ジョー・カルザゲ(Joe Calzaghe、男性、1972年3月23日 - )は、イギリスのプロボクサー。第12代IBF世界スーパーミドル級王者。元WBA・WBC・WBO世界スーパーミドル級スーパー王者。2007年11月3日のミッケル・ケスラーとのWBA・WBC・WBO世界スーパーミドル級王座統一戦を制し、主要4団体(WBA・WBC・IBF・WBO)の実質的な統一世界王者となった。46戦46勝(32KO)無敗という戦績で引退したカルザゲは、リカルド・ロペス、ロッキー・マルシアノ、スヴェン・オットケに続き4人目の無敗のまま引退した元世界王者である(概要参照)。本名はジョゼフ・ウィリアム・カルザゲ(Joseph William Calzaghe)。イタリア人とイギリス人のハーフで、活動拠点をウェールズに置く。恵まれた体格とサウスポースタイルを活かした、スピーディーでスキルフルなスタイルを持つ。イギリスを代表するスポーツ選手の1人であり、常にパウンド・フォー・パウンドの上位にランクされたスーパーボクサー。2階級制覇の元世界王者リッキー・ハットンとともに、レノックス・ルイス引退後のイギリスのプロボクシング人気を支えていた。姓のカルザゲ(Calzaghe)とは、ラテン語のカルタゴ(Karthago)を意味する。サウスポースタイルから最大の武器は速射砲のような猛スピードの回転連打であり、手打ち気味でパワーには欠けるものの、その驚異的な手数で対戦相手を圧倒する。そのスタイルは、WOWOWの『エキサイトマッチ』で解説を務めるジョー小泉いわく「現代ボクシングに適したスタイル」(ホプキンス戦の解説にて)。10年間以上にわたりスーパーミドル級の世界王者に君臨。2009年2月、プロ46戦全勝32KOのパーフェクトレコードを残し現役を引退した。無敗で引退した王者は、ボクシング史上でリカルド・ロペス、ロッキー・マルシアノ、スヴェン・オットケに続き4人目である。ジョー・カルザゲの父で彼のトレーナーでもあるエンツォ・カルザゲはイタリアのサルデーニャで生まれたイタリア人だが、ウェールズ人と結婚し長い間イングランドに住んでいた。ジョーが2歳の頃、母の生まれ故郷であるウェールズに引越し、現在も在住している。スポーツ万能であった彼は幼少の頃からサッカーに励み、さらに9歳の頃からボクシングを始めた。13 - 4歳頃までは彼自身はサッカー選手になりたかったと語っている。だがエンツォは彼にボクシングの才能があることを見抜き、ボクサーになることを勧めた。学生時代は3階級で英国のチャンピオンを獲得している。アマチュア時代の戦績は120戦110勝10敗である。1993年10月1日にプロデビュー。1995年10月28日にスティーブ・ウィルソンを8回TKOで下しBBBofC英国スーパーミドル級王座を獲得。スピードと回転の速い連打と切れのいい左強打を武器に圧倒的な内容と高KO率で連戦連勝を重ね、トップホープとして非常に高い評価を受ける(世界挑戦までの戦績は22戦全勝21KO、19試合が4R以内のKO)。1997年10月11日、シェフィールドアリーナでWBO世界スーパーミドル級王座決定戦に出場し、この前の時代にイギリスにおいて非常に高い人気を誇った元王者クリス・ユーバンクと対戦。この試合は新旧対決として英国内で高い話題を呼んだ。カルザゲは開始15秒ほどでダウンを奪い、早期の決着が予想されたが、ユーバンクが持ち直す。この後老獪なユーバンクとの間で激戦が展開され判定に持ち込まれたものの勝利し、初の世界王座を獲得した。この試合で、パンチ力・スピードに加えて技術・精神力・タフネスも証明する高いパフォーマンスを見せた。しかし初期の防衛戦で慢性化し何度も再発した左拳の負傷は、パンチの威力の鈍りと、パンチと動き全体の思い切りが無くなったことによるパフォーマンスの低下を齎し長らくスランプ状態になる。その後も全ての防衛戦で勝利し長期にわたる王座君臨を続けるが、評価は思うように上がらずに、実力と比べると国際的な存在感は高くはならなかった。WBC王者とのタイトル統一戦も交渉されたが、カルザゲの怪我で実現しなかった。だがその間にも技術や実力は磨かれ、(国内を含む)敵地防衛や(カルザゲの負傷により)分裂したWBO王座の統一戦で暫定王者マリオ・ファイトをKOするなど実績を積み重ねていく。また、リッチー・ウッドホールやロビン・リードの英国の元世界王者やオマー・シカ、チャールズ・ブリューワー、バイロン・ミッチェルなどアメリカで実績を残した選手も破った。2006年6月3日に18度目の防衛戦で、キャリアの大転換点となったIBF・IBO王者ジェフ・レイシーとの統一戦がマンチェスターのMENアリーナで行われた。レイシーの戦績は当時22戦21勝17KO1無効試合で、アグレッシブな若手強打者として潜在力と将来性に期待が掛かっていた。一方でカルザゲにとってはキャリア初の世界的に注目を浴びるビッグマッチであり、下馬評は割れた。激戦が予想された試合だったが、スピードと技術の差でカルザゲが一方的にリードする。12R終了間際にはダウンを奪うが惜しくもゴングに逃げられ、3-0(119-107、119-107、119-105)の判定勝ちを収めIBF王座とIBO王座とWBO王座の統一に成功した。この勝利により懐疑論者の声は薄まり、長期防衛時代の再評価もあり、実力や実績に対し高い評価を受けることになった。また、アメリカで高評価を受けているアメリカ人選手を一方的に破ったことにより、特に低かった同国での評価も得るようになった。この後2度の防衛戦を経て(IBF王座は1度防衛後返上)、現在を代表する名選手と目されていくが、対立王者のWBA・WBCスーパー王者ミッケル・ケスラーとのスーパーミドル級最強決戦を求める声が高くなる。ケスラーの戦績は当時39戦全勝29KO無敗で、長身と懐の深さを活かしながら長い強打を放つ次世代を担う選手との評価は高く「中量級頂上決戦」「欧州の最高選手の対戦」「無敗対決」として高い話題を呼んだ。2007年11月3日にカーディフ・ミレニアム・スタジアムで試合は挙行。この試合はカルザゲ有利の下馬評も激戦が予想された。その予想通り、リング上では両者の死力を尽くした激闘が展開されるものの、カルザゲは右ストレートとアッパーカットを中心としたケスラーの攻撃を凌ぎつつ、ケスラーにはない経験と試合巧者ぶりを見せつけ、スピードと回転を活かした攻撃で明白な判定勝利を収めた。これによりカルザゲはWBA・WBC・WBOの王座を統一(21度目のWBO王座防衛)、スーパーミドル級世界最強の座は揺るぎ無いものとなった(前述のように、すでに返上していたもののIBF王座も獲得しているため、事実上4団体の王座をまとめあげたことになる)。ただ、ケスラーが自分のボクシングを貫きカルザゲと死闘を演じたのも確かであり、カルザゲは試合後に「一年後だったら、私は負けていたかもしれない。私が引退した後のスーパーミドル級は、ミッケルの時代になるだろう」と語った。また、この試合の観客動員数は約53,000人で、欧州のボクシング興行での観客動員記録を更新した。ケスラー戦後には、過去の試合で示してきたトータルの能力に対して高い賞賛を与えられ、リングマガジンなど主要なボクシングメディアにおいてパウンド・フォー・パウンドの上位にランクされるなど現役選手中の最強選手の1人と看做されたり、同級史上最強選手の1人と評されるようになった。2008年4月19日にラスベガス・トーマス&マック・センターで、バーナード・ホプキンス戦がライトヘビー級のウェイトにて行われた。カルザゲは1Rにダウンを奪われるが中盤以降盛り返し12Rを戦い抜き、判定2-1(115-112, 113-114, 116-111)にて辛くも勝利した。2008年11月8日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてロイ・ジョーンズ・ジュニアとライトヘビー級ノンタイトル戦で対戦。ホプキンス戦に続き1Rにダウンを奪われるも、7Rに左目尻をカットさせて有利に進めて12R判定3-0(118-109, 118-109, 118-109)で勝利し連勝を46に伸ばした。2009年2月5日、自身のサイトにて現役引退を発表した。2010年3月28日、コカイン使用疑惑が新聞で報道され、カルザゲはコカインを使用していることを認め謝罪した。彼のファイトスタイルへの認識は、初の世界王座獲得前と数度の防衛戦後で全く分かれる。世界王座獲得前はサウスポースタイルからの左ストレートが鋭く攻撃力の高い速攻型の倒し屋と目されていた。だが世界王座を獲得し拳の慢性的な負傷を経て、キャリア中期以降はスキルフルでスピーディーな技巧派との評価が多い。特徴として、フットワークやボディームーブで常に距離や相手との位置を変える、スピード、回転の速い連打、相手のパンチのインサイドから捉えるサウスポーの左、相手がインサイドに入った時に用いる思うように打て的中率の高いストレート気味のアッパーカット、スタミナが豊富である、タフである、常に冷静である、パンチがオープンになりがちである、どんな相手でも常に自分のスタイルを貫ける、などが挙げられる。
出典:wikipedia
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