永谷 宗円(ながたに そうえん、延宝9年2月8日(1681年3月27日) - 安永7年5月17日(1778年6月11日))は、山城国宇治田原郷湯屋谷村(現・京都府綴喜郡宇治田原町湯屋谷)の農家。「青製煎茶製法」を発明し、煎茶の普及に大きな功績を残したと伝承されている。永谷家の先祖は同じ宇治田原の糠塚村の土豪で、文禄元年(1592年)に湯屋谷に移り住んで農業に携わる一方、湯山社を祀っていた。宗円の名はもともと宗七郎義弘といい、入道して宗円と称した。三之丞ともいい、直系の子孫は代々「三之丞」を襲名していた。湯屋谷では茶業のみならず、湿田改良などの事業を行い、村人を指導する立場であったらしい。宗円が新しい煎茶を編み出す以前に日本でつくられ、飲まれていた武家を中心とした上流階級に当時持てはやされていたお茶は、覆い下でやわらかく育った新芽だけを摘んで蒸し、焙炉の上で乾燥させてつくった碾(てん)茶を臼で挽いた抹茶であった。この抹茶製法の基礎は、栄西禅師が中国の宋から伝え、抹茶は室町時代以降、茶の湯の文化として全国に広まった。一方、大多数の庶民が日常口にしていたお茶は、古葉と新芽を区別せずに摘採し、炒る、煮る、蒸すなどの殺青操作を加えた後、ムシロや揉み板に広げて手足で揉み(あるいは揉まずに)、天日で乾燥させるという方法でつくられていた「煎じ茶」であった。このうち、釜で炒り、揉み、乾燥させてつくったものは中国より伝来の「釜炒茶」、揉まずに乾燥させたものは「日干番茶」系統に属する。茶の色は「釜炒茶」は黄色や茶色、その他のお茶は茶色や赤黒い色で、今から見れば全く粗末なものだった。湯屋谷村の近郊である宇治は、当時、碾茶栽培の先進地で天下一の茶どころであったが、当時、高級な碾茶栽培(覆い下栽培)は、宇治の特定の御茶師にしか許されてはいなかった。宇治では古くから碾茶を製する際に選り除いた葉柄・支脈を「折物」と言い煎じて飲んでいた。これらは揉捻をしていないため、適当の濃度にするため煮沸する必要があり、水色(すいしょく)は黄色であったが、甘味があり特有の香りを有している。この風味からヒントを得、碾茶製法の蒸す、焙炉で乾燥するという工程を煎茶に応用し、それに、釜炒り工程やむしろの上で行っていた粗雑な揉捻作業を焙炉上で丁寧に揉むよう工夫していったのが、新製品の誕生に結びついたとされる。こうして、元文3年(1738)、宗円は露天栽培のやわらかい新芽だけを用い、蒸してから焙炉上に設けた助炭の上で始終手で揉みながら乾燥させるという新しい煎茶を編み出したのである。当時、宗円58歳、15年に及ぶ苦心の結実であった。助炭の上で手で揉む技術は、従来の釜炒り工程やムシロの上で行っていた揉捻とは大きく異なり、飛躍的に進歩・改良されている。従来の煎じ茶でのムシロの上で揉んだり、天日乾燥という方法では、揉む工程と乾燥工程が別々で、茶葉の水分の調節が難しく、水分が多くてぐしゃついたり、表面だけ乾燥が進みすぎる上乾き、葉が蒸れるなど品質を劣化させ、ムシロ臭や日向(ひなた)臭などが、茶本来の香りを損ねていたと思われるが、宗円は、蒸した茶の葉を焙炉上に架した助炭の上で揉みながら一定の速さで乾燥を進める「恒率乾燥」の揉み方を編み出すことにより、お茶本来の色、香味を引き出すことに成功した。この製品の形は針状に細くよれ、色沢は鮮やかな濃緑色、水色(すいしょく)は澄んだ黄緑色で、適度の渋み、苦みに、旨味、甘味が調和した、形、色、香味ともに優れた煎茶を作り出したのである。この新製品は後に色沢や水色の特徴から「青製煎茶」、発祥の地から「宇治製煎茶」 と呼ばれるようになった。宗円は新製煎茶の真価を、当時文化の中心地であった江戸に問い、その販路を開拓しようと試み、元文3年6月2日、宗円は脚半甲掛に足を固め、草鞋の紐とともに心も強く引き締めて、東海道をさして踏み出した。江戸に到着した宗円は、新製煎茶を茶商へ持ちまわったが、これまでの茶色い煎じ茶とあまりにも異なるため、誰も買い入れようとはしなかった。最後に日本橋の茶商山本屋を訪れたところ、当主の山本嘉兵衛の目に留まった。白い茶碗で試してみると、その美味に感嘆し小判3枚で買い取り、さらに翌年の購入を約束した。そして、これに「天下一」と名付け販売すると大いに江戸町民の賞賛を得、爆発的な人気を呼んだ。茶商山本屋の名声はこのために大いに揚がり、山本家は永谷家にお礼として毎年小判25両を明治8年まで贈り続けたという。「元文三年秋、山城国綴喜湯屋谷の人永谷宗円なるもの、始めて梨蒸煎茶なるものを発明し、佳品若干斤を携え、江戸に来たり、試売を四世嘉兵衛に乞う。その品質の佳良にしてその味の美なるあたかも甘露の如しと。これを発売するや家声大いに揚り、八百八街到る処としてこれを愛喫せざるものなきに至れり。これ江戸市民が宇治茶を愛用せるの濫觴(らんしょう)なりとす。}(『山本家旧記』)このようにして、新製煎茶の販路拡大の第一歩は成功し、煎茶が江戸の民衆の中に浸透、定着していった。宗円は自らが考案した青製煎茶の製法を惜しむことなく近在の人々に伝授していったようである。翌年、宗円近隣へ製教し近村近郷迄も伝授せられける、家族共云ふ、「製茶時には人数に手支致すれば余り手広に教へ玉ふな」と申しければ、宗七郎(宗円)曰く「類を以て集の習、国中一般とも弘(ひろま)り終ば、外国より聞伝へ類輩入込、人数等に少しも不自由無之心配に不及」申され候(『古今嘉木歴覧』)つまり、宗円が余りにも多くの人々に製法を教えるので家族が製茶時の労働者不足を憂慮したところ、当人は国中へ広まれば、次は(山城の)国外より習いたい人が来るだろう。少しも心配しなくてもよいと答えたという。新製品の開発もさることながら、その技術を自分ひとりだけのものとせず普及に努めたことも、宗円の大きな功績といえる。やがて、宗円の新製煎茶すなわち宇治製煎茶はひろく伝播されていった。宗円が考案した元文3年(1738)から4、5年のうちに湯屋谷では7、8軒が宗円同様の茶を製するようになった。1742年には同じ宇治田原の大道寺村においても製せられ、以降宇治田原の各地や宇治へと広まっていく。寛延年間(1748~51)には相楽郡和束へ、宝暦年間(1751~64)には、国境を越え近江国信楽・政所へと伝えられる。寛政年間(1789~1801)から19世紀に入ると、宇治製煎茶は近畿各地の茶産地に広まり、天保年間(1830~44)には伊賀や駿河など、全国の茶産地に徐々に広まっていった。各茶産地では茶業者を宇治へ派遣するか、あるいは宇治から茶師を招いて宇治製法を習得し、煎茶の品質を大きく向上させたのである。その後、横浜開港と同時に煎茶の輸出が盛んとなり、生糸とともに輸出産業として栄え、全国の茶産地に好況を呼ぶことになった。遅ればせながら宇治製法を導入した産地も多く、明治初頭までにはほぼ全国に普及するに至った。そして、現在では機械化されているが、日本煎茶の大部分は宇治製法によるものであり、宗円の製法は今も脈々と受け継がれている。宗円は安永7年(1778年)に98歳で天寿を全うした。宗円の子孫の一人は東京で「永谷園」を創業した。直系の子孫である三之丞家は明治に宇治市六地蔵に移転し、現在9代目が茶問屋「永谷宗園」を継いでいる。宇治田原町湯屋谷の、永谷家のあった場所には製茶道具やほいろ跡を保存する施設「永谷宗円生家」が昭和35年(1960年)に建てられ、それに隣接する大神宮神社には昭和29年(1954年)、宗円が「茶宗明神」として祀られている。
出典:wikipedia
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