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新約聖書

『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: , ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエスを預言者の一人として認めることから、その一部(福音書)が啓典とされている。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。現代で言うところのアンソロジーにあたる。「旧約聖書」「新約聖書」は、新旧の別による「旧いから無視してよい・誤っている、新しいから正しい」といった錯誤を避けるため、旧約聖書を『ヘブライ語聖書』、新約聖書を『ギリシア語聖書』と呼ぶこともある。内容的にはキリストが生まれる前までを旧約聖書、キリスト生誕後を新約聖書がまとめている。旧約、新約という名称そのものに信仰的な意味がある。これは神と人間との古い契約の書が旧約聖書であり、新しい契約が新約聖書という意味である。アウグスティヌスが引用したイグナティウスの「新約聖書は、旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。」ということばは有名である。「新約聖書」という名称はギリシア語の「カイネー・ディアテーケー」()あるいはラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」(Novum Testamentum)という言葉の訳であるが、もとはヘブライ語に由来している。「カイネー・ディアテーケー」という言葉はすでにセプトゥアギンタのエレミヤ書31:31に見ることができるが、ヘブライ語では「ベリット・ハダシャー」(ברית חדשה)である。新約すなわち新しい契約という呼び方は、はじめイエス・キリストによって神との契約が更新されたと考えた初代教会の人々によって用いられた。2世紀のテルトゥリアヌスやラクタンティウスは神との新しい契約を示した書物の集合として「新約聖書」という言葉を用いている。ラテン教父のテルトゥリアヌスは初めてラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」という言葉を用いている。たとえば『マルキオン反駁』3巻14では「これは神の言葉としてうけとられるべき二つの契約、すなわち律法と福音である」といっている。5世紀のラテン語訳聖書(ヴルガータ)では『コリントの信徒への手紙二』3章で「新しい契約」(Novum Testamentum)という言葉が使われている。『新約聖書』の各書はすべてイエス・キリストとその教えに従うものたちの書であるが、それぞれ著者、成立時期、成立場所などが異なっている(そもそも初めから新約聖書をつくろうとして書かれたのではなく、著者、成立時期、成立場所がばらばらな書物をまとめて成立したものとされる)。同じように多くの書物の集合体である『旧約聖書』と比べると、成立期間(全書物のうちで最初のものが書かれてからすべてがまとまるまでの期間)が短いということがいえる。以下は『新約聖書』27書と伝承による記者のリストである。なお各書の呼称は、現代の日本キリスト教においてもっとも広く用いられているであろう『新共同訳聖書』における表記を用い、それ以外の呼称や略称も併記しておく。イエスの生涯、死と復活の記録聖書自身の自己証言と教会の伝承では『マタイ福音書』はアルフェオの子で、税吏であった使徒マタイによって書かれたとされている。『マルコ福音書』はペトロの同行者であったマルコがペトロの話をまとめたものであるという。『ルカ福音書』はパウロの協力者であった医師ルカによって書かれたとされ、『ヨハネ福音書』はイエスに「最も愛された弟子」と呼ばれたゼベダイの子ヨハネが著者であるとされてきた。『新約聖書』は多くの記者によって書かれた書物の集合体である。伝承ではそのほとんどが使徒自身あるいは使徒の同伴者(マルコやルカ)によって書かれたと伝えられてきた。そして、この使徒性が新約聖書の正典性の根拠とされた。たとえばパピアスは140年ごろ、「長老によれば、ペトロの通訳であったマルコはキリストについて彼から聞いたことを順序的には正確ではないものの、忠実に書き取った」と書いたという(エウセビオスが『教会史』の中で、このように引用している)。さらにエウセビオスの引用によればエイレナイオスは180年ごろ、「パウロの同伴者であったルカはパウロの語った福音を記録した。その後に使徒ヨハネがエフェソスで福音書を記した」と記しているという。このような伝承にはなんら現実的な証左はない。近代以降の批判的聖書研究では伝承が著者を示すものではないことが明らかになったと主張される。『新約聖書』におさめられた各書は最初の著者だけでなく、後代の人々によって加筆修正されているとも主張される。加筆部分としてもっとも有名なものは『マルコ福音書』の末尾と『ヨハネ福音書』の「姦淫の女」のくだりである。ルカ以外の3書はいずれもユダヤ戦争中のエルサレム陥落への言及があり、これが70年の出来事であることから、3書の完成はこれを遡らないことが知られる。またルカ書は更に降ってエルサレム神殿の破壊後の完成であることが知られる。またイエスの奇蹟とされる事象には当時の新皇帝ウェスパシアヌスを称揚するために流布された奇蹟譚と類似するものが多い。これらの書が『新約聖書』としてまとめられたのは150年から225年ごろの間であるといわれる。イエスの死後の初代教会の歴史書簡にはさまざまな内容のものが含まれている。歴史的キリスト教会はこれが神の啓示であるとしてきたが、批判的研究では、それらから初期のキリスト教思想がどのように発展していったかをうかがい知ることができると主張される。書簡の中には著者の名前が書かれているものもあるが、高等批評ではそれらは本当の著者というわけではないといわれる。近代以降の高等批評によって、多くの書簡が、著者とされる人物の名を借りた偽作であると主張された。『パウロ書簡』とは使徒パウロの手紙(歴史的キリスト教会がパウロのものとしてきた手紙)の総称である。近代の高等批評では牧会書簡だけでなく、いくつかのパウロ書簡は単にパウロの名を借りただけのものであると主張され、そのようなものは「擬似パウロ書簡」などと呼ばれる。公同書簡とは特定の共同体や個人にあてられたものではなく、より広い対象にあてて書かれた書簡という意味である。各々の書物には伝承の著者たちがいるが、近代以降の批判的研究はそれらが単に使徒の権威を利用するために著者名としてその名を冠したと主張した。上記の27書以外にも『新約聖書』の正典には含まれない文書群があり、外典と呼ばれる。時期や地域によってはそれらが正典に含まれていたこともある。イエス・キリストと弟子たちによって用いられていた言葉はアラム語であった(ヘブライ語という説もある)。しかし『新約聖書』のほとんどの書は「コイネー」と呼ばれる1世紀のローマ帝国内で広く用いられた口語的なギリシア語で書かれている(「アチケー(アッティカ擬古文体)」と呼ばれたエリートや学者たちが使った古典ギリシア語は用いられていない)。その後、早い時期にラテン語、シリア語、コプト語などに翻訳されて多くの人々の間へと広まっていた。ある教父たちは『マタイ福音書』のオリジナルはアラム語であり、ヘブライ書もヘブライ語版がオリジナルであったと伝えているが、現代の聖書学ではその説を支持する学者はきわめて少数である。近代以降の聖書学は、聖書の文献学的高等批評研究によってオリジナルの姿を見いだそうと努めてきた。福音書の資料と相互の参照関係の解明は重要な課題である。現在、多数の研究者の見解は『マルコ福音書』が最初に書かれ、『マルコ福音書』と他の資料(後述のQ資料)をもとに『マタイ福音書』と『ルカ福音書』が書かれ、『ヨハネ福音書』が最後に書かれたという説である。まず、『マタイ福音書』、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』には共通する内容が多いため「共観福音書」と呼ばれる。一方、『ヨハネ福音書』は共観福音書とは異なる視点からイエスを描き出し、独自のエピソードや言葉を盛り込んでいる。共観福音書がなぜ共通点が多いのか、共観福音書は互いをどのように参照したのかという問題をまず解決することが著者を特定するための第一歩となる。そもそも福音書は一人の人間、イエスを実際に知る四人によって執筆されたものなのか?あるいは個人によって書かれたものがグループによって補完されたのか?『福音書』は短期あるいは長期に書かれたのか?などといった問題から考えることになる。現代の聖書研究でもっとも広く支持されている仮説は二資料仮説である。それは『マタイ福音書』と『ルカ福音書』が、『マルコ福音書』およびQ資料と呼ばれるイエスの言葉資料をもとに書かれたという見方である。Q資料のQとはドイツ語のQuelle(クベレ)すなわち「資料」を意味している。Q資料がどんなものであったのかという議論はいまだに決着を見ていない。多くの学者たちはQ資料という単独の資料があったと考え、少数の学者たちはQ資料というのは複数の文書資料と口伝資料の集大成であると考えている。ただ、あくまでQ資料の存在は仮説にすぎず、その存在を疑うものもあり、資料そのものについてもよくわからないため、その著者にいたっては何も情報がない。ある人々は語録の形式を取る外典『トマスによる福音書』がQ資料である(あるいはそれに近い)と考えている。現代の高等批評はパウロの七つの書簡(後述)を除いて、『新約聖書』の諸書が使徒の手で書かれたとは考えていない。近代的な聖書研究が始まった18世紀以前のキリスト教では(『ヘブライ人への手紙』の著者がパウロかどうかを除いては)著者の伝承に関してまったく疑義がもたれていなかった。ただ、現代の聖書学者でもシェーウィン・ホワイト(A. N. Sherwin-White)、F・F・ブルース(F.F. Bruce)、ジョン・ウェンハム(John Wenham)、ゲーリー・ヘーバーマス(Gary Habermas)などは、新約聖書に書かれていることや伝承は決して根拠のないものではないため、比較的信頼しうるのではないかという立場に立っている。特にジョン・ロビンソン(John A.T. Robinson)にいたっては『新約聖書』の成立は現代の定説よりも早く、著者に関する伝承もすべて真正であるというきわめて伝統的な立場に立っている。高等批評学者たちによっても真正であると認められるパウロの七書簡とは、『ローマの信徒への手紙』、『コリントの信徒への手紙一』、『コリントの信徒への手紙二』、『ガラテヤの信徒への手紙』、『フィリピの信徒への手紙』、『テサロニケの信徒への手紙一』、そして『フィレモンへの手紙』である。『テサロニケの信徒への手紙二』、『コロサイの信徒への手紙』、『エフェソの信徒への手紙』に関しては今でも意見が分かれている。『テモテへの手紙一』、『テモテへの手紙二』と『テトスへの手紙』は、福音主義的な神学者たちは真正であると考えている。現代において『ヘブライ人への手紙』がパウロのものであると考える学者はまずいない。『ヘブライ書』の著者の問題は実に3世紀から議論されていた。パウロ書簡以外の書物の著者の問題についても結論は得られていない。また四福音書の「著者」はもともと伝承に由来するものである。批判学者の間では、福音書と手紙を含むヨハネ書簡に関しては初代教会の中にあった「ヨハネ教団」ともいうべきグループに由来するということで意見が一致している。『ヨハネの黙示録』が「ヨハネ教団」に由来するものかどうかは意見の一致を見ていない。聖書学者たちの多くは外典の著者の真正さについても疑義を示している。たとえばナグ・ハマディ写本におさめられた『トマスによる福音書』、『フィリポによる福音書』などがあるが、学者たちはそれらの原本は2世紀前後に書かれたもので、その名前がついている使徒による著作ではないと考えている。聖書研究、特に福音書や史的イエスの研究においては研究者の視点が大きな意味を持つ。すなわち、ある個人の経験や宗教的信条、信念といったものがそのまま研究に投影される。たとえば福音書の研究についていうなら、歴史的なアプローチはもちろん、カトリック、プロテスタント、正教それぞれの視点から、ユダヤ教の視点から、社会科学的な視点から、フェミニズムの視点からなど、さまざまな立場からの研究が行われる。史的イエスに関する過去25年間の研究だけでもさまざまなものがあり、互いに矛盾しあうものすらある。しかしこのような幅の広さには個人のイエスに関する見方の限界を越える力があるし、そのような見解の違いによる議論が多くの結果を生んできたことも事実である。伝承によれば、もっとも早い時期に書かれたのはパウロの手紙であり、最後に書かれたのは使徒ヨハネの書いたヨハネ文書であるという。使徒ヨハネは長命し、100年ごろ死んだという伝承があるが、史的裏づけはなにもない。エイレナイオスは185年に「マタイ福音書とマルコ福音書はペトロとパウロがローマに滞在中に書かれた」というが、それに従うと60年ごろになる。『ルカ福音書』はそれよりわずかに後に書かれたという。現代においてこのような見方を支持するのは聖書の無誤性を信じる聖書研究者たちである。現代の多くの聖書学者たちはいくつかの書簡を除けば新約文書の成立時期に関しては意見の一致を見ている。たとえば福音書の成立時期でもっとも広く受け入れられているのは、65年ごろ、最初に『マルコ福音書』が、『マタイ福音書』が70年から85年にかけて、『ルカ福音書』が80年から95年の間に成立したという説である。新約文書の中でもっとも早く書かれたとされるのはパウロのテサロニケの信徒への手紙一で51年ごろと考えられる。また、少数意見ではあるが、ガラテヤ書に関しては49年という説もある)。高等批評では使徒の名を冠した公同書簡については70年から150年の間に成立したと見られている。高等批評の見解では新約文書でもっとも遅く書かれたのはペトロの手紙二であるとし、聖書自身が主張する使徒ペトロの記者性が明確に否定される。少数意見だが、ジョン・ロビンソンは『新約聖書の成立をめぐって』("Redating the New Testament

出典:wikipedia

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