織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏をも凌ぐ力をつけ、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自害し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として誕生。生まれは勝幡城(現在の愛西市勝幡町~稲沢市平和町六輪)と那古野城(現在の名古屋市中区)の二説があるが、近年研究者の間では勝幡城説が有力になってきている。幼名は吉法師(きっぽうし)。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた(『信長公記』)。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた。天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江国の国友村に火縄銃500丁を注文したという(『国友鉄砲記』)。天文20年(1551年)、父・信秀が没したため、家督を継ぐ。天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、沢彦を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。天文23年(1554年)には、村木砦の戦いで今川勢を破った。当時、尾張国は今川氏の侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配する守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信勝の家督相続を支持して信長と敵対し、天文23年(1554年)に信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告した。これに激怒した信友は義統の嫡子・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして織田大和守家は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も弘治元年11月26日(1556年1月7日)に死亡している。弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝を擁立しようとした。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。この出来事の前、信長が四弟・織田信時だけを供に秀貞の城へ出向いた際、通具は信長を捕らえて切腹させることを秀貞に進言したが、秀貞は「三代にわたって恩恵を受けた主君だから」と2人を帰した。道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだために未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは河尻秀隆とされている。さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主・織田大和守家の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。尾張国統一を果たした翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。今川軍は、松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後、昆布と勝ち栗を前に立ったまま湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ、出陣し、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ義元を討ち取った。今川軍は、駿河国に退却した(桶狭間の戦い)。桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に、信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があったため、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。この同盟は信長死後あるいは小牧・長久手の戦いまで維持された。永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す(信長が築いた初めての城)。斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利(森部の戦い)。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏(北勢四十八家を攻略)とも戦っている。永禄9年(1564年から1565年)、竹中重治と安藤守就が稲葉山城を占拠後、加治田城主・佐藤忠能と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ(中濃攻略戦)、さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった(稲葉山城の戦い)。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を岐阜と改称した(『信長公記』)同年11月には沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめており、本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。11月9日、正親町天皇は信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった。中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(のちの足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、近江国の和田(和田惟政の居城)、後に同国の矢島を拠点として近江の守護であった六角義賢に協力を求めた。足利義昭(当初の名前は義秋)は六角義賢や和田惟政とともに全国の諸大名に三好氏を討伐して義昭の上洛と将軍擁立に協力するよう働きかけた。ところが上杉謙信・武田信玄ら地方の諸大名は近隣諸国との対立を抱えていて動くことができなかった。そのため、比較的京都に近い大名を連合させて義昭を上洛させるという計画が立てられ、永禄の変の直後から和田惟政が尾張を訪れて信長に上洛を要請した。信長は斎藤龍興の存在を理由に躊躇したが義昭側の働きかけに応じた龍興が信長との停戦に応じたため、信長は斎藤領である美濃から北伊勢・南近江を経て上洛の兵を送ることになった。ところが、永禄9年(1566年)8月に信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退したという内容の文書が室町幕府の幕臣であった米田求政の子孫の家から発見されている。斎藤龍興と相前後して六角義賢も離反し、義昭と信長の交渉は一時中断する。六角氏の離反を知った義昭は近江を脱出して、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長との交渉が再開された。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。信長は和田惟政に村井貞勝や不破光治・島田秀満らを付けて越前に派遣し、義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と対面した。美濃攻略における時期において武田氏が東美濃の高野口(瑞浪市)に侵攻し、織田氏と武田氏との間には紛争が起きていた。この時は織田方の重臣の森可成や肥田忠政等が防戦した。その後、美濃国において領国を接することになった甲斐国の武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、武田信勝を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。永禄12年(1569年)には、将軍・足利義昭と共に武田氏と越後上杉氏との和睦を仲介した(甲越和与)。永禄11年(1568年)9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好家勢力のうち、三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという。足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。のちに、義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている。永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した(本圀寺の変)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた。もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野氏当主とした。そして翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ(大河内城の戦い)。後に北畠具教は天正4年(1576年)に三瀬の変によって信長の命を受けた信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により伊勢攻略を終える。なお、近年の研究において、大河内城の戦いは信長側の包囲にも関わらず北畠側の抵抗によって城を落としきれず、信長が足利義昭を動かして和平に持ち込んだものの、その和平の条件について信長と義昭の意見に齟齬がみられ、これが両者の対立の発端であったとする説も出されている。永禄12年(1569年)1月、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。また、『殿中御掟』及び追加の条文は室町幕府の規範や先例に出典があり、「幕府再興」「天下静謐」を掲げる信長が幕府法や先例を吟味した上で制定したもので、これまでの室町将軍のあり方から外れるものではなかったとする研究もある。3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した。8月、木下秀吉に命じて但馬国を攻め、山名祐豊を破り、生野銀山などを制圧。祐豊は、堺の商人・今井宗久の仲介で信長に降伏した。元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興を自害に追い込んだ。11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白・二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功し、窮地を脱した。元亀2年(1571年)2月、信長は浅井長政の配下の磯野員昌を降し、佐和山城を得た。5月、5万の兵を率いた信長は伊勢長島に向け出陣するも、攻めあぐねて兵を退いた。しかし撤退中に殿軍が一揆勢の伏兵に襲撃され、柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死した。同年、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国の後北条氏、越後国の上杉氏と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた。元亀3年(1572年)、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の前波吉継・富田長繁・毛屋猪介・戸田与次郞らが信長に寝返った。10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化する。11月、武田氏の秋山虎繁(信友)が、東美濃の岩村城を攻める。城主の遠山景任は防戦したが(上村合戦)、運悪く病死してしまう。遠山景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗したが、虎繁はおつやの方に対して虎繁に嫁することを降伏条件に提示し、結果、信長の援軍が到着する前に岩村城は降伏してしまう。また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗し、汎秀は討死した。元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した。武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡する幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの数名が義昭に同行するが、多くは京都に残り信長側に転じた。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害した。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。9月、東大寺を戦乱に巻き込み乱暴狼藉を働く者に対して厳罰を科すと通達する書状を出した。9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、大湊に桑名への出船を命じたが従わず、10月25日に矢田城に滝川一益を入れて撤退する。しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の林通政の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る。11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏はここに滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の桂田長俊は一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した(岩村城の戦い)。3月、信長は上洛して従三位参議に叙任された。このとき、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請し、天皇はこれを勅命をもって了承した。7月、信長は数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めにした。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥り、大鳥居城から逃げ出した一揆勢1,000人余が討ち取られるなど劣勢となる。9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。この時、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した(『信長公記』)。天正3年(1575年)3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万の大軍で出陣した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長が降伏を申し出たため、これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城を破城とした。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。信長包囲網の打破後、信長や家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの火縄銃を用いた射撃を行わせるなどし、武田軍に圧勝する。6月27日、相国寺に上洛した信長は天台宗と真言宗の争論のことを知り、公家の中から5人の奉行を任命して問題の解決に当たらせた(絹衣相論を参照)。7月3日、正親町天皇は信長に官位を与えようとしたが、信長はこれを受けず、家臣たちに官位や姓を与えてくれるよう申し出た。天皇はこれを認め、信長の申し出通りに、松井友閑に宮内卿法印、武井夕庵に二位法印、明智光秀に惟任日向守、簗田広正に別喜右近、塙直政に原田備中守、丹羽長秀に惟住、荒木村重に摂津守、羽柴秀吉に筑前守の官位と姓を与えた。この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された越前国は再び織田領となり、信長は国掟を出した上で、越前八郡を柴田勝家に与えた。天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる、また、11月7日には征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される右近衛大将を兼任する。信長は右近衛大将就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式に倣った儀礼(陣座)を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた。これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとみられる。また、この任官によって、信長は足利義昭の追放後もその子・義尋を擁する形で室町幕府体制(=公武統一政権)を維持しようとした政治路線を放棄して、この体制を否定する方向(=「倒幕」)へと転換したとする見方もある。ただし、伝統的な室町将軍の呼称であった「室町殿」「公方様」「御所様」「武家」を信長に対して用いた例は無く、朝廷では信長を従来の足利将軍とは別個の権力とみなしていた。同日、嫡子の信忠は秋田城介(鎮守府将軍になるための前官)に、次男の信雄は左近衛中将に任官している。11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠を正室・濃姫の養子とし、一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国(織田直轄領)を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖岸に安土城の築城を開始する。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。信長は4月、塙直政・荒木村重・明智光秀らと3万人の軍勢を大坂に派遣し、砦を構築させた。このうち塙が伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、主将の塙を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し天王寺砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功。本願寺軍を撃破し、これを追撃。2,700人余りを討ち取った(天王寺砦の戦い)。その後、佐久間信盛を主将とした織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。この頃、越後守護で関東管領の上杉謙信と信長との関係は悪化し、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦して信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、形式的な和睦を行い、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に松永を攻め自刃させた(信貴山城の戦い)。久秀を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・籾井城・笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立った。11月20日、正親町天皇は信長を従二位・右大臣に昇進させた。天正6年(1578年)1月にはさらに正二位に昇叙されている。天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし信長は斎藤利治を総大将に、飛騨国から越中国に侵攻(月岡野の戦い)、上杉軍に勝利し優位に立った。またこの勝利を利用し全国の大名へ書状を送り織田家の強さを全国に知らしめた。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。上杉景勝に対しては柴田勝家・前田利家・佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる。4月、突如として信長は右大臣・右近衛大将を辞職した。7月、毛利軍が上月城を攻略し、信長の命により放置された山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力であり東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重にはつかなかった。11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。11月、信長は織田家の京屋敷・二条新御所を、皇太子である誠仁親王に進上した。同時に、信長は誠仁親王の五男・邦慶親王を猶子として、この邦慶親王も二条新御所に移っている。この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じたとされる。表向きの理由は信康の12か条の乱行、信康生母・築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させたという。だが、この通説には疑問点も多く、近年では家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説も出ている(松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。また伊勢国の出城・丸山城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し、家老の柘植保重が植田光次に討ち取られるなど大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責し、謹慎を命じた(第一次天正伊賀の乱)。天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田家に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略した。8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢で伊賀十二人衆を倒して伊賀惣国一揆を滅ぼし、伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した。この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった。2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え)。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという。3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する大行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった。天正9年(1581年)、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では前年8月に高野山宗徒と荒木村重の残党との関係の有無を問いかける書状を松井友閑を通じて送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害した。このため天正9年(1581年)1月、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した。信長は一族の和泉岸和田城主・織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令。1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した。10月2日、信長は堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした。10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った。天正10年(1582年)に入ると信長は甲州征伐に主力を向ける事になったため、高野山の戦闘はひとまず回避される。武田家滅亡後の4月、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した。信孝は高野山に攻撃を加えて131名の高僧と多数の宗徒を殺害した。しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了した。天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻し、同国の過半を支配下に置いた。7月には越中木舟城主の石黒成綱を丹羽長秀に命じて近江で誅殺し、越中願海寺城主・寺崎盛永へも切腹を命じた。3月23日には高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河から徳川家康、相模から北条氏直、飛騨から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。木曽軍の先導で織田軍は2月2日に1万5,000人が諏訪上の原に進出する。武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに南信濃の松尾城主・小笠原信嶺が2月14日に織田軍に投降する。さらに織田長益、織田信次、稲葉貞通ら織田軍が深志城の馬場昌房軍と戦い、これを開城させる。駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して徳川軍を先導しながら駿河から富士川を遡って甲斐に入国する。このように武田軍は先を争うように連合軍に降伏し、組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。唯一、武田軍が果敢に抵抗したのは仁科盛信が籠もった信濃高遠城だけであるが、3月2日に信忠率いる織田軍の攻撃を受けて落城し、400余の首級が信長の許に送られた。この間、勝頼は諏訪に在陣していたが、連合軍の勢いの前に諏訪を引き払って甲斐新府に戻る。しかし穴山らの裏切り、信濃諸城の落城という形勢を受けて新府城を放棄し、城に火を放って勝沼城に入った。織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が甲州征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を自刃させ、ここに武田氏は滅亡した。この時、俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。勝頼・信勝父子の首級は信忠を通じて信長の許に送られた。信長は3月13日、岩村城から弥羽根に進み、3月14日に勝頼らの首級を実検する。3月19日、高遠から諏訪の法華寺に入り、3月20日に木曽義昌と会見して信濃2郡を、穴山信君にも会見して甲斐の旧領を安堵した。3月23日、滝川一益に今回の戦功として旧武田領の上野と信濃2郡を与え、関東管領に任命して厩橋城に駐留させた。3月29日、穴山領を除く甲斐の領地を河尻秀隆に与え、駿河は徳川家康に、北信濃4郡は森長可に与えた。南信濃は毛利秀頼に与えられた。この時、信長は旧武田領に国掟を発し、関所の撤廃や奉公、所領の境目に関する事を定めている。4月10日、信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた。4月12日、駿河興国寺城に入城し、北条氏政による接待を受ける。さらに江尻城、4月14日に田中城に入城し、4月16日に浜松城に入城した。浜松からは船で吉田城に至り、4月19日に清洲城に入城。4月21日に安土城へ帰城した。4月、正親町天皇は信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたいという意向を示し、5月に信長に伝えられた(三職推任問題)。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが、返答の内容は不明である。信長は四国の長宗我部元親攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。また北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。5月15日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた(家康謀殺のために招いたという説もある)。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。5月29日、信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが『本城惣右衛門覚書』からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。享年49(満48歳没)。光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。ゆえに、密かに脱出し別の場所で自害したという説や、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説が後世に流布した。実際事件当時も信長の生存説が京洛に流れており、緊急に光秀と対立することとなった羽柴秀吉はこの噂を利用し、味方を増やそうとしている。同時代人の証言から、その人物像や当時の評価がうかがえる。信長の肖像は、現在肖像画23点、肖像彫刻5点が確認されている。代表的作品としてとして、狩野永徳の弟・宗秀が信長一周忌に描いたとされる、愛知県豊田市の長興寺所蔵のもの(重要文化財)、同じく一周忌に描かれた古渓宗陳讃をもつ衣冠束帯姿の神戸市立博物館本(重要文化財)、狩野永徳筆の可能性が濃厚で信長三回忌に描かれた大徳寺の肖像、近衛前久が信長七回忌に描かせ、追善のため六字名号を書き出しの一字に加えた和歌の賛がある京都市上京区報恩寺所蔵のもの、および兵庫県氷上町が所蔵する坐像(「#第一次信長包囲網」参照)などが、信長の肖像画として伝えられている。天童藩織田家の菩提寺であった三宝寺仰徳殿には細密な肖像画とされるものの写真が残っている。太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、たくわえられた髭(ひげ)などが特徴である。平成7年(1995年)に作家の遠藤周作が「たかが信長されど信長」という対論集で紹介して以来著名となった。遠藤は同書において、信長の死去に宣教師が描いた絵を、明治になってから複写したもので、宮内庁、織田宗家とともに分け持ったものであると解説している。三宝寺に現存するものは「大武写真館」の印が押されていることから写真師・大武丈夫によって明治中期に撮影されたものとみられている。信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であるとされ、現代では「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に解釈されることが多い。だが一方で中国の史書からの引用で、七徳の武という為政者の徳を説いた意味だったとも解釈されている。従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であると解釈され、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争を行ったとされてきた。しかし2010年代の歴史学では、戦国時代の「天下」とは京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを意味し、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の治世を確立させることであり、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)がある。正親町天皇と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代以降は、今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇』を上梓し、桐野作人・立花京子らが本能寺の変「朝廷黒幕説」を提示するなど論争が活発になっている。谷口克広は、各説を以下のように分類している。以下、論点と双方の説について述べる。天正元年(1573年)12月に信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受け入れた。が、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。信長が天正9年(1581年)に行った京都御馬揃えについて、信長は尾張時代には上総介を称していたものの、直接朝廷より任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って官を得た父・信秀とは対照的である。信長は、将軍義昭の追放後、天正2年に参議に任官、のち従二位右大臣に昇進。しかし天正6年に右大臣兼右近衛大将を辞した後、官職に就かず散位のままであった。天正10年(1582年)5月、武家伝奏・勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この際、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある(三職推任問題)。信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長の本心は不明である。信長が構想していた計画・予定が、関連諸史料や豊臣秀吉の行跡から読み取る事ができる。江戸時代初期では次のような記録が残る。しかし一般的には小瀬甫庵の『信長記』での酷評に代表されるように、江戸幕府の創始者として「神君」扱いされた徳川家康や『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉に比べると、庶民の間での評価はそれほど高くなかった。そして江戸時代中期以降になると、批判の論調がより強まっていく。その後明治になり勤皇思想が強まると、信長は御料所回復等を行っていたために勤皇家として評価され、明治2年(1869年)に明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した。明治3年(1870年)、天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が東京の自邸内と、藩内にある舞鶴山に信長を祀る社を建立した。信長には明治天皇から建勲の神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。その後、明治13年(1880年)には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている。大正6年(1917年)には正一位を追贈された。第二次世界大戦後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。また『フロイス日本史』の研究が進み、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動や「(信長が)自ら手紙に第六天魔王と記した」という記述から「無神論者」、「破壊者」といったイメージが生まれ、1990年代には軍事・政治面で西洋に先駆けた発想が見られた事などが指摘されている。後の天下人である秀吉・家康が信長の臣下であったことからその影響は計り知れず、日本史上、極めて重要な人物である。また秀吉も家康も、後継者にそれぞれ織田氏の血を引く者を当てている。「織田は越前に在り。平氏の子孫、織田明神の神主となる」と江戸時代初期の史料には記されている。これによると織田氏は平氏で、元来神社の宮司をしていたことが窺われ、福井県丹生郡越前町織田にある劔神社の関係から古代豪族の忌部氏とも考えられる。また織田氏は藤原氏も自称し、越前に地盤を築いた後、守護大名斯波氏に従って尾張に派生した。朝倉氏とは当初からのライバル関係。祖父・信定から古渡城主で父の信秀の代で守護代を務める本家と同等に渡り合える力を持った。他に有力重臣として九鬼嘉隆、細川藤孝、池田勝正、松永久秀、筒井順慶、三好康長、織田信張、森長可、毛利秀頼、簗田広正、西美濃三人衆、不破光治、竹中重治などもいる。織田信長が主人公として映画化された作品では、昭和期にかけて、日活から『織田信長』(1940年 日活 監督:マキノ正博 演:片岡千恵蔵)、東映からは『紅顔の若武者 織田信長』(1955年 監督:河野寿一 演:中村錦之助)、『風雲児 織田信長』(1959年 監督:河野寿一 同演)、大映からは『若き日の信長』(1959年 監督:森一生 演:市川雷蔵)が公開された。その他、黒澤明監督の『影武者』(1980年、東宝)では主人公達に対峙するキャラクターとして登場するなど、多くの映画にて脇役、準主人公としても広く登場する。テレビドラマとしては、司馬遼太郎の『国盗り物語』を原作としたNHK大河ドラマ(1973年 演:高橋英樹)および新春ワイド時代劇版(2005年 テレビ東京 演:伊藤英明)があるほか、昭和期にかけて『若き日の信長』(1961年・NET、演:九代目 市川海老蔵)、『織田信長』(1962年・朝日放送 演:林真一郎)、『若き日の信長』(1964年・フジテレビ、演:市川猿之助)が公開された。平成に入ってからも、大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年・NHK 演:緒形直人)や新春ワイド時代劇『織田信長』(1994年・テレビ東京 演:高橋英樹)を始めとして、脇役を含め数多の関連作品が制作された。漫画化されたものでは昭和期に横山光輝『織田信長』(1985年、講談社、原作 山岡荘八)等が刊行された。その他のメディア作品としては、『信長の野望』シリーズ (1980年-、コーエー)などがコンピューターゲームとして公開された。この他、信長が登場する作品には枚挙にいとまがなく、フィクション作品を含めれば膨大な数に登る。ゆるキャラには「のぶさま。」がある。また、漫画からテレビドラマ・映画化されたものに『信長協奏曲』(2014年 演:小栗旬)などがある。
出典:wikipedia
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