ツインターボは、日本の競走馬である。1991年のラジオたんぱ賞、1993年の七夕賞とオールカマーに勝利。常に後続を大きく引き離す大逃げという戦法の馬で勝つときは圧勝、負けるときは急激な失速から惨敗という極端なレース運びから人気を博した(後述)。中央競馬において「最後の個性派」とも呼ばれた。※馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一して記述する。1988年、北海道静内町の福岡牧場に生まれる。幼駒時代から強い身体のバネを備えていたが、一方で食が細く非常に小柄な馬だった。2歳時に日高ケンタッキーファームで育成調教が積まれたあと、競走年齢の3歳を迎えた1990年春に茨城県美浦トレーニングセンターの笹倉武久厩舎へ入った。馬房では大人しい馬だったが、人が跨ると徹底的に反抗する性格で調教に手間取り、デビューに向けての必修審査となるゲート(発馬)試験の通過にも4か月を要した。このため初戦は翌1991年まで遅れた。1991年3月2日、中山開催の新馬戦でデビュー。このとき笹倉は騎手の石塚信広に対して「好きなように走らせろ。ハナ(先頭)に立て。あとは舵をとるだけでいい」という「指示」のみを与えた。レースは指示通りスタートからの逃げ切りで、2着に3馬身差を付けての初戦勝利を挙げた。次走の条件戦も逃げ切って連勝。続いては東京優駿(日本ダービー)への出走権確保のため、鞍上を大崎昭一に替え、トライアル競走の青葉賞に出走した。しかし最後の直線半ばで失速して9着に終わり、初の敗戦を喫する。続く条件戦も柴田政人騎乗で5着と敗れたが、重賞初出走となったラジオたんぱ賞(大崎昭一騎乗)では、向正面で後続に大きな差を付けるレース運びから最後の直線を逃げ切り、重賞初勝利を挙げた。これは笹倉にとっても初めてのサラブレッド系重賞勝利であった。盛夏を休養に充て、秋季はセントライト記念から始動。引き続き大崎を背にストロングカイザーからクビ差の2着と逃げ粘り、また東京優駿2着のレオダーバンをクビ差抑えた。この後、4歳クラシック最終戦の菊花賞を回避し、ラジオたんぱ賞と同じく福島競馬場で行われるGIII・福島記念に出走。前走に続き2着となった。年末にはグランプリ競走・有馬記念でGIに初出走する。しかし14着と大敗を喫し、さらに競走後には鼻出血が判明。翌年には体調を崩して長期休養を余儀なくされた。翌1992年11月にオープン特別戦で復帰。当日1番人気に支持されるも、10着に終わった。以後も復調は見られず、翌1993年春季いっぱいまで連敗を重ねた。7月に入り、良績を挙げていた福島競馬場で行われる七夕賞に出走。従来見られたスタートの遅さを解消するため、本競走からスタート巧者であり、逃げ戦法を得意とする中舘英二が鞍上に迎えられた。中舘自身、新馬戦からツインターボの走りに注目し、「一度乗ってみたい」と考えていたという。当日は福島競馬場の入場人員記録となる47391人が集まり、この中で中舘ツインターボは前半1000メートルを57秒4というハイペースで大逃げを打った。そのままゴールまで失速することなく、2着アイルトンシンボリに4馬身差を付けて逃げ切り、約2年ぶりの勝利を挙げた。中舘はこのときのレース振りを「僕は掴まっていただけ。馬が勝手に鮮やかに勝っちゃった」と語っている。2か月後、秋緒戦としてオールカマーに出走。当年の天皇賞(春)を含むGI競走2勝のライスシャワーら一線級が相手となったが、当日はライスシャワーと桜花賞優勝馬シスタートウショウに次ぐ3番人気に支持された。レースは常の通りスタートから先頭を奪い、向正面では2番手ホワイトストーンに約10馬身、さらにその後続集団まで10馬身以上という大差を付けて逃げ続けた。ただ1頭で最後の直線に入ると、ゴールまで脚は鈍らず、2着ハシルショウグンに5馬身差を付けて重賞2連勝を遂げた。2番手を進んだホワイトストーン騎乗の柴田政人が「あれ以上深追いしてたらホワイトストーンが潰れていた」と語るように、後続が無理な追走で共倒れすることを恐れた結果であったが、ツインターボの前半1000メートル通過は59秒5と比較的早い程度のペースであった。中舘は競走後にパトロールフィルムを見た際の感想として「何でこんなに離れているんだろうって、信じられなかった」と述べている。次走に臨んだ天皇賞(秋)では、前日発売で1番人気、当日は3番人気に支持されたが、逃げ潰れての最下位17着に敗れた。以後は大逃げを打っては直線手前で失速するといったレースを繰り返し、結局オールカマー以降はJRAでは勝利を挙げられなかった。中舘は「オールカマーで燃え尽きちゃったような気もする」と語ったが、不振の最中にあっても、その潔い「負けぶり」からファンの支持を集め続けた。1995年には公営・上山競馬へと転厩する。転厩後の初戦を勝利したもののその後は連敗し、9歳となった1996年のクラスターカップを最後に引退。以後は宮城県で種牡馬入りするも、5頭の産駒を残したのみで、1998年1月15日に心不全で死亡した。なお2014年に行った「JRA60周年記念記念競走メモリアルレース」として、この年の七夕賞(7月13日)の準メインレースとして「韋駄天 ツインターボカップ」が行われている。レース名はファン投票で決められたが、ツインターボは2位のミヤビランベリの倍以上の得票数を獲得している。逃げ切り圧勝か、さもなければ失速惨敗というレース振りから、俗に「玉砕型」と呼ばれるタイプの逃げ馬の象徴的な存在となっており、2004年に日本中央競馬会の広報誌『優駿』が行った「個性派ホースベスト10」という企画において、1980-2000年代の逃げ馬部門で識者・読者双方の投票でいずれもサイレンススズカに次ぐ第2位に選ばれた。サイレンススズカは「強い逃げ馬」の筆頭として名を挙げられており、選者を務めた須田鷹雄は、識者投票の席上で事前に「サイレンススズカを選ぶ方向なのか、ツインターボを選ぶ方向なのか」という議論があったとしている。この企画でツインターボの講評を担当した山河拓也は、「玉砕また玉砕。しかし、99回玉砕しても百回目には逃げ切るんじゃないか、と期待された」「観客の頬はどれも『いつ止まる?』と緩んでいた。そして失速後退の瞬間、彼の馬券を握っていた者も握っていない者も大声で笑った。悲壮感なき玉砕。こんな馬、他に誰がいるか。いない。ツインターボだけだ」と評した。また、競馬漫画家のよしだみほは自著の中で「あの大逃げが決まったときは本当に気持ちよかったし、逆につかまるときも良かったよね」「大きいところは勝ってないけど、こういう馬がいないと競馬は楽しくないよね。大好きな馬でした」と語っている。こうした人気は、日本中央競馬会が2000年に行った名馬選定企画「Dream Horses 2000」でファン投票により848票を集め、第91位に選ばれたところにも反映されており、GI(グレード制導入前の八大競走を含む)未勝利馬の100位以内選出は、ほかにステイゴールド(34位、企画実施後にGI勝利)とナイスネイチャ(71位)のみであった。同時期に活躍していた個性派逃げ馬にはメジロパーマーがいる。よしだみほの漫画『馬なり1ハロン劇場』の「なんでもアリ馬記念」では、「ハナを切るメジロパーマー、ケンカを売るツインターボ」というシーンが描かれている。オールカマーを逃げ切ったとき、騎手の中舘は記者に、天皇賞(秋)でのメジロパーマーとの逃げ対決について水を向けられ、「テンの速さならツインターボの方が上。」と言い切って自信を見せた。結局パーマーは出走せず、このあとも両馬がレースで顔を合わせることはなかったためこの対決は幻に終わったが、1991年から1994年までの有馬記念ではどちらか1頭が必ず出走しており、大逃げでレースを盛り上げた。「Dream Horses 2000」の誌上講評会においては、作家の吉川良がツインターボの選出に絡めて「今の競馬をつまらなくしているのは、みんな同じような乗り方をする騎手にも責任があると思うんだ」として、画一的な騎乗の蔓延に苦言を呈した。なお、ツインターボが競走生活を通して逃げなかったのは、スタートで出遅れて最下位となった帝王賞(公営・大井)のみだった。このとき騎乗した武豊は「最初から逃げるつもりはなかった」という主旨の発言を行い、これに対してライターの加藤栄が、大逃げを見たいという主催者とファンの期待に背いたとして「武はまったくもってつまらない競馬をした」と批判。また、逃げなかったことで「生涯逃げ馬じゃなくなっちゃった。ツインターボの経歴に傷を付けた」と非難した。父ライラリッジはアメリカで競走生活を送ったが、下級競走で2勝を挙げたのみで終わっている。種牡馬としてもツインターボ以外に目立った産駒は出していない。おもな母系近親には、母の従兄弟にラジオたんぱ賞の勝利馬アキビンゴがいる。またツインターボの半弟ゲイリーミナレットは4勝を挙げ、GIII・マーキュリーカップで3着の成績がある。
出典:wikipedia
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