『平凡パンチ』(へいぼんパンチ)はかつてマガジンハウスが発行していた日本の男性向け週刊誌。同社の中核を担う雑誌だった。1964年4月28日、マガジンハウスの前身である平凡出版から創刊された。東京五輪が開かれる年という高度成長期の真っ最中で、漫画雑誌『ガロ』も同年の創刊である。なお、同じ出版社から刊行されていた総合週刊誌『週刊平凡』とは別の雑誌である。団塊世代後のファッション・情報・風俗・グラビアなどを取り扱う週刊誌だった。隔月版としてA4サイズのヌードグラビア誌も出版していた。週刊誌としては既に休刊扱いされているが、その時期については下の事情から見解が分かれている。当時人気を二分していた『週刊プレイボーイ』がどちらかというと記事偏重気味な傾向に対して、平凡パンチはセクシー色の強いグラビアやファッション面に長じていた。1966年には発行部数100万部を突破、更には活字メディアだけではなくニッポン放送の深夜放送で「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」という番組を放送。セクシーな「パンチガール」とDJを交えた展開もまた人気を博した(モコ・ビーバー・オリーブといった、パンチガール三人が当時席巻した)。なお、松田聖子は1980年のパンチガールの一人であり、デビューから支援することで彼女をトップアイドルに押し上げた一要素となった。1980年代中ごろ、刷新・テコ入れ策として、表紙をサトウサンペイのイラストに変えたり、読者投稿欄で「トーキングジム」を開始したりした。しかし社の方針から「POPEYE」「BRUTUS」が専門カテゴリの新週刊誌として創刊複合展開されていくようになり、母体である「平凡パンチ」の発行部数落ち込みにつながった。かくして1988年10月に半年後の新生復活を宣言しつつ「冬眠」宣言をして最初の休刊となった。1989年2月9日、文字通り全面新装版として『NEWパンチザウルス』が創刊。他誌に流れてしまった情報関連をコミックで補完する形式での一新を目指した。かっての読者コーナーを杉作J太郎が担当したり、プロアマ問わずの漫画家対抗戦などの企画も始まっている(『ガロ』に入選経験のある休石ひろふみが参加)。だが、従来の平凡パンチの読者を呼び戻すことも、新たな購読者層の開拓もいずれも失敗に終わり、わずか4か月で再度休刊した。パンチザウルスの失敗の要因としては、セクシー路線や多少アングラ色の強い記事傾向等の平凡パンチの読者が求める本質を見過ごして全くの新創刊に走ってしまったことや、それまで漫画雑誌の出版・維持のノウハウが乏しいためにコミック雑誌としても中途半端だったことなどが挙げられる。
出典:wikipedia
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