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丙子の乱

丙子の役(へいしのえき)は、1636年から1637年にかけて、清が朝鮮(李氏朝鮮)に侵入し、朝鮮を制圧した戦いの朝鮮での呼び名である。中国では丙子之役と呼ばれている。朝鮮の呼称にある胡の字は、古来より漢族が北部や西部の異民族への蔑称として用いていたものであり、胡乱は北西部の蛮族(女真)が乱を起こしたという意味になる。韓国では「朝鮮王朝実録」以来、敵対感が込められた呼称である丙子胡乱 (へいしこらん)が用いられたが、自国中心主義であるとして丙子戦争の呼称も使用されている。17世紀初め、中国全土を支配していた明が衰えを見せ、後金が台頭してきた。1627年、後金は反後金親明的な政策をとっていた朝鮮に侵入・制圧し(丁卯の役)、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結んだ。1636年、後金の太宗ホンタイジ(皇太極)は皇帝に即位し、国号を清と改め、朝鮮に対して臣従するよう要求した。しかし朝鮮の朝廷では斥和論(主戦論)が大勢を占めたため、仁祖は要求を拒絶し、清と戦う準備に入った。清は朝鮮が謝罪しなければ攻撃すると脅したが、朝鮮はこれを黙殺した。これに激怒したホンタイジは朝鮮侵攻を決意する。清との戦いが決定的になると、朝鮮は隣国の日本に援軍を乞う事も検討したが、これは実現しなかった。1636年12月29日(旧暦12月2日)、ホンタイジは自ら10万の兵力を率いて当時都としていた盛京(瀋陽)を発ち、翌年1月5日(旧暦12月9日)には鴨緑江を渡って朝鮮に侵入した。義州府尹のは白馬山城を固めて清軍に備えたが、清軍はこれを避けて漢城に向けて進撃した。9日、朝鮮の朝廷は清軍侵入の事実を知ったが、10日には清軍がすでに開城を通過していた。朝鮮朝廷は急遽、漢城と江華島の守備を固め、宗室を江華島に避難させた。10日夜には仁祖も江華島へ逃れようとするが、清軍に道をふさがれ、やむなく1万3000人の将兵と共に南漢山城に逃れたが城を包囲され、40日余りの篭城の末に降伏、和議が結ばれた(三田渡の盟約)。1637年2月24日(旧暦1月30日)、仁祖は城を出て、漢江南岸の三田渡にある清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼を行わされた。仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い、許しを乞うたという。この和議により、李氏朝鮮は清の冊封国となり、清の冊封体制に組み込まれた。ホンタイジは、自身の「徳」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に建立させた(大清皇帝功徳碑)。李氏朝鮮は、この和議により初年度に黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を献上したが、毎年朝貢品目は減った。また『仁祖実録』によれば和議の10ヵ月後には、婚姻のため8歳から12歳の6人の女を送ったり、その翌年には10人の侍女を送った記録があるが、これらの婚姻は取り消されている。清の冊封体制に組み込まれた朝鮮は、清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建てた。清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回に及び、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、三跪九叩頭の礼により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。逆に朝鮮から清への朝貢使(朝鮮燕行使)は500回以上にも及んでおり(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)、これは当時の清の冊封を受けていた琉球(2年に1回)、タイ(3年に1回)、ベトナム(4年に1回)などと比べても突出して多いものであった。このような清と朝鮮の冊封関係は、日本と清による日清戦争で日本が勝利し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせる1895年まで、約250年間続いた。朝鮮がこの戦いに敗れるまで、歴代の朝鮮王が明朝皇帝に対する臣節を全うしたことを清側は高く評価し、後の康熙帝がこれを賞賛する勅諭を出している。

出典:wikipedia

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