マクラーレン・レーシング・リミテッド(McLaren Racing Limited)は、1963年にブルース・マクラーレンにより設立されたイギリスのレーシング・チーム。2015年4月現在のグループCEOはロン・デニス。F1ドライバー・ブルース・マクラーレンにより設立され、1966年よりF1に参戦し続けている。現在は、ロン・デニスを中心とする完璧主義で規律を重んじるチームとして知られている。2010年シーズン終了時点で、グランプリにおける優勝回数、ドライバーズタイトル獲得回数、ともにフェラーリに次ぐ歴代2位、コンストラクターズタイトル獲得回数ではフェラーリとウィリアムズに次ぐ歴代3位の記録を持ち、F1を代表する名門チームの一角に数えられている。その他のレースカテゴリーでは、カナディアン-アメリカン・チャレンジカップにおいて1967年から1971年にかけ5年連続でタイトルを獲得した。インディ500、ル・マン24時間レースにおいても優勝を記録している。2016年現在、世界三大レースである「モナコGP、ル・マン24時間レース、インディ500」の全てを制したコンストラクター(車体製造者)としても知られている。タイトルスポンサーはマールボロ(1974年 - 1996年)→(1997年 - 2005年シーズン半ば)→ボーダフォン(2007年 - 2013年)と変遷しているが、現在はタイトルスポンサーが不在のため、正式エントリー名は「マクラーレン・ホンダ・フォーミュラ1・チーム(McLaren Honda Formula 1 Team)」となっている。1970年1972年1974年1976年1980年1981年1982年1983年1984年1985年1986年1987年1988年1989年1990年1991年1992年1993年1994年1995年1996年1997年1998年1999年2000年2001年2002年2003年2004年2005年2006年2007年フェラーリの元チーフメカニックであるナイジェル・ステップニーがチームから技術に関する秘密情報を持ち出し、マクラーレンのマシンデザイン部門を統括するマイク・コフランに提供したとされる疑惑である。フェラーリはイタリアとイギリスに告発し、両国当局が捜査を進めていた。その中で家宅捜索に入ったマクラーレン関係者の自宅から、780ページ分に及ぶフェラーリの機密情報が記録されたディスクが発見されたことなどで徐々に表面化、FIAも独自に調査を開始した。2008年2009年2010年2011年2011年は、ハミルトンとバトンが残留。ハミルトン3勝(中国、ドイツ、アブダビ)、バトン3勝 (カナダ、ハンガリー、日本)。ドライバーチャンピオンシップはバトン2位(270ポイント)、ハミルトン 5位(227ポイント)。チャンピオンはレッドブルのセバスチャン・ベッテル。コンストラクターズチャンピオンシップもレッドブルに次ぐ2位となった。2012年2012年は開幕戦のオーストラリアGPにてバトンが優勝。ハミルトンも3位となった。ハミルトンはカナダでシーズン初優勝。しかし、シーズン中盤の地元GPであるイギリスGPでは、ハミルトンが8位、バトンが10位に沈む。シルバーストン後の4戦では3勝と2位が1回と活躍したが、ピットストップにて問題が発生したり、開発が進んだMP4-27もピレリタイヤとの相性に苦しんだ。また、車に信頼性がないため能力を発揮できずポイントを獲得でき無いことが多かった。シンガポールやアブダビにおけるハミルトンがトップ走行中に問題が発生してのリタイアが最たる例である。ドライバーチャンピオンシップでは、ハミルトンが4位、バトンが5位となった。コンストラクターズチャンピオンシップでもレッドブル、フェラーリに支配されたシーズンであったため3位となった。2013年ルイス・ハミルトンがメルセデスへ移籍し、代わりにザウバーからセルジオ・ペレスが加入。またスポンサー面でもボーダフォンが同年限りでのスポンサード終了を発表する一方で、メキシコ人であるペレスの支援目的でテルメックスなどメキシコ系企業が新たに加わるなど、チームラインナップに大きく変化が見られた。また同年5月には、2015年まで契約が残っていたメルセデスとのエンジン供給契約を1年前倒しして2014年一杯で終了し、2015年からはホンダエンジンの供給を受けることを発表した。ホンダは2008年の撤退以来7年ぶりの復帰となる。この年はバトンが最終戦ブラジルGPで記録した4位が最高で、表彰台がゼロとなる1980年以来の大不振に終わった。コンストラクターズランキングではレッドブルが独走し、メルセデス・フェラーリ・ロータスが2位争いをする一方でマクラーレンは大差をつけられた5位であった。ドライバーズランキングではバトンが9位・ペレスが11位。シーズン終盤の11月、ペレスがわずか1年でチームを離脱、後任として育成ドライバーのケビン・マグヌッセンを起用することが発表された。ウィットマーシュによると新人であるマグヌッセンの下積みとして下位チームのシートを探したものの、あるチームに契約を破棄され、ペレスを放出してマグヌッセンを自チームに起用せざるを得なかったとのこと。2014年1月16日、ロン・デニスがマクラーレン・グループのCEOに復帰し、F1チームをその権限下に置くことを発表。さらに2013年までロータスF1チームのチーム代表であったエリック・ブーリエがレーシングディレクターとしてチームに加入することが発表された。正式加入は2月3日。当面チームは、チームCOOのジョナサン・ニールとブーリエが共同で代表を務める。一方で前チーム代表のウィットマーシュについては、チームのWebサイトから名前が消え事実上更迭されたものの去就が不明となっていたが、同年8月に正式に離脱が公表された。ドライバーはジェンソン・バトンが残留。パートナーはセルジオ・ペレスに変わりケビン・マグヌッセンが起用された。またリザーブドライバーとしてストフェル・バンドーンが起用された。この年は開幕戦オーストラリアグランプリこそマグヌッセンが2位、バトンが3位と2人のドライバーが2012年ブラジルグランプリ以来となる表彰台を獲得するも、2戦目以降はバトンの4位が最高で表彰台圏内に入ることなくシーズンが終了した。シーズン終了後の12月11日に2015年のドライバーとしてフェラーリからフェルナンド・アロンソの獲得を発表。アロンソは2007年以来のマクラーレン復帰となる。なお、マグヌッセンはリザーブドライバーとして残留することとなった。2015年ドライバーはジェンソン・バトンが残留。フェラーリからフェルナンド・アロンソが2007年以来のチーム復帰。前年、レギュラードライバーだったケビン・マグヌッセンはリザーブドライバーとなった。また、パワーユニットは20年間使用し続けたメルセデスから予定通りホンダへと変更された。ホンダのF1復帰は2008年以来、マクラーレンがホンダエンジンを搭載するのは1992年以来となる。だが、V6ターボエンジンとERSシステムに苦しみ、ヘレスのテストで、アロンソがクラッシュするなどランキングは下位に低迷。だが、そんな中でもモナコでバトンがホンダエンジン勢初入賞を決めると、イギリスでアロンソが、ハンガリーでは悲願のダブル入賞を決めた。ただ、メルセデスより1周数秒遅れのマシンを走らせるアロンソとバトンはフラストレーションが溜まる一方で、カナダGPではチームからの(パワー不足のため)燃料をセーブせよという無線の指示にアロンソが「こんなドライビング、まるでアマチュアのようじゃないか。僕はレースをする。燃料のことは後で集中するから」と断り、日本GPでもアロンソが無線で「GP2のエンジンかよ! GP2だ!」とパワー不足のエンジンに不満を漏らした。コンストラクターズ選手権9位とチーム創立以来ワーストの結果となってしまった。それでも最終戦では、バトンがホンダエンジンよりも圧倒的に性能の優れているメルセデスエンジンを搭載するウィリアムズのバルテリ・ボッタスをおさえたりアロンソがレース中のラップタイムで3番目に速いタイムを出すなどシーズン前半と比べると性能が向上していることが伺えた。同年限りでリサーブドライバーを務めていたマグヌッセンがチームを去りルノーへ移籍した。2016年ドライバーはアロンソとバトンが残留。開幕戦オーストラリアGPでアロンソがエステバン・グティエレスとの接触で大クラッシュを喫し肋骨骨折と肺虚脱を患ったため、次戦バーレーンGPはリザーブドライバーのストフェル・バンドーンが代走することになった。同GPがデビュー戦となったバンドーンが10位入賞を果たし、チームに今シーズン初のポイントをもたらした。なお、アロンソは第3戦中国GPで復帰を果たしている。第4戦ロシアGPでアロンソが6位、バトンが10位となりダブル入賞を果たした。第5戦スペインGPではアロンソがマクラーレン・ホンダ復活後初のQ3進出を果たした。続く第6戦モナコGPでもアロンソがQ3進出、決勝ではアロンソが5位、バトンが9位に入り2度目のダブル入賞。オーストリアGPでは、天候がめまぐるしく変わる中で、バトンが予選5位を獲得し前車2台のペナルティにより3番手スタートとなった(決勝は6位入賞)。ハンガリーGPではアロンソとバトンが揃ってQ3進出を果たした。ベルギーGPではアロンソが最下位スタートからスタート直後の混乱をかいくぐり一時4位まで浮上。パワーコースのスパ・フランコルシャンで最終的に7位入賞を果たした。続くイタリアGPではポイントこそ獲得できなかったものの、アロンソがファステストラップを記録するなど着実な進化をみせている。イギリス国籍のチームではあるが、チーム設立当初1968年からしばらくは車体はブルース・マクラーレンの母国ニュージーランドのナショナルカラーであるオレンジ色に塗られていた。1972年からはヤードレイ化粧品がスポンサーに付き、ボディーサイドにチームカラーのオレンジを残した白/オレンジに塗られた。その後、マールボロとのパートナーシップにより、1974年からはマールボロのパッケージと同じ赤白に塗られたカラーリングが長らく用いられた(1974年は3台体制でヤードレイ車も1台のみ参戦)。このカラーリングの赤の部分は、1974年と1975年にはパッケージと同じような赤で塗られたが、1976年以降はテレビや写真写りを考慮して蛍光レッドに変更された。1997年にカラーリングが変更され、銀と黒を基調に赤をアクセントに用いるカラーリングが使用されるようになった。これは、マールボロとの契約終了に伴いマクラーレンが独自のカラーリングを施すことが可能となったことにより決められたものである。銀色は「シルバー・アロー」メルセデスへの配慮、と考えられているが、カラーリング全体については当初のタイトルスポンサーであるウェストを含め特定のスポンサーの意向によるものではない、と、ロン・デニスは述べている。ロン・デニスはことのほかこのカラーリングを気に入っており、今後(他チームやマールボロカラー当時のマクラーレンのような)色と色の境界を線で区切ったようなカラーリングは自分のチームの車体には用いたくない、と発言している。その発言通り、2006年にカラーリングを若干変更した後も、各色の境はグラデーションを用いたものとなっていた。このカラーリングを施すためには、通常の3倍の手間とコストがかかると言われている。カラーリング塗装は各GPごとに毎回行われていた。2015年、エンジンサプライヤーがメルセデスからホンダへ変更されたことに伴い、第5戦スペインGPからグラファイトグレーを基調とした新カラーリングに変更された。上記したように、基本的にカラーリングはオレンジ色の時代、赤と白の時代、銀色の時代、の3つに分けることが可能であるが、半世紀の歴史の中では例外もあり、1978年終盤の北米ラウンド2戦と1979年にロングビーチで開催されたアメリカ西GPではマールボロと同じくフィリップ・モリス傘下のビール会社レーベンブロイ(Löwenbräu)の水色と白のカラーリングにしているほか、1986年のポルトガルGPではマールボロの新製品マールボロ・ライトをPRするため、ロズベルグ車のカラーリングは本来は赤の部分が黄色に変更された。近年では、マールボロとの契約終了に伴いカラーリングを変更した1996年末から1997年初めにかけてのシーズンオフと翌年のシーズンオフ、ウェストとの契約終了に伴いカラーリングに変更を加えた2005年末から2006年のシーズンオフにかけ、テストにおいて往年のオレンジ色のカラーリングを暫定のカラーリングとして用いている。
出典:wikipedia
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