御手洗(みたらい)は、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島(広島県呉市)の港町。1994年(平成6年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定された(全国で38番目の選定)。瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の一つ、大崎下島の東端に位置する港町である。御手洗港の周りを広島県道355号大崎下島循環線が通り、その背後に向かって町屋が広がる。北西方向に大長地区がある。東側が愛媛県今治市の岡村島になり、安芸灘オレンジラインによって結ばれている。また呉市本土は安芸灘とびしま海道で結ばれているため、本州とは陸続きであると言える。旧豊田郡豊町御手洗。瀬戸内海国立公園内に位置する。「御手洗」の名の由来はいくつか伝承として残っている。中世、この地にはなんらかの軍事的な拠点があったと推定されている。伊予国河野氏に属していた来島村上氏(村上水軍)はこの地にあった「海関」で警護についていた。戦国時代中期、御手洗沖で三島水軍大祝氏と周防国大内氏が幾度か合戦を起こしている。天正13年(1585年)四国攻めの際には加藤清正がこの地に前線基地を設けたと伝承に残り、その石垣が現存する。古代において政府は、太宰府そしてその先の大陸を結ぶ交易ルートとして、更に荘園からの年貢や租税の運搬ルートとして、瀬戸内海に航路を作り港を整備した。当時の和船は艪漕き中心であったため、“地乗り”つまり陸沿いルートで港が整備された。交易ルートが確立すると海賊も横行し、時が経つと水軍が創設され戦も起こった。江戸時代にはいり泰平の世になると、危険を避けるための地乗りから、瀬戸内海中央部を航行する“沖乗り”ルートが開発されていった。ただ当時の和船は一枚帆で追い風をはらんで更に潮の流れを利用して航行する構造であったため、暴風雨を避け順風を待つ「風待ちの港」上げ潮や下げ潮を待つ「潮待ちの港」が必要であった。寛永年間(1624年から1644年)において、御手洗は農耕地であったが家屋敷は存在していなかった。そこへ風待ち潮待ちとして絶好の地であるここに船が寄港するようになる。当初はこの地の北にある大長村(現在の豊町大長)の民が野菜や水などを売っていたが次第に拡大したため村民は広島藩に“町割嘆願”を出すと、寛文6年(1666年)藩はこれを許可し御手洗港が整備されていった。「港町」御手洗の歴史はここから始まる。寛文12年(1672年)、西廻海運、つまり日本海から瀬戸内海をまわり大阪に至る海運ルートが確立した。これにより御手洗は沖乗り航路の潮待ち港として北前船など廻船が寄港するようになる。さらに藩はここと宮島・尾道の三港のみ他国米の取引を認可したため、広島での米取引の重要拠点となっていく。町は18世紀ごろから急速に発展し、狭い土地であったため数度に渡り埋め立てが行われ港は拡大していき、文政2年(1819年)には“中国第一の港”と自負するほどにまでになっている。当時の寄港船はその他にも、幕府の船や参勤交代の船、オランダ・中国などの外国人や琉球国王の船など、多種多様であった。交易の中で豪商が誕生し、彼らと文人墨客との交流により文化的に成熟していく。俳諧が盛んになり「御手洗連中」と呼ばれるほどとなった。栗田樗堂がこの地に庵を構え俳友らと交流した。広島藩儒の頼杏坪が『松月楼記』を書いたのもこの地である。春秋2回の芝居興行も行われていた。またこの港町には“若胡子屋”“藤屋”“堺屋”“扇屋(あるいは海老屋)”の4軒の待合茶屋による花街が存在した。亨保9年(1724年)藩の認可で若胡子屋が開業、のち堺屋、藤屋、扇屋の順で開業し、18世紀半ば4軒揃った。その営業形態は普通の茶屋に加え、「おちょろ船」と呼ばれる船上に店を出し停泊している交易船などに回って売春や家事もするものであった。当時の御手洗住民の遊女に対する接し方は他とは違いとても大切にする風潮があり、現在でもおいらん公園などにそれを見ることが出来る。記録に残る著名人の滞在は以下のとおり。幕末には薩摩藩と広島藩の密貿易いわゆる「芸薩交易」が始まると文久3年(1863年)広島藩により御手洗がその拠点に指定され、外国船が停泊している。そして慶応3年(1867年)には薩摩藩・長州藩・広島藩の三藩により倒幕同盟が結ばれると、同年11月この地で広島藩諸兵総督の岸久兵衛と長州藩家老の毛利内匠による大阪での倒幕行動の密約いわゆる「御手洗条約」が交わされている。こうした幕末の空気の中で星野文平が生まれ育っている。また時期は不明だが中岡慎太郎、大久保利通もここへ寄港している。こうした繁栄は、明治時代以降汽帆船の登場により風待ち潮待ちの港は必要がなくなり、そして鉄道(山陽本線)の登場により物流も変わったため、この町の存在意義はなくなり衰えていった。瀬戸内海の島嶼部(離島)であったことから、経済成長期の土地開発など無縁で、町並み風情はそのまま残されていった。港町・遊郭の町としては昭和初期までその余韻を残し、当時の“おちょろ”の様子が作品となったものが1976年映画『大地の子守歌』である。ただおちょろ自体は売春防止法施行後消えている。行政としては、明治12年(1879年)豊田郡御手洗村として村制施行、昭和31年(1959年)合併により豊田郡豊町に、平成17年(2005年)呉市に編入された。この中で問題となっていったのが住民の高齢化と過疎化に伴う地区の保存および防災である。1991年平成3年台風第19号により記録的な高潮被害を受けてしまったことが転機となり、地元住民により町並み保存活動が始まり国に働きかけると平成6年(1994年)重要伝統的建造物群保存地区に指定され、これを受けて同年に保存活動を展開した住民たちによる「重伝建を考える会」が発足した。そして町並み保存活動は平成27年(2015年)現在も続いている。平成20年(2008年)には安芸灘諸島連絡架橋(とびしま海道)により呉市本土側と橋を経由して陸続きとなった。元々狭い土地に埋め立てを繰り返しながら拡大していった港町であり、大小の商家・茶屋・船宿・寺社仏閣に、江戸時代に整備された波止・雁木などの港湾施設、網の目のように張り巡らされた道が特徴的な町並みである。町屋は切妻造・桟瓦葺が多く、これに明治期以降に建てられたモダン建築も点在している。江戸時代に栄えた瀬戸内海島嶼部の港町としては漆喰が多くなまこ壁をあしらった豪邸あるが、これは宝暦9年(1759年)この地を大火が襲ったことから、火事対策として普及したもの。間口の大きさで税金をかけていたため、全体的に間口は狭く奥行きが長い構造をしている。江戸時代後期に整備された千砂子波止は、現存のものとしては日本有数の規模を誇る。それら港湾施設と、そこから浜沿いに続く船宿(旅館ではなく問屋)は、近代以前の日本の港町の姿を良く残している。以下、文化財登録されているものを列挙する。以下、文化財されていない主要なものを列挙する。
出典:wikipedia
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