ミハイロ・ペトロヴィッチ(、、1957年10月18日 - )は、セルビア出身(現オーストリア国籍) の元サッカー選手、サッカー指導者。当時のユーゴスラビアの首都ベオグラード近郊にある出身。父親は工場作業員。10歳からサッカーを始め、14歳(1971年)の時にユーゴスラビア1部リーグの名門レッドスター・ベオグラードユースにスカウトされ入団。1974年に当時2部リーグのFKラド・ベオグラードへレンタル移籍しプロデビュー、攻撃的なMFとしてプレー。1976年にレッドスター・ベオグラードへ復帰した。このころ、U-20ユーゴスラビア代表に選ばれている。1978/79シーズン中にNKオリンピア・リュブリャナへ移籍し主力として活躍。1980年11月15日ユーゴスラビア代表としてスペインW杯予選イタリア戦に初出場している(0-2で敗戦)。1984年にディナモ・ザグレブへ移籍、セントラルミッドフィルダーとして同シーズンのカップ戦準優勝に貢献した。翌1985年にオーストリア・ブンデスリーガのSKシュトゥルム・グラーツに移籍しリベロ として活躍。1987年以降は外国人選手としてはクラブ史上初の主将となりチームを引っぱった。また、家族と共にグラーツに定住し、1989年オーストリアに帰化。1993年、高年俸のベテランとなったペトロヴィッチに対し、シュトゥルムが経済的な理由と若返りの一環として一方的に解雇した。これにより現役引退したが、この契約解除をめぐり裁判にまで発展した。1993年からハルトベルク郡にあるSVペラウで監督業を始める。1996年、裁判まで発展していた古巣SKシュトゥルム・グラーツと和解し、アシスタントコーチ兼アマチュアチーム監督に就任。この時のトップ監督がイビチャ・オシムで、ペトロヴィッチは彼から多大な影響を受けた。その後はオーストリアに隣接するスロベニア・1.SNLの下位クラブであるNKプリモリェやNKドムジャレで監督を務め、プリモリェでは2001/02シーズンにはリーグ2位となりUEFAカップ出場に導く。2002年から、のもと古巣オリンピア・リュブリャナでアシスタントコーチを務めた。2003年9月、古巣のSKシュトゥルム・グラーツの監督に就任。厳しい予算制約があるなか積極的に若手を起用し、リーグ残留というクラブ目標を3シーズン達成し、2006年5月に契約満了。この際、グラーツサポーターは監督契約延長を求めて、4000人の署名を集めた。同年5月、オーストリア2部・と監督として契約するも、その3週間後にサンフレッチェ広島がオファーしこれを受諾。同年6月、Jリーグ下位に低迷していたサンフレッチェ広島監督に就任、停滞していた流れを若手起用やコンバートで乗り切り、J1残留させた。翌2007年、現行ルールで決勝トーナメントへ進んだ事のなかったナビスコカップで初の決勝トーナメント進出を果たすものの、一部の選手に固執したことが災いし、同年末に天皇杯で決勝に進出(準優勝)するも、リーグ入れ替え戦の末J2降格。これに対し、クラブ幹部はJ2降格チームとしては異例の監督留任を決定。翌2008年、FUJI XEROX SUPER CUP優勝、J2史上初の9月中優勝・全節首位を決め、J1昇格。J1復帰の2009年、昇格1年目のチームとしては当時の最高記録であるリーグ戦4位入賞、天皇杯の結果で繰り上げでACL出場権 を獲得した。2010年、ナビスコ杯準優勝。2011年末、広島は2年連続で赤字になる見込みとなったことから累積赤字解消のため、高年俸となったペトロヴィッチの契約延長を断念した。2012年シーズンより、浦和レッズの監督に就任。契約期間は1年。昨季15位にまで低迷したチームだったが、広島時代に指導した柏木陽介やこの年加入した槙野智章らと共にチームを再建し、リーグ前半戦を3位という好成績で折り返す。同年9月、その手腕を評価され、2013年シーズンも指揮を執ることが決定。ここ数年、シーズン終盤で監督の進退問題が取り沙汰されることが多かった浦和にとっては、異例の早期続投決定となった。 重要な試合で勝ち切れないことも多々あったが、最終的にリーグ戦を3位で終了。就任1年目ながらACL出場権を獲得し、浦和を2008年以来5年ぶりとなるアジアの舞台へと導いた。翌2013年シーズンは教え子の森脇良太や広島の佐藤寿人と同様裏に抜け出すスピードが持ち味の興梠慎三等を獲得し、国内三冠も期待される陣容でありながら無冠に終わり、昨年よりも下の6位に沈んだものの、去年に続いて優勝争いに関わったことを買われ、同年9月、2014年シーズンも指揮を執ることが決定した。同一人物が浦和で3シーズン以上監督を務めるのは、チームをJ1制覇と天皇杯2連覇に導いたギド・ブッフバルトに次いで2人目となる。翌、2014年シーズンは広島時代の教え子の西川周作と李忠成を獲得。昨季ボランチのポジションを務められる選手が少なかったため青木拓矢を獲得。また、ユースの関根貴大が昇格した。同年、10月第19節以降連続で首位に立っていることを評価され、2015年シーズンも指揮を執ることが決定した。同一人物が浦和で4シーズン以上監督を務めるのはクラブ史上初めてとなった。しかしその一方で、優勝を狙える戦力を抱えながら結果が出ず、2013年はナビスコカップ決勝では柏に、2014年のJリーグは残り3節までは2位に勝ち点5をつけながら、その2位だったG大阪に敗れて以降3戦勝ちなしが祟ってG大阪に世紀の大逆転を喰らって2位、2015年に11シーズンぶりに復活した2ステージ制のJリーグは1stステージを無敗で優勝したものの、2ndステージは第3節でシーズン初黒星を喫した後に連敗した事に加え、広島が快調に勝ちを重ねた事も重なりクラブ史上最多タイの勝ち点72を稼ぎながら2位。Jリーグチャンピオンシップでは準決勝で、FUJI XEROX SUPER CUP、9シーズンぶりに決勝に進んだ天皇杯、3つのコンペティションいずれもG大阪に敗れて準優勝となり、勝負弱いというレッテルを剥がせずじまいとなってしまった。チーム最長5年目のシーズンとなった2016年は、ガンバ大阪とのPK戦の末、Jリーグカップで優勝。自身初のタイトル獲得となった。基本的に攻撃的なサッカーを好む。GK・DFラインからパスを繋ぐ「モダンなサッカー」、師であるイビチャ・オシムと同じコンセプト「考えて走るサッカー」、守備にリスクを掛けてまで行う攻撃的なサッカー を目指している。一方で「仕事」と表現する、相手に合わせて比較的守備的なサッカーを展開することもある。特異な戦術の一つに「可変DFライン」がある。登録上はDF3人の3バックだが、状況によって2バックや4バック・5バックとDFラインの枚数が変化する。オーバーラップを多用し攻守に数的優位を作り出す事が目的で、特に4バック時はセンターバック(CB)とサイドバック(SB)で構成される従来のものとは違う動きを見せるのも特徴。ちなみに、この戦術は「考えて走るサッカー」を選手が消化し、選手間のコミュニケーションで生み出された。上記のGKからパスを繋ぐサッカーに加えこの戦術を機能させるため、CBに攻撃的な要素を多く要求している ことから、広島時代はSBが本職の森脇良太やMFが本職の森崎和幸や戸田和幸・元々FWだった盛田剛平をCBとして起用している。もう一つ特徴的な戦術に「5トップ」がある。登録上はFW1人に攻撃的なMF2人の3-6-1(1トップ2シャドー)だがこの3人に両サイドのMFを加えた5人が前線に出て相手DFラインに張り付き、ポストプレーや飛び出しの流動性でギャップをつく。これも可変DFラインと同様にペトロヴィッチ本人のアイデアに加え、選手間のコミュニケーション、特に森崎和幸の閃きから生まれた。ただ、自分の信用する選手・理想とするサッカーに固執 してしまう上、広島時代に「美しい死」という言葉をよく使った事で「美しい勝利」を求めるが故「何をやっても勝てばいい」という結果にこだわる事をせず、選手を固定化させ、その選手が怪我や累積警告による出場停止等によって離脱すると、結果として選手起用に柔軟さが欠ける赴きがある。また、攻撃的なスタイルを貫く余りディフェンス陣(特に積極的に攻撃参加する槙野と森脇)まで前のめりになり、リスクマネジメントが疎かになった挙句フォローに回った選手に選手に責任を託すというバランスを崩す癖も散見し、重要な試合を落としたにも関わらず、その反省を生かせない傾向がある。その結果浦和就任以降2014年にJリーグ制覇がかかりながら逆転された世紀のV逸、2015年のJリーグチャンピオンシップ準決勝、天皇杯決勝でいずれもG大阪に敗れた一因である。若手を育てることに定評がある。シュトゥルム・グラーツ監督時代はユルゲン・ゾイメル、クリストフ・ライトゲープ、らをオーストリア代表へ、広島では槙野智章、柏木陽介、青山敏弘、森脇良太等を、浦和では、関根貴大をあらゆる世代の日本代表(候補)に送り出している。|-188||7||||||||||||233||6||||||||||||
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