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鳥居氏

鳥居氏(とりいし)は、日本の氏族の一つである。出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄である。鳥居氏の祖である熊野新宮第19代別当行範(重氏)は平清盛から平氏の姓を賜り平氏と称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。室町時代において三河で勢力を伸ばした松平氏(徳川氏)に仕えるようになった。戦国時代では鳥居伊賀忠吉と彦右衛門元忠の父子が著名である。忠吉は今川氏の傘下において、主のない岡崎城で松平党を崩壊させずに保ち続けた。駿府で身柄を預けられている幼主・竹千代には、子息・元忠を付随させた。その元忠は、家康より3歳年長ということもあり、家康の生涯にあった大小あらゆる合戦に参戦した。その集大成は関ヶ原の戦いの前哨戦に当たる伏見城の戦いである。800人の兵で石田三成率いる数万の大軍と渡り合い、深溝松平家忠らと供に戦死した元忠は、のちに「三河武士の鑑」と称えられた。徳川政権下では、元忠の子・左京亮忠政、土佐守成次などが大名、旗本となっている。鳥居宗家(左京亮家)は最大で24万石の大身となるが、元忠の孫・左京亮忠恒の代で無嗣断絶となった。しかし、元忠の功績を鑑みた公儀の計らいにより、忠恒の異母弟・主膳正忠春が減石ではあったが、改めて大名に認められた。幕末には、庶流の旗本家から鳥居耀蔵(大給松平氏出身、林述斎の子)が出て、目付や南町奉行を務めたが、天保の改革での厳しい取り締まりや捜査手法などから名の耀蔵(ようぞう)から「よう」・官位の甲斐守(かいのかみ)から「かい」を取り「ようかい(妖怪)」と蔑まれた。現在、鳥居宗家は壬生に存在する。また、下野国であった栃木県内に散らばる多くの鳥居姓は、この鳥居氏の末裔たちである。愛知県岡崎市には鳥居氏発祥地の碑がある。壬生藩鳥居氏の側近には斎藤氏・森田氏・井山氏・佐々木氏の4氏がいた。その4氏の中でも、森田氏は鳥居家武芸教授指南役方、井山氏・佐々木氏は壬生城護衛方、斎藤氏は鳥居家台所役を預かる忠実な部下だったとの話がある。支族

奥三河の奥平氏へ仕えた鳥居氏の1つ。1575年5月、武田勝頼の大軍に包囲され苦境にあった設楽郡長篠城主・奥平貞昌は、岡崎城の徳川家康に援軍を要請するための使者として家臣・鳥居強右衛門勝商を派遣した。強右衛門は包囲網を掻い潜り、岡崎において「援軍を出す」との確約を家康から得ると、朗報を伝うべく長篠城へ帰還する。だが、間際で再入城に失敗、武田軍に捕縛される。城の前で杭に縛り付けられ「織田・徳川から援軍は来ない」との偽情報を長篠勢に向かって流すよう強要させられたが、勝商は武田軍を欺いて援軍が来ることを長篠城の奥平勢に叫んで伝えたため、殺害された。大軍の猛攻に精根尽き果てかけていた長篠城兵たちも、勝商の報せを聞いて奮起。長篠城を見事守りきった。主家が家康の縁者として栄えると、強右衛門の子孫は奥平松平氏に仕え続けた。勝商の子信商は、関ヶ原の戦いで安国寺恵瓊を捕縛する軍功を得、13代鳥居商次が忍藩の家老職に就くなど家中で重きを成した。なおこの鳥居氏は忠臣として褒め称えられていた初代勝商の通称「強右衛門」を代々受け継いでいる。

出典:wikipedia

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