花京院(かきょういん)とは、江戸時代の仙台藩・陸奥国領の仙台城下町にあった修験道の寺院であり、同寺に因んだ道路名や地名が当時から現在の宮城県仙台市で使用されている。江戸時代、「花京院」という名の寺院に因んで、隣接する道が「花京院通」と名付けられ、沿道の町名も「花京院通」となった。明治維新により「花京院」は廃寺となるが、「花京院通」という道路名と町名はその後も使用され続けた。1970年(昭和45年)2月1日、国鉄(現JR東日本)の在来線の軌道敷より西側の街区に「花京院」との住居表示が施行された。そのため現在は、住所として青葉区内に「花京院」および宮城野区内に「花京院通」があり、歴史的な道路名として「花京院通」が認定されている状態である。現在、市民の間で「花京院」というと、JR仙台駅西口北側に位置する青葉区内の地名「花京院」を指す。当地は北側の二丁目と南側の一丁目とからなるが、仙台駅に近い一丁目はその南に隣接する名掛丁と共に俗に「X橋周辺」と呼ばれ、戦後の占領期に進駐軍相手のスタンドバーやクラブが軒を連ねる歓楽街となり、その後もインナーシティとなっていた。1970年代半ばから仙台市役所が再開発計画を立案・実施し、現在はオフィスビルや高層マンションが林立する仙台市都心部の1地区となっている。江戸時代の仙台城下町にあった修験道の寺院。現在の良覚院丁公園内にあった良覚院が総触頭となって仙台藩の山伏は統率されており、花京院もその統率下にあった。奥羽越列藩同盟の盟主だった仙台藩は、戊辰戦争の敗北によって大幅な減封処分を受け(参照1・参照2)、1871年(明治4年)の廃藩置県により消滅してしまう。藩の財政的裏付けがなくなった上に、1872年(明治5年)の太政官布達により修験道は廃止され(修験禁止令)、良覚院は廃寺となり、当寺も時を同じくして廃寺となったようである。当寺は、概ね東西道である花京院通に、北から接続する光禅寺通、および、南から接続する茂市ヶ坂により形成される変則四叉路の北西角地にあった。現在は道路が拡幅されているため、花京院通(国道45号)と駅前通りが形成する「花京院交差点」内から同交差点の北西角地の民間のビル辺りにあったと推定される。旧町名による概ねの住所は宮城県仙台市花京院通65、住居表示施行後の概ねの住所は宮城県仙台市青葉区本町1丁目12-1である。仙台城下町では、「○○に通じる道」あるいは「沿道に○○がある道」は「○○通」と称していたため、花京院(寺院名)が沿道にある当道は「花京院通」と命名された(仙台市都心部#町割り参照)。戦後、愛宕上杉通りが建設され銀杏坂が開通すると同道の西端は愛宕上杉通りになり、東端近くでも跨線橋「花京院橋」の設置と山本丁との直結工事がなされた。仙台城下町建設当初は東五番丁までしか城下町の東側は町割りがなされなかったため、花京院通の東端がどこまでだったか不明。1627年(寛永4年)から始まる城下町の拡張に伴い、東五番丁より東側も建設され、概ね上記のような道路が建設されたが、不動前丁と末無掃部丁と鷹新道はのちに建設されたらしい。当道の西端は外記丁南東端に接続し且つ同心町通と直交する変則四叉路を形成し、東端は車町と丁字路を形成していた。花京院通の突き当たりは茂庭周防良元(伊達騒動時の江戸家老)の大屋敷があり、車町はその北にすぐ小田原車通が続き、山本丁が丁字路を形成して東方に延びていたため、東端も変則四叉路とみなすことも出来る。なお、東端近くはやや上り坂となっている。1887年(明治20年)12月15日に、日本鉄道本線(JR東北本線)が宮城県宮城郡塩竈町の塩竈駅(のちの塩釜埠頭駅)まで延伸開業し、同県仙台区(現仙台市)には仙台駅が設置された。同線は、花京院通の東六番丁との交差点(現「宮町一丁目交差点」)から車町との交差点(現「小田原山本町交差点」)までの区間の途中で平面交差したが、その前後は切り通しで建設された。1927年(昭和2年)11月24日に仙台市電循環線の花京院駅が、現「花京院交差点」近くに開業。このとき光禅寺通の南端と停車場前通(当時の鉄道省・仙台駅前から北に延びる道)の北端との間に新道(のちに駅前通りと命名)が建設され、仙台駅前駅〜光禅寺通駅の区間で拡幅が行われた。1946年(昭和21年)12月25日には、仙台市電原の町線が花京院駅〜榴ヶ岡気象台前駅の間で開通。これにより現「花京院交差点」より東側の区間で拡幅が行われたと見られるが、現「花京院交差点」より西側の区間の拡幅時期は不明。またこのとき、筋違いだった当道と山本丁が電車通りとして1本の道に造り変えられた。1951年(昭和26年)12月に、日本国有鉄道(現東日本旅客鉄道)の東北本線や仙山線の上空を跨ぐ跨線橋「花京院橋」が完成した。これによって仙台市電と国鉄線は同橋で立体交差するようになり、同橋西詰めから「宮町一丁目交差点」までの斜道と同橋東詰めから「小田原山本町交差点」までの斜道が設置された。また、戦後に愛宕上杉通りが建設され銀杏坂が開通すると、同道の西端は愛宕上杉通りになった。1953年(昭和28年)5月18日に二級国道111号、1963年(昭和38年)4月1日に一級国道45号に指定された。2003年(平成15年)7月23日より、同道地下でシールドマシンによる共同溝工事が行われている。花京院通(道路名)の沿道のうち、車町と丁字路を形成する東端の一部を除いて花京院通という町名が用いられた。すなわち、花京院通という町名はほとんどが現在の青葉区内にあり、東端の一部のみが宮城野区内であった。1970年(昭和45年)2月1日に仙台市都心部に住居表示が施行され、道路名を沿道の町名にも用いる方式から、道路等に囲まれたブロックごとに町名を付ける街区方式に変更になったが、このとき現・青葉区内にあたる国鉄の軌道敷より西側の花京院通(旧町名)でも施行された。すなわち、駅前通り(「花京院交差点」)より西側が「本町」、同東側が「花京院」という街区の一部となり、新名懸丁より東側かつ国鉄の軌道敷より西側かつ花京院通(道路名)北側が「宮町」という街区の一部となった。1971年(昭和46年)5月1日には現・宮城野区内にあたる軌道敷より東側の花京院通(旧町名)でも住居表示が施行され、国道45号より北側が「小田原」という街区の一部となるが、国道45号より南側の地区には住居表示が施行されなかったため、花京院通という旧町名が今でも使用され続けている。なお、これらの住居表示により、花京院(寺院名)は、本町内に含まれることになった。1970年(昭和45年)2月1日の住居表示施行により、花京院という地名が初めて生まれた。花京院(街区名)は、花京院通(道路名)を境に北側が二丁目、南側が一丁目になった。二丁目は、北を旧長丁(定禅寺通りの延長。市道定禅寺通宮町線)、西を駅前通り、南を花京院通(国道45号)、東を新名掛丁(東六番丁通りの一町西の南北の道)で囲まれる。二丁目の真ん中を南北に空堀丁が貫いている。空堀丁の南側は、花京院通で一丁目の末無掃部丁へと繋がる。新名掛丁は一丁目の掃部丁に繋がる。一丁目は、北を花京院通(国道45号)、西を駅前通り、南を元寺小路、東をJR東北新幹線・東北本線・仙山線の軌道敷で囲まれる。なお、JR軌道敷の東側で、花京院通沿い南側に「花京院通」という地名もある。一丁目を南北に貫く道には、西から末無掃部丁(すえなしかもんちょう)、掃部丁の2本がある。東西に貫く道はないが、駅前通りと末無掃部丁とを繋ぐ小道として市道花京院一丁目1号線が、末無掃部丁と掃部丁とを繋ぐそれとして北から市道花京院一丁目2号線、および、市道花京院一丁目3号線がある。かつては仙台市電・花京院駅も最寄電停だった。
出典:wikipedia
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