山野 一(やまの はじめ、1961年4月2日 - )は、日本の漫画家である。福岡県小倉市出身。立教大学文学部卒。本名は橋口 保夫(はしぐち やすお)。『月刊漫画ガロ』1983年12月号掲載の「ハピネスインビニール」でデビュー。貧困や差別、電波、畸形、障害者などを題材にした反社会的な作風を得意とする特殊漫画家で「ガロ系」と呼ばれる日本のオルタナティヴ・コミック作家のなかでも極北に位置する最も過激な作風の鬼畜系漫画家であった。前妻は同じく漫画家のねこぢる。彼女の生前は共同創作者の役割を務め、彼女の死後は「ねこぢるy」のペンネームでその作品を受け継いだ。『月刊漫画ガロ』1983年12月号掲載の「ハピネスインビニール」で漫画家デビュー。主に低所得者層や社会的マイノリティなど底辺に位置する人物を主人公にし、人間の業や現実の不条理・混沌・因果・宿命・欲望・悪意・不幸を製図ペンを使用した端正なタッチで滑稽かつ入念に描きカルト的な人気を得る。最初期は丸尾末広あるいはひさうちみちお的な描線でブラックユーモアの入り混じったシュールなSF作品や精神・知覚をテーマにした作品を『ガロ』誌上に発表していたが、日本経済がバブルに差し掛かろうとする1980年代半ばになると、ある特徴を持った漫画作品を断続的に発表する様になる。それらの作品群で主役となる人物は、窮乏あるいは荒廃した生活環境に置かれることになる。底辺世界に着目した山野の作風は、『月刊漫画ガロ』1985年7月号より1年間に渡り連載された長編『四丁目の夕日』によって完全に確立され、山野は鬼畜系特殊漫画家の地位を24歳で構築する。同連載が終了したのち、主な活動の場を『ガロ』からエロ本に移し、主に荒廃した生活環境で「とことん抑圧」される人々を主人公にした不道徳な作品を描くようになる。1980年代から1990年代にかけて『夢の島で逢いましょう』『四丁目の夕日』『貧困魔境伝ヒヤパカ』『混沌大陸パンゲア』『どぶさらい劇場』(すべて青林堂刊)など異色単行本を次々に発刊。その描写は極めて凄惨・過激で、貧困・差別・電波・不条理・奇形・障害者・工員・廃人・強姦・近親相姦・エログロ・スカトロ・ドラッグ・カニバリズム・知覚神経・精神世界・新興宗教まで、ありとあらゆるタブーを題材とした徹底して救いのないストーリーに滑稽さの入り混じる入念な表現で底辺世界の無間地獄を描き続けた。1990年からは妻であったねこぢるの共作者兼プロデューサー的な役割を務め、ねこぢると共に『ねこぢるうどん』『ねこ神さま』『ぢるぢる旅行記』などにまとめられた異色作品群を手掛け“ねこぢるムーブメント”を作り出した。1998年の末からは、故・ねこぢるを継承した「ねこぢるy」の名義でも活動している。1961年、福岡県小倉市(現・北九州市)の炭鉱町に生まれる。幼少期に三重県四日市市の工業地帯に転居し、そこで少年時代を過ごす。父親は四日市公害の原因となった企業の環境課に勤めており、公害問題の反対運動に対処する窓口役で、山野曰く「住民の抗議に曖昧な笑いを浮かべながらお茶を濁す様な役目」だったという。山野は当時の四日市について「住むとすぐに喘息になる街」と述べており、母親も排煙が原因で喘息を患い、山野も気管支炎で咳が止まらなかったという。山野は自身の少年時代について「普通の公立学校に通って、特に目立たず、何もせずぼうっと暮らしていましたね。不良でもないし、インテリでもないし、読書家でもないし、スポーツもしない、本当に特徴のない子でしたね。あえて無理に言えば何もないっていうのが当時の印象ですね。」と回想しており「育ったところに対して郷愁なんて何もない」と語っている。『ガロ』1992年10月号「特殊漫画博覧会」で開かれた座談会では「子供の頃って言葉が通じなくて悩んだ事があるんですよ。誰でもこんな事思ってるんだろうな、っていうような事を友達とか親とかに言っても非常に意外そうな顔されるんですよね。言葉を正確に自分が使ってるつもりなのに、意味が伝達出来ないんですよ。で自分はおかしいんじゃないか、って思った事がありますよね。」と少年時代から「会話が空転する」など周囲との違和感を感じていたと明かしている。『危ない1号』のロングインタビューでも同様に「周囲の人と話しても、誰も僕の言葉を全く理解してくれなくて、みんなバカでこいつらとコミニュケーションしてもしょうがないと思いましたよ。自分の親にもそう思いましたね。例えば親と話してても、向こうの言うことは良くわかるんだけど、こっちの言うことは全然通じないんですよ。こっちの不満はほんの少しも理解してくれない。だから、もう拒絶するしかないんですよ。何を言っても通じない人間には話しかけても無駄だし、世の中の人すべてがそうなら、もう内側に籠もるしかないじゃないですか。」と答えている。中学2年生の時に千葉県へ移り、ヤンキー文化にカルチャーショックを受ける。中学卒業後、地元一番の進学校である県内の高校に進学するが、本当に気の合う人というのは一人も居なかったという。高校卒業後、立教大学に入学し、大学3年から4年にかけての時期に入部していた美術クラブで漫画を描き始める。絵やデッサンに関しては全く習ったことが無く完全に独学だという。吉永嘉明が行ったインタビューによると、山野は「大学2年か3年の時」に東京駅の八重洲口で「神の啓示を受けた」という(この「神」について山野は「なんだかわからないから神様といってます」と説明している)。その体験によって山野は、将来の自分の職業が「部屋にずっと籠って何かを書く仕事」になるという展望を得た(この時点では、漫画家になるという明確な展望を得たわけではない)。また、インタビューの中で山野は、漫画を描くという労働の特徴として、「人と会わなくてすむ」ことを挙げている。その上で、インタビュー当時の話として、他人との持続的な接触が要求される状況で心理的重圧を受けていたことを述べている。大学4年の時に青林堂に漫画を持ち込み、『月刊漫画ガロ』1983年12月号に山野一名義で掲載された「ハピネスインビニール」で漫画家デビューする。翌年春に山野は立教大学を卒業するが、就職活動を一切行わなかったという。後に、山野は回想で「これからバブルに突入していこうという時期、日本人の誰もが調子づき、浮かれ騒いでいた。文学部のボンクラ学生だった私にも、就職先はないではなかったが、そういう道になんの魅力も感じなかった。ドロップアウトする事に不安がないではなかったが、迷いも未練もなかった。」と当時を振り返っている。以後、『ガロ』で精神の内面や知覚神経をテーマとする作品を描いて活動するが、デビューから2年間は原稿料がまったく支払われず、大学卒業後の2年間はアルバイトで飢えをしのいでいたという。しかし、この労働経験について山野は「非常に拭い難い汚点を残してしまった。自分は労働やそれに伴う人間関係を心底憎悪していたので、この時期は一番辛かった。私は社会人としての適性、特に人間関係に難があった。商社で徹夜でファックス番とかバイクでの書類運び、ホテルのマッサージの電話番など、なるべく人と接しないですむ仕事を選んだ。丸一日、六畳一間のアパートにこもって、好きな漫画を描いていられる日は幸福だった。傍目にはとてもそうは見えなかっただろうが。」と語っており、人生の汚点であったとしている。1985年2月には初の単行本となる『夢の島で逢いましょう』が青林堂より刊行されるが、後になって「初めて単行本が出て印税というものを受け取った時は思わず目頭が熱くなった、あんまり安くて。それも旋盤工の月給程度の金額を御丁寧にも5分割で払って下さるのだ。商品としての自分の漫画の価値がいかに低いものであるかという事をつくづく思い知らされた。そんな荒廃した生活で自分は身も心も腐りはてていたが、どんなに惨めだろーが、どんなに落ちぶれ果てよーが、二度と再び働きに出るよーな事はすまい、ほんの少しでも世間の方々のお役に立つよーな事はやるまいと秘かに心に誓っていた。そんな心がけのせいであろうか、その後もこの世界ではひたすら冷遇され続けた。」と、『ガロ』のコラムで述べており、家賃1万6千円、風呂なし共同便所の殺風景な六畳一間の木造アパートでガスも電話も止められ、荒廃した漫画家生活を送っていたという。バブル景気で社会全体が軽佻浮薄な方向に流れ始めた1980年代半ばになると、ある特徴を持った漫画作品を断続的に発表する様になる。それらの作品群は現代社会を舞台とする作品で、主役となる人物は窮乏あるいは荒廃した生活環境に置かれている、または置かれることになる。『ガロ』1985年7月号から1986年7月号まで全12回に渡り連載した長編『四丁目の夕日』では、下層労働者の息子である高校生を中心として下町の懐かしい風景の中に潜む格差・貧困・家族の絆や友情の崩壊といった悲劇を漫画史上に残る過激な表現を織り交ぜて執拗に描き、人間を狂気に至らしめる「不幸のどん底」を滑稽さの入り混じった入念な表現で余すことなく徹底的に描き切った。本作『四丁目の夕日』は現在に至るまで「不朽の怪作」として読み継がれるロングセラーとなっている。山野は『ガロ』1992年6月号のインタビューで、救い様のない不幸な漫画を描く背景について次の様に述べている。また、山野は『四丁目の夕日』の「あとがき」の中で「社会になじめない劣等感、バブルで調子こいた世相への憎悪、そういった鬱屈を、この極端な作品を描くことで解消し、心のバランスをとっていたのかもしれない」と述べ、当時置かれていた環境による心理的重圧をもとに本作を構想した事を明かしている。漫画評論家の枡野浩一や漫画編集者の浅川満寛は、不幸が不幸を呼ぶ徹底して救いのない山野作品について「単なる冗談としてでいいから“信じられないほど不幸な人生”というのを、今ここで想像してみてほしい。きっと、あなたの想像力より山野一の想像力のほうが、はるかに深いどん底を覗いている。これ以上の不幸は存在しないだろうと想像する不幸を一蹴する不幸に次ぐ不幸、あまりの悲惨さに“もうこのへんでいいだろう”と思いつつ読み進めていくと、さらにその上を行くどん底が待ち受けている。ここまで来ると開き直ってある意味快楽的なのではないかと考えたりもする。この過剰ともいえる徹底したしつこさは凡百の作家の想像力をはるかに超えている。」と評しており、特殊漫画家の根本敬は、山野の描き出す不幸のどん底を「逆に大乗仏教的ですらある」と評価している。交友のあった編集者の吉永嘉明も著書の中で「山野一さんは、常識的で真面目でクールな人で二枚目の男性だ。ねこぢるよりもむしろ山野さんこそ不思議で、『四丁目の夕日』とか『混沌大陸パンゲア』とか、なんであんな分裂的で過激な作品を描くのかよくわからない。」と述べている。定職に就かない山野の将来を悲観した両親は「田舎の水道局員か警察官になれ」と声をかける事もあったが、山野はこれを拒否し、ついでに自分の単行本を何冊か実家に送りつけ、驚愕かつ落胆した両親から「おちんぽのようなものをあまりハッキリ描いてはいけないよ」と腫れ物に触るような返事をよこされたという。この件について山野は「それまで自分の仕事の内容を、親に伝えることはなかった。それをいきなり著書を送りつけられ、それには目を覆いたくなるような内容が、執念深く描き込まれていたわけだから、気の毒な話だ。一人息子はすでに十分おかしくなっていると思っても不思議はない。五十になった今思い返してみるに、本当に気が狂っていたような気もする。」と後年回想している。以後、1990年代半ばまでに発表された複数の短編や長編『どぶさらい劇場』でも、同様に念入りで滑稽な表現を伴いながら、貧乏あるいは不自由な状態に置かれ、「とことん抑圧」される人物が主な役割を果たしている。その一方で、1980年代後半の作品として、短編「のうしんぼう」のように、不明瞭で非現実的な生活の光景を丹念に描いたものがある。また、「大日如来」による「救済」についての短編「荒野のガイガー探知機」のように、仏教の象徴を描き、仏教の用語を使用している作品がある。その一方で、人物の現実認識の変調あるいは幻覚体験を題材とする作品もある。1990年代には『月刊HEN』『月刊FRANK』『漫画スカット』『純情エンジェル』『S&Mスナイパー』(現在すべて休廃刊)など複数のエロ本で短編を発表している。また、『コミックスコラ』『リイドコミック』『グランドチャンピオン』などの一般向け青年誌でも作品を発表している。現代社会を舞台とするオムニバス作品『カリ・ユガ』の一部のエピソードでは、ヒンドゥー教の用語が用いられ、宗教的な世界観や象徴が表現されている。それらの特徴に加えて『コミックスコラ』誌上に全28回に渡って連載された「山野一」としては最後の長編作品となる『どぶさらい劇場』では、神の世界など特殊な描写も交えて新興宗教の活動と終焉を壮大なスケールで描いている。吉永嘉明は著書の中で山野の作風と、ある種のカタルシスについて次の様に述べている。一方、山野は鬼畜漫画を描き続ける理由に関して自分なりの解釈をインタビュー形式で以下の様に答えている。このように「山野一」として創作活動を行う一方で、山野の漫画に感銘を受け、1985年頃に押しかけ女房のような形で結婚した妻のねこぢるが「作・山野一 画・ねこぢるし」の共同名義で『ガロ』誌上に『ねこぢるうどん』を発表して1990年に漫画家デビューする。ねこぢるのデビュー以降、山野はねこぢるの「共同創作者」として裏方の役割を務めるようになり、ある時期からねこぢるの創作を全面的に補佐することが山野の主な活動となった。二人には「極めて微妙」な役割分担があり、ねこぢるの発想やメモをもとに山野がストーリーをネームにして書き起こし「読める漫画」にまで再構成する役割などを担った(山野はこの作業を「翻訳」と述べている)。これらの連作は、ねこぢる自身の夢の中の体験を基にした支離滅裂で不条理な展開やドラッグ中毒のようにサイケデリックな描写が特徴的である。しかし、可愛らしくデフォルメされた絵柄とは裏腹にシュールを通り越して最早狂気の域に達している無邪気で残酷なストーリーとのギャップに若年層の支持も集めて一躍ねこぢるムーブメントが起こる。その結果、ねこぢると山野は作品の量産を強いられる事になり、仕事の依頼を断ることなく寝る間もなく作品を描き続ける事になったが、次第にねこぢるは精神が不安定となり奇行が目立つようになる。そして1998年5月10日、東京都町田市の自宅でねこぢるは首吊り自殺を遂げた。ねこぢるの死後、1998年の末から、ねこぢるが記録していた「夢のメモ」を元に山野がねこぢるの様式で描いた作品を、「作・ねこぢる 画・山野一」の共同名義で発表する。以後、ねこぢるから継承したキャラクターを用いてねこぢるの様式で描いた漫画作品を「ねこぢるy」の名義で発表し始める。山野は文芸雑誌のインタビューで「ねこぢる」と「ねこぢるy」の違いについて「"ねこぢる"作品はねこぢるを山野がサポートしてできたものです。"ねこぢるy"作品は山野が単独でねこぢるのキャラクターを使用しているものです。」と答えている。『ガロ』2000年1月号から2002年10月号(休刊号)まで「ねこぢるy」の名義で『ねこぢるうどん』を連載するが、2002年冬に活動の場であった『ガロ』が休刊、作品発表の場を失った事で一時期漫画家を廃業に追い込まれる。その後、消息も途絶えていたが2007年から創造学園大学芸術学科漫画コースの講師として2年間勤務する。2010年には画家としての活動も開始、発表済みまたは発表予定の絵画作品には、全てねこぢる及びねこぢるyの漫画作品のキャラクターである「にゃーこ」と「にゃっ太」が登場している。2013年、『ねこぢるyうどん』の3巻以来11年ぶりとなる漫画単行本『おばけアパート前編』を「ねこぢるy」の名義で上梓、漫画家活動を本格的に再開する。私生活では2006年に再婚し、2008年6月26日に双子姉妹が誕生する。新しい家族との生活は2014年からKindleストアで個人出版されている描き下ろし育児漫画『そせじ』(山野一名義)に描かれている。これは山野一名義の漫画作品としては実に15年ぶりの新作となるが、かつての山野作品とは一線を画した愛らしいほのぼのとした作風となっており、山野は「元・鬼畜系漫画家」と紹介されている。山野によると、ねこぢるの最初の漫画は、ねこぢるが「チラシの裏など」に描いていた「奇妙なタコのようなネコの絵」をモチーフとして、山野がストーリーを書くことから始まった。二人には「極めて微妙」な役割分担があり、外部の人間をアシスタントとして入れることができなかったため、山野がねこぢるの「唯一の共同創作者」であった。初期のねこぢる作品である『ねこぢるうどん』では、『ガロ』1992年2・3月合併号まで掲載時に山野が原作者としてクレジットされていた(以降「ねこぢる」名義に統一)。また、1980年代の山野作品に描かれていた物が、ねこぢる作品の中に現れることがある。他方、1990年代前半の山野作品である「カリ・ユガ」や「どぶさらい劇場」に、ねこぢる作品のキャラクターである「にゃーこ」や「にゃっ太」の絵が描かれている箇所がある。ねこぢるのルポルタージュ漫画作品『ぢるぢる旅行記』では、ねこぢると「旦那」の二人によるインドやネパールでの旅が描かれている。また、ねこぢるが自身の私生活を題材とした作品『ぢるぢる日記』にも、「鬼畜系マンガ家」である「旦那」が登場している。ねこぢるの死後、山野は雑誌に寄稿した「追悼文」の中で、ねこぢるの創作的な感性と可能性について、「ねこぢるは右脳型というか、完全に感性がまさった人で、もし彼女が一人で創作していたら、もっとずっとブッ飛んだトランシーな作品ができていたことでしょう」と評価している。また、1998年5月以前の自身の活動については、「私も以前は、だいぶ問題のある漫画を描いていたものですが、“酔った者勝ち”と申しましょうか…、上には上がいるもので、ここ数年はほとんどねこぢるのアシストに専念しておりました」と打ち明けている。一方、同じ頃に他の雑誌に寄稿した「読者のみなさんへ」と題する文章の中では、ねこぢるの死について、「故人の遺志によりその動機、いきさつについては、一切お伝えすることができません」と明言すると共に、「生前、彼女が作品化するため、書きとめていた夢のメモを、私がいずれ描くことで、読者の方々への説明とさせていただきます」と述べている。後に山野は、ねこぢるが見た夢の内容の記録である「夢のメモ」に基づく漫画作品を、ねこぢるの作画様式に従って描いた。それらの作品は、「作・ねこぢる 画・山野一」という名義で発表された。その後、山野は「ねこぢるy」の名義で漫画の創作を始めた。山野は、ねこぢる作品の主要なキャラクターを受け継ぎ、ねこぢるの創作様式を踏襲する一方で、コンピュータによる作画を全般的に採り入れた。多くの単行本が2000年代前半までに絶版になり、文庫が出版されていた『四丁目の夕日』以外は入手困難である。一部の作品は成年コミックに指定されている。この表では、「山野一」の名義で発表された漫画作品のうち、現在まで単行本に収録されなかった作品を示している。
出典:wikipedia
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