水戸街道(みとかいどう)は、江戸時代に定められた日本の幹線道路で、五街道に準ずる脇街道の一つである。水戸街道は、江戸側の千住宿と水戸藩の城下町である水戸をつなぎ、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれた。本来、街道は行き先の名称を冠したため水戸側では江戸街道と呼ばれた。現在、水戸街道は国道6号の東京都墨田区向島~茨城県水戸市までの区間の愛称である。国道6号に対して「水戸街道」と呼ぶ一方、街道筋が新道・バイパスの開通等により国道6号から外れた部分については「旧水戸街道」として区別することが多い。国道6号の呼称については該当項目を参照。水戸以北は岩城街道(または磐城街道)と呼ばれ、岩沼宿で奥州街道と合流し、仙台まで続いていた。水戸街道・磐城街道は奥州街道の脇道として江戸と東北をつなぐ幹線道路ではあったが、奥州街道ほどには栄えなかったとされる。明治時代以降は水戸街道と磐城街道をまとめて陸前浜街道として扱われた。水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸常駐の定府大名であったため国許である水戸と当主が居住する江戸との間で緊密に連絡を取りあう必要があった。このため街道筋には水戸徳川家専用の施設が多数もうけられていた。また幕末百話によると宿場人足も水戸様御用を笠に着て横暴な振る舞いが多かった。水戸街道の道標は、千住宿の分岐点にあった天明元年(1781年)「水戸海道」との表記のあるもの、新宿の水戸道と佐倉道の分岐点にあった安永6年(1777年)「水戸海道」との表記との表記のあるもの、現松戸市八ケ崎にある文化3年(1806年)紀年銘、「水戸街道」との表記との表記のあるもの、3基が確認されている。これらの道標は公的に設置されたものでなく、民間人の設置によるものである。政府により、街道名や発着点を規定している記名は、明治5年太政官の布告による「陸前浜街道」のみである。江戸時代、新宿と松戸宿の間を南下していた江戸川は、現葛飾橋の北方500mのあたり(現在は河原)に「金町松戸関所」が設置された。江戸幕府は江戸防衛のために江戸川に架橋しなかったので対岸に渡るには渡し舟を利用していた。明治に入ってから葛飾橋がかけられた。関所跡の碑が、葛飾橋西詰の東北東に残されているが、この石碑のある場所は厳密には関所があったところとは異なる。 現国道6号水戸街道は明治以降に作られた新道の部分があり、ここでは旧道について解説する。千住 - 東京都千葉県境東京都千葉県内
出典:wikipedia
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