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中村勘三郎 (17代目)

十七代目 中村 勘三郎(じゅうしちだいめ なかむら かんざぶろう、1909年(明治42年)7月29日 - 1988年(昭和63年)4月16日)は、昭和に活躍した歌舞伎役者。屋号は中村屋。定紋は、替紋は。本名は波野 聖司(なみの せいじ)。初代中村吉右衛門と六代目尾上菊五郎の双方に師事し、女形・立役をともにこなす名優だった。1909年(明治42年)7月29日、三代目中村歌六の三男として生れる。長兄の初代中村吉右衛門と次兄の三代目中村時蔵がともに歌六の妻・かめ(旧姓小川)の所生だったのに対し、聖司は妾の山本とし所生の子で、しかも年が離れていたために、幼い頃はよくいじめられたという。その初代吉右衛門や六代目菊五郎、そして七代目坂東三津五郎らが活躍した市村座で聖司は育った。1916年(大正5年)、三代目中村米吉を襲名して初舞台を踏んだ。初舞台は市村座の『花川戸噂の俎板』の倅長松だった。父の三代目歌六に仕込まれたあとは、長兄の初代吉右衛門に付いて修行した。最初は女形として舞台を勤める。1929年(昭和4年)明治座『碁太平記白石噺』の信夫などで四代目中村もしほ襲名。1934年(昭和9年)立役への希望が強く、松竹での役不足などから東宝劇団へ移籍する。東宝劇団には、九代目市川高麗蔵、六代目坂東蓑助、五代目片岡芦燕、六代目市川壽美蔵らがいた。1937年(昭和12年)に東宝劇団が解散すると、しばらく関西歌舞伎に籍を置いていた。この関西歌舞伎時代には、二代目實川延若、中村魁車、三代目中村梅玉らと舞台を共にしたが、この間に立役としての実力をつけた。のち松竹へ復帰。1944年(昭和19年)には六代目尾上菊五郎の長女久枝と結婚した。その当時は本土空襲が激しさを増していたさなかだったため、久里浜に疎開していた。1950年(昭和25年)1月、長らく絶えていた「中村勘三郎」の名跡を再興する形で十七代目を襲名し、新たに中村屋を興す。以後、六代目菊五郎と初代吉右衛門の芸風を吸収し、時代物と世話物、上方と江戸、立役と女形、古典と新作など、種別を問わない広い芸を身に着けた。戦後は活動の主軸を吉右衛門劇団におき、女形出身らしい柔らか味と、明るくも円やかな人情味、さらに愛嬌あふれる芸風によって人気を博した。生涯通算800役以上を勤め、ギネスブックに登録されたという逸話も持つ。映画やテレビドラマへの出演経験もあり、歌舞伎界の枠に囚われない活動も見せている。1988年(昭和63年)1月歌舞伎座『平家女護島』「俊寛」の俊寛僧都を7日間勤めたのが最後の舞台となった。同年4月16日、縦隔腫瘍の悪化により東京女子医科大学病院で死去、78歳だった。墓所は西徳寺(東京都台東区)。戒名は「秀峰院釋聖鏡大居士」。後従三位と勲一等瑞宝章が追贈された。十八代目中村勘三郎は長男、新派の波乃久里子は長女、六代目中村勘九郎と二代目中村七之助は孫。

出典:wikipedia

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