鳥居 忠春(とりい ただはる)は、江戸時代初期の大名。信濃高遠藩の初代藩主。壬生藩鳥居家3代。寛永元年(1624年)、出羽山形藩主鳥居忠政の三男として生まれる。父の死後に家督を継いだ異母兄の忠恒が寛永13年(1636年)に嗣子の無いまま死去しても、忠春は末期養子を認められずに鳥居氏は改易された。だが、忠春らの祖父である鳥居元忠の功績などを考慮されて、改めて忠春に信濃高遠藩3万2000石の所領が与えられた。始めこそ名君として政務に尽力していた忠春だが、次第に自分に諫言した重臣7名を斬り殺し、悪政を布いては百姓を苦しめた結果、承応3年(1654年)には百姓に尾張藩領の木曾へ逃散されるなどの暴君へと変貌していく。そして寛文3年(1663年)7月、2度目の大坂城山里丸加番を務めるために鐘町の宿舎にいたとき、かねてから忠春の暴君ぶりに反感を抱いていた侍医の松谷寿覚に斬りつけられて、松谷はその場で倒したがこの時の傷がもとで8月に大坂で死去した。享年40。松谷が忠春を襲った理由は狂気によるものとされている。跡を長男の忠則が継いだ。忠春は兄忠恒の時代に失った24万石の所領を取り戻すため、寛永15年(1638年)9月と慶安2年(1648年)9月の増上寺の警備、寛永16年(1639年)8月の江戸城西の丸石垣の修理、寛永19年(1642年)4月の江戸城御留守居役と西の丸大手門警備、明暦元年(1655年)の朝鮮通信使の負担、明暦3年(1657年)の大坂加番、他にも連年のように各所への贈物などをしているが、わずか3万石の小藩がここまで多くの幕府御用を担当することは財政に大きな影響を与え、百姓が木曾に逃散する事態を招いた。このため高遠藩は無主の耕作地が増加し、土地は荒廃して忠春は貢租を得ることを狙って明暦2年(1656年)から2年かけて検地を行なっている。忠春自身も茶屋遊びを繰り返し、毎年5回から6回は上伊那郷平山村(現辰野町)のお茶屋で奢侈の限りを尽くし、大酒を飲み、侍女の膝を枕にした。お茶屋に来る時は領民に必ず出迎えさせ、献上物を出させて村役人が必ずご機嫌伺いをさせるようにした。また忠春配下の100人余りの従者も威張り散らして食事用の米に藩への納入米として一時保管している郷蔵から出させて食事とした。
出典:wikipedia
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