盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。対象となる者に、神に潔白などを誓わせた後、釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる。毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である、という様式もある。あらかじめ結果を神に示した上で行為を行い、その結果によって判断するということで、うけいの一種である。応神天皇9年4月条に、武内宿禰が弟の甘見内宿禰の讒言を受けて殺されそうになり、武内宿禰が潔白を主張したので、天皇は2人に礒城川で盟神探湯をさせたとの記事がある。允恭天皇4年9月条には、上下の秩序が乱れて、むかしの姓(かばね)を失ったり、わざと高い氏(うじ)を名乗る者も出てきた。それを正すために甘樫丘で盟神探湯を行ったという記事がある。各自が沐浴斎戒し、木綿の襷をつけて探湯を行い、正しく姓を名乗っている者は何ともなく、詐りの姓を名乗っている者は皆火傷をしたので、後に続く者の中で詐っている者は恐れて先に進めなかったので、正邪がすぐにわかったとある。この条の註記には、「泥を釜に入れて煮沸し、手を入れて泥を探る」という具体的な手順が書かれている。継体天皇24年9月条には、倭国から任那に派遣された近江臣毛野の下に任那人と倭人の間に子供の帰属を巡る争いが発生した際、裁定が出来なかった毛野が「誓湯」すなわち盟神探湯によって判断を下そうとしたところ、火傷を負って死ぬ者が多かったとされる。この話は近江臣毛野の失政と暴虐ぶりを示す話とされている。盟神探湯の記録はこれから900年の間存在しない。記録に見えなかった時期に、盟神探湯による裁判は行われなかったのか、それとも水面下で続いていたかどうかははっきりしない。しかし、室町時代の応永年間になると再び記録に表れるようになる。この時代には「湯起請」という名で呼ばれた。特に足利義教は政治的裁判にしばしば盟神探湯を用いた。しかし、その後再び記録から消滅する。前述の通り、継体天皇24年9月条に行われた盟神探湯では、任那人が多数死んでおり、神明裁判として機能しなかった。倭人と共通する宗教観を持たない任那人には、前記の事情が理解されず、真犯人であるなしにかかわらず熱湯に手を入れ、犠牲者を出したというのが実情であったと考えられている
出典:wikipedia
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