ジョニー・パワーズ(Johnny Powers、本名:Dennis Waters、1943年3月20日 - )は、カナダの元プロレスラー、プロモーター、実業家。オンタリオ州ハミルトン出身。鍛え上げられた肉体から鋼鉄男と称され、また執拗かつ無表情に相手を痛めつける冷徹な試合ぶりから死神の異名をとった。日本ではアントニオ猪木がNWF世界ヘビー級王座を奪取したレスラーとして知られる。レスリングのキャリアを経て、ハミルトンのマックマスター大学在学中の1960年にデトロイトでプロレスラーとしてデビュー。卒業後、本格的にプロ入りし、1964年にフィラデルフィアでブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦して注目を集め、恵まれた容姿・体躯と運動神経でトップレスラーとなった(当時のパワーズは金髪をなでつけたハンサム・ガイであり、北米では "The Golden Adonis" または "The Blonde Bomber" などのニックネームを持っていた)。1965年にはカナダ第一の繁栄マーケットであるトロントに登場、ここでもサンマルチノへの挑戦や、元NWA世界ヘビー級王者ホイッパー・ビリー・ワトソンとの抗争で名を上げた。この年には後に初期の新日本プロレスでパワーズと共に常連となるカール・ゴッチやタイガー・ジェット・シンもトロントに初登場しており、同地やデトロイト等でパワーズとの対戦記録が残っている。これらアメリカ北東部およびカナダの五大湖地区を中心に、1965年から1966年にかけてはNWAの総本山であるミズーリ州セントルイスや、南部の繁栄地であるフロリダにも進出。ルー・テーズやジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦するなど広範囲で活躍し、次期世界王者の有力候補の1人と目された。1966年10月、東京プロレスの旗揚げシリーズに、ミズーリ地区のマッチメイカーでもあったサニー・マイヤースのブッキングで初来日。後にライバルとなるアントニオ猪木と初対決している(シングル戦は一試合のみで、2-1で猪木の勝利)。また、この時の外国人エースであったジョニー・バレンタインとは、1970年代前半に五大湖地区で伝説的な抗争を繰り広げ、ファンを熱狂させることになる。パワーズ自身、後に「猪木とバレンタインとの出会いにより強い影響を受け、自信を与えられた」と語っている。この来日では木村政雄(後のラッシャー木村)とも何度かシングルマッチを行っており、若手の域を出ていなかった木村に全勝している。日本から帰国後の1967年にはAWAに進出。シカゴやミネアポリスに登場してバーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座にも挑戦。クラッシャー・リソワスキーとは金網デスマッチやテキサス・デスマッチ、ルーザー・リーブス・タウン・マッチなどを行い、AWA各地で抗争を繰り広げた。日本で一緒だったバレンタインとはタッグを組み、ハーリー・レイス&ラリー・ヘニングが保持していたAWA世界タッグ王座に挑戦している。日本では出版物等の記述からローカルレスラーといわれることもあるパワーズだが、このように1960年代は米マットの主要3団体を縦断して活躍していた。1960年代末にはオハイオ州クリーブランドを主戦場とするようになり、五大湖地区以外への遠征は少なくなる。北東部の大物プロモーターであったペドロ・マルティネスからの譲渡によりクリーブランドの興行権を取得し、プロモーター業の比重を高めていくと共に、映像制作・販売等の事業も手掛けるようになる。この時期には日本プロレスから遠征してきていた坂口征二とも対戦している。1970年、マルティネスとパワーズはNWAを離脱してNWF(ナショナル・レスリング・フェデレーション)を設立。自らは初代NWF認定世界ヘビー級王者となった(ロサンゼルスにてフレッド・ブラッシーを破り、戴冠したとされる)。同年8月29日にはアクロンにてチーフ・ホワイト・オウルをパートナーに、ダスティ・ローデス&ディック・マードックのテキサス・アウトローズを破りNWF世界タッグ王座も獲得している。パワーズはNWF設立の動機を「オーナー・レスラーになりたかった」「他人に使われるのが嫌いな性分だった」などと語っている。しかし、NWFはNWA傘下のプロモーションだったデトロイトやトロント地区とも提携しており、完全な反NWAの独立インディー団体ではない。世界王座はまもなくパワーズの手を離れたが、NWFはマルティネスの本拠地であるニューヨーク州バッファローとクリーブランドを中心にアメリカ北東部・カナダとテリトリーを拡大していった。選手は前述のジョニー・バレンタインの他、ワルドー・フォン・エリック、アーニー・ラッド、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ブルドッグ・ブラワー、ドミニク・デヌーチ、カール・フォン・クラップ、スタン・スタージャックなどが集結、更にデトロイトとの提携でザ・シークやボボ・ブラジルら超大物も招聘して繁栄マーケットとした。レスラーとしては主にベビーフェイスのエースとして、バレンタイン、ブッチャー、ブラワー、シークらと抗争を繰り広げた。しかし、NWFは1973年に入る頃から徐々に衰退・縮小していった。1973年8月24日、パット・パターソンと組み、NWA認定北米タッグ王座の王者チームとしてロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムに登場、新日本プロレスのアントニオ猪木&坂口征二の挑戦を受ける。1-2で敗れるが、3本目が反則負けであったため、ルールにより防衛に成功した。しかし、これ以前にパワーズとパターソンがアメリカで同王座を獲得・防衛した記録は見当たらないため、この王座はこの試合のため、新日本プロレスの要請で急造されたものといわれている。これと前後して、ブッカーとしてNWF周辺のレスラーを新日本に斡旋するようになった。LAでの北米タッグ戦直後の1973年9月、新日本プロレスに初参戦した。この時はタイトル戦は行わなかったが、同年12月にはパターソンとともに、二度目の戴冠を果たしたNWF世界ヘビー級および北米タッグの二冠王として再来日した。北米タッグ王座は12月7日、大阪府立体育館で猪木&坂口組の挑戦を受け、LAと同様の3本目反則負けの結果で再び防衛した。しかしNWF世界王座は、12月10日の東京都体育館大会にて猪木に2-1で破れ、タイトルを明け渡した。以後、この王座は7年半に渡り、新日本の看板タイトルとなる。この敗戦については、王者としてもプロモーターとしても得意の絶頂にあったパワーズが、慢心のために王座を失ったと語られてきた。しかし実際には、当時のパワーズはNWFの衰退およびサイドビジネスである不動産業の不振によって経済的に行き詰っており、タイトルを1万ドルで売却したとされている。翌1974年1月31日、自身がプロモートするクリーブランドでの対アーニー・ラッド戦にオックス・ベーカーが乱入、当時ベビーフェイスのポジションにいたラッドを滅多打ちにしたことに対し多くの観客が激高し、The Cleveland Riot(クリーブランドの暴動)と呼ばれる騒ぎを引き起こした。それからまもない同年3月には猪木をクリーブランドに招聘してラッドとのNWF戦をプロモートするなどしていたが、1975年初頭を最後に興行団体としてのNWFは事実上消滅する。その後パワーズは、ペドロ・マルティネスが設立に参画し、ミル・マスカラスやルー・テーズらが参加してWWWFと興行戦争を繰り広げていたIWA(インターナショナル・レスリング・アソシエーション)に合流。やがて勢力が衰え主力選手が離脱した同団体を引き継ぎ、ノースカロライナを中心にインディー団体として興行を行っていた。しかし1977年夏頃を最後に、それも休止状態となった。その後はNWFやIWAの運営の経緯から北米のプロモーターに疎んじられていた面もあり、アメリカやカナダでの試合はほとんど行わず、プロレスビジネスとは疎遠となっていった。新日本プロレスには1973年の初参戦以降も、NWF王座の奪回を旗印に、1974年から1977年まではエース格として毎年一度ずつ来日していた。日本では8の字固めともよばれた必殺技パワーズ・ロックを武器に、足を中心に執拗に痛めつける冷酷な試合ぶりから死神と形容され、タイガー・ジェット・シンやアンドレ・ザ・ジャイアントとともに、看板外国人として初期の新日本プロレスを支えた。アントニオ猪木に奪われたNWFヘビー級王座にも1977年3月まで3度挑戦したが、奪回はならなかった(1975年の来日では猪木が負傷欠場のため、挑戦せず)。1977年3月の来日時は、かつてNWFにも参戦したザ・モンゴルズのメンバーだったマスクド・スーパースターやニコリ・ボルコフとともに第4回ワールドリーグ戦に参加。初戦で前年度優勝の坂口征二に勝利する好スタートを切ったが、NWF奪回に専念するためリーグ戦を辞退、4月1日に蔵前国技館にて猪木戦に臨むも敗れ、これが最後のNWF挑戦となった。この試合でも蔵前国技館に9500人の観客を集め、日本でのバリューは衰えてはいなかったが、前述のようにこの年の夏頃を最後に北米でのレスラーおよびプロモーターとしての活動が休止状態になり、しばらく来日間隔が開くこととなる。1979年1月の約2年ぶりの来日では、1月26日に岡山にて坂口征二に敗れ、長く保持していたNWF北米ヘビー級王座を失った。この時までは新日本のマットではシングルのタイトル戦以外でフォールまたはギブアップ負けをしたことはなく、このシリーズのノンタイトルでの猪木戦も引き分けと無効試合で、別格の戦績を誇っていた。しかし同年11月の来日では、新機軸としてテコンドーをベースとした格闘技路線を打ち出すなどしたが精彩を欠き、初対決の藤波辰巳にフォール負け、タイガー・ジェット・シンと初タッグを組んで挑んだ猪木&坂口戦でもあっさりフォールを奪われるなど、戦績も急激に悪化していく。1980年3月31日、当時新日本プロレスと提携していた国際プロレスが後楽園ホールで開催したスペシャルマッチに参戦し、ラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。1966年の東京プロレス以来、14年ぶりに木村と対戦するも敗退し、木村が若手時代の雪辱を果たした。この試合では木村を一方的に攻め込み、健在ぶりも示したが、直後の同年4月に開催された新日本プロレスの第3回MSGシリーズでは、ストロング小林に敗れて予選1回戦負け、さらに敗者復活1回戦でもティト・サンタナに反則負けして予選落ちし、途中帰国。同年11月の第1回MSGタッグ・リーグ戦にはオックス・ベーカー(マスクド・スーパースターの代打)と組んで出場したが、途中帰国による2不戦敗を含む8戦全敗で最下位という結果に終った。1980年はシングルとタッグの両リーグ戦に参加するも、ともに全敗で途中帰国という、かつての看板外国人とは思えない散々な戦績を残し、この年がプロレスラーとして最後の来日となった。その後もタイガー・ジェット・シンと共同でマレーシアでの興行をプロモートするなど、1982年までは東南アジアや南アフリカのマットに上がっていたが、以降はプロレスリング・ビジネスから離れ、実業家として活動する。1990年9月にはアントニオ猪木のレスラー生活30周年記念イベントに出席するため、10年ぶりに来日した。このとき、グレーテスト18クラブ王座の管理者の1人に選ばれている。2003年には "Canadian Pro Wrestling Hall of Fame" にも迎えられた。近年は実業家としての活動の他に、プロレス興行や総合格闘技のプロモート業にも携わっている。2008年3月にアントニオ猪木がIGFゲスト参戦の可能性を口にしていたが、実現には至っていない。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。