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正木ひろし

正木 ひろし(まさき ひろし、 1896年(明治29年)9月29日 - 1975年(昭和50年)12月6日)は、日本の弁護士である。第二次世界大戦前より軍国主義批判を繰り広げ、戦時中には官憲による拷問を告発した首なし事件で有名となった。戦後も多くの反権力裁判、冤罪裁判に関与した。1953年に起こった八海事件の弁護を担当し、その事件についての著書『裁判官』はベストセラーとなり、『真昼の暗黒』という題名で映画化された。なお本名は旲(ひろし)であるが、自ら「正木ひろし」「まさき・ひろし」の表記を好んで用いた。1896年(明治29年)、東京府東京市本所区林町(現在の東京都墨田区)に生まれる。父は元幕臣の家の出で、後に正木家の婿養子となった郵便局員。母は東京府高等女学校を卒業後、小学校教員として勤務していたが、正木が6歳の時肺結核で病没している。府立三中(都立両国高校の前身)、旧制第八高等学校(名古屋大学の前身)理科中退、旧制第七高等学校(鹿児島大学の前身)文科を経て、 1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部に入学、同大学在学中から千葉県立佐倉中学校(佐倉高校の前身)、長野県飯田中学校(飯田高校の前身)の英語教員として勤務、大学卒業後の1925年には弁護士事務所を東京・麹町に開業した。主に民事事件を扱い経済的には裕福だったという。また一種の受験ノウハウ本『上級学校選定より突破まで』を著したりもした。1937年(昭和12年)には個人雑誌「近きより」を発刊する。正木自身の「発刊の言葉」によれば、雑誌発行の目的は「自らの公共心と社交性の満足」のためであるという。当初は弁護士という職業柄「法律問答」などの記事、また交友を広げるという意味からか「お婿さん募集」「書生希望者紹介」などの雑記事も多かった。やがて1939年4月に一か月にわたって旅行した戦地、中国大陸で、正木は日本軍将兵が中国人を抑圧する有様を目撃する。彼が「近きより」に(注意深い筆致で)著した旅行記は検閲、発禁の対象となる。以後、正木はこの雑誌を拠点として、時の首相東條英機への苛烈な批判など、日本の行く末を憂える言説を繰り広げることとなる。度重なる廃刊要請を無視して「近きより」はほぼ月刊を維持、敗戦後の1949年まで発行された。なお雑誌寄稿者中には長谷川如是閑、内田百、武者小路実篤、馬場恒吾、読後感想を寄せた購読者には宇垣一成、小林一三、坪田譲治、藤田嗣治、三木清、萩原朔太郎、ラス・ビハリ・ボースなどの名前もあり、正木の交友関係の広さをうかがわせる。1944年に警察による被疑者への暴行致死疑惑(首なし事件)が発生した時は、取調べ中に死亡した被疑者の遺体の首を持ち帰って医師の鑑定をし、特別公務員暴行陵虐致死罪で警察官を告発。「近きより」紙上でもキャンペーンを張るなど、当時は公然の秘密だった官憲の拷問というタブーに立ち向かったことで注目された。警察官は1955年に有罪が確定した。戦後の正木は教員時代からの反天皇制主義の姿勢を明確にし、プラカード事件の弁護を行うなど共和主義の立場から先鋭な言論を展開した。また、八海事件など数多くの冤罪事件の弁護を担当し、自身は反共主義者でありながら三鷹事件と菅生事件では共産党員の被告人を弁護するなど、反権力派弁護士として幅広い活動を続けた。丸正事件では1960年の最高裁判所による有罪確定直後に、判決確定者以外の者を真犯人であるとして名指しする『告発 犯人は別にいる』(鈴木忠五との共著)を出版。それによって翌年に名誉毀損罪で起訴された。正木は「刑事弁護人は、時に自らの職を賭して弁護しなければならないときがある」と主張していたが、同刑事裁判で一審、控訴審とも有罪判決を受け、その上告中の1975年、満79歳で他界した。正木は他界した時点で、高裁で有罪判決を受けて上告中の刑事被告人の地位にあった。

出典:wikipedia

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