禹 範坤(ウ・ポムゴン、, 1955年2月24日 - 1982年4月27日)は、1982年4月26日から翌日にかけて、韓国南部の慶尚南道宜寧郡宮柳面で57人(55人、56人、61人などの説もある)を殺害、35人に重軽傷を負わせた事件を起こした犯罪者である。禹は全羅南道務安郡出身で、生家が貧しかったことから海兵隊員を経て1978年に警察官試験に合格。その後京畿道やソウル市内の警察署勤務を経験した後、同郷の先輩の推薦から青瓦台警備担当となるが勤務態度が不良だったことから事件の数ヶ月前に宜寧郡へ左遷の形で転属させられていた。事件発生直前には2ヶ月ほど女性と同棲していたが、結婚資金が無いことから結婚式を挙げることが出来ず二人の関係もあまり好くなかった。1982年4月26日、警察官である禹は酒に酔って帰宅したところ、同棲していた女性が禹の胸に止まったハエを取るために叩いたことがきっかけとなって口論になり、宜寧警察署宮柳支署(現在の宮柳治安センター)へ戻るなり武器庫に入り込んでウイスキーを多量に飲み泥酔状態となった。そして午後9時30分頃、武器庫からM2カービン銃2丁と実弾180発、手榴弾7発を持ち出した。禹は、まず警察署の近くにある郵便局に押し入って電話交換手3人をカービン銃で射殺した。その後に路上に飛び出して近隣の5つの集落の家々を次々に回り、手当たり次第に家人に対してカービン銃を乱射し、また閉店前の市場など人の集まる場所に手榴弾を投げ込み、爆発で驚いて表へ飛び出してきた人達に対してカービン銃を乱射して次々と村人を射殺した。結局、禹は翌日の午前2時頃まで付近一帯をカービン銃を乱射して回り、虐殺の限りを尽くして5集落合計56名の人々を殺害した。禹がまず最初に郵便局に押し入って電話交換手をカービン銃で射殺したのは外部との連絡を絶つ為であり、これにより、この無差別大量殺人の一報が外部に伝わったのは、事件発生後1時間以上も経った午後10時40分だった。そして武装警官が被害の発生した現場へ到着したのは、さらに遅れて午後11時50分頃となったが、この時には既に禹は付近の集落での殺人をほぼ終えた後であり、警察の対応は完全に後手に回ったかたちとなってしまった。武装警察隊が到着したのち禹は武装警官により山に追い込まれた。日付が変わって4月27日午前5時30分頃、禹は残りの手榴弾2発の安全ピンを抜くと、最後の犠牲者となった人質3名を抱きかかえて自爆した。現職の警察官による大量殺人に加え初動捜査の遅れから被害を拡大させたとの非難が高まり、当時の劉彰順内閣の責任ばかりか政権を掌握したばかりの全斗煥大統領への非難にまで及ぶ恐れもあった。このため徐廷和内務部長官が事件発生直後に辞任し、後任として盧泰愚が就任したことで盧にとっては政界への足掛かりをつかむ第一歩となった。また当時の宜寧警察署長が事件発生中に遊興で不在だったことから職務怠慢で起訴されたものの、最終的には無罪が確定している。
出典:wikipedia
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