätlese)」、「国民の風(Volkswind)」(Volkssturm の Sturm には嵐という意味もある)、「不具者近衛兵(Krüppelgarde)」、「報復兵器三号(V3)」といった蔑称が付けられた。武器もお粗末で、訓練もろくに受けず、戦闘経験が殆どない指揮官が多数を占めたため、戦力的には無いよりましという程度の存在であった。また、連合国軍との戦闘やその後の敗残兵狩りで、多くの一般市民が巻き添えを食う原因となった。国民突撃隊は陸軍、海軍、空軍、武装親衛隊とともに多大な犠牲を出しながらも善戦し、ベルリン攻防戦では正規軍にも劣らない活躍を見せた。しかし、国民突撃隊の指揮官は能力よりも党や指導者への忠誠心の度合いによって決まっていた。戦場では死守命令が乱発され、結果多くの国民突撃兵が戦死した。
出典:wikipedia
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