青木 一矩(あおき かずのり)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の従兄弟。豊臣家の一門衆。越前北ノ庄城主。通称の青木紀伊守がよく用いられるが、諱は複数あり、青木 秀以(あおき ひでもち)の名でも知られる。初め勘七ないし勘兵衛を名乗り、一矩、次いで重治、偏諱を受けて秀以と改めた。経歴をしばしば青木一重と混同されるが、別人である。青木重矩(勘兵衛)の子として生まれた。重矩は、藤原氏魚名流の青木氏で、元弘3年(1333年)に恒良親王を奉じて千種忠顕らと共に挙兵した青木以季・義季親子の7代孫という。母が大政所の妹(一説には姉)で、秀吉の叔母にあたることから、秀吉とは従兄弟の関係に当たる。母は後年は大政所の侍女を務めた。最初、羽柴秀長に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参加して、知行1,000石を宛がわれた。天正13年 (1585年)、紀州征伐で秀長に従って湯川直春を破り、これを降した功で、一気に1万石に加増され、紀伊国入山城(にゅうやまじょう)主となる。天正15年(1587年)から豊臣秀吉に直任し、九州征伐で功あって播磨立石城に移封。さらに翌天正16年(1588年)には越前大野城8万石に移封となった。天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍。文禄元年(1592年)の文禄の役では1,000人(1,400人)を率いて肥前国名護屋城に在陣している。同年、越前府中城に移封となった。文禄3年(1594年)、伏見城の普請分担に参加。慶長2年(1597年)7月22日、従五位下侍従に叙任され、豊臣姓を賜った。慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、葬儀では従兄弟である福島正則と共に秀頼の名代を務めた。豊臣政権が五大老による合議で運営されはじめると、秀吉遺命として翌慶長4年(1599年)2月5日付けで徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行されて、小早川秀秋の越前北ノ庄への転封が取り消され、旧領の筑前名島城へ復帰したので、それと同時に府中の一矩に北ノ庄21万石への加増・転封が命じられ、越前北ノ庄城主となった。以後、羽柴北庄侍従を称する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は、大谷吉継ら北陸の諸将と共に西軍に味方したが、病床にあって出陣は叶わず、東軍の前田利長の抑えとして北国口に留まった。関ヶ原本戦で西軍が敗戦した後、前田利長の軍勢が越前に侵攻して鳴鹿川(竹田川)を渡り、北ノ庄に迫ったが、この時、すでに一矩は死の淵にあり、10月6日(10日とも)に病死した。法名は西江院傑山長英居士。前田利長は隣国のよしみからこれを哀れみ、土方雄久を仲介として嫡男俊矩(越前金剛院城主2万石)に降伏するように説得し、利長は俊矩を連れて大津の徳川家康の本陣に赴いて、拝謁を取りはからったが、許されず、青木家は改易となった。また娘の蓮華院(お梅の方)は徳川家康の側室の1人であったが、本多正純の継室として下賜された。他方で、一矩は、千利休に師事した茶人の1人としても知られる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。