ハーマン・リベラ(German Rivera Diaz , 1960年7月6日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手(内野手)。に近鉄バファローズに所属した。ホセ・ラザロ高からにロサンゼルス・ドジャースに入団。同年、メジャーデビュー。、ヒューストン・アストロズに移籍。シーズン開幕直後の4月12日に近鉄バファローズに入団。4番を期待された新外国人のパット・ドッドソンが、大砲を欲しがっていた球団の思惑とは違いアベレージヒッタータイプだったことに加え、レギュラーの三塁手を務めていた金村義明が前年に負った骨折からの回復が予想よりも長引いたため、三塁を守れる外国人として白羽の矢が立ったのがリベラであった。4月16日にドッドソンと入れ替わりで出場選手登録するやいきなり4番・サードでスタメンデビュー。シーズン中盤に金村が復帰してからは一塁手として起用された。シーズン終盤に貴重な本塁打を放つなど4番打者として勝負強さを発揮しリーグ優勝に貢献した。1989年10月5日、当時の近鉄球団のオーナーであった佐伯勇が逝去、また同日の対オリックス戦に敗れた近鉄は自力優勝が消滅し、チームの空気が沈んでいた。しかし翌10月6日の対オリックス戦、延長10回、リベラはその重苦しい空気を振り払うサヨナラ3ラン本塁打を放ち、快勝した。試合後のコメント「このホームランを、妻とおなかの中の子と、きのう亡くなった佐伯オーナーにささげる」。10月10日、西武ライオンズとの直接対決3連戦の第1戦。西武・渡辺久信と近鉄・山崎慎太郎の息詰まる投手戦は、8回表のリベラのソロ本塁打が決勝点となり、大事な初戦に勝利した(この試合、リベラだけが先発野手でただ一人、渡辺から三振を奪われていなかった)。10月12日の対西武ライオンズ戦(ダブルヘッダー)。優勝争いを左右する重要な大一番で、第2試合の1打席目に先制のタイムリーヒットを放ち、2打席目には4打数連続本塁打を放っていたラルフ・ブライアントに続く2者連続となる本塁打をレフトスタンドに叩き込み、西武の先発だった高山郁夫の降板、近鉄の勝利へと繋がった。10月14日の対福岡ダイエーホークス戦。この日勝利すれば近鉄の優勝が決定する試合となったが、5回裏にダメ押しとなるソロ本塁打を打ち、優勝を決定付けた。その時リベラは手を叩きつつスタンドのファンに対して満面の笑みを浮かべながら、いつも以上に大きなガッツポーズをして見せた。藤井寺球場の近鉄ファンはこれでいよいよ優勝を確信し、球場全体がお祭り騒ぎとなった。10月28日の巨人との日本シリーズ第6戦で4回桑田真澄からソロ本塁打を放った。しかし、球団が契約を更新しなかったので同年限りで退団。更新しなかった理由は定かではない。元ボクサー(アマチュア・ウェルター級チャンピオン)という経歴を持つ。ボクサー時代の通算成績は24戦24勝15KO。まるでボクシングのフックのような内側にねじり込むバットスイングを行っていた。それもあってか、大振りせずコンパクトなスイングとなっていたのでミートの技術に長けており、三振は少なかった。選球眼もよく、滅法勝負強かったので決勝点を叩き出すことが度々あり、勝利打点で同僚のラルフ・ブライアントを上回ったばかりか、最終的に1989年のパシフィック・リーグ最多記録となった。しかし、1988年をもって勝利打点の記録が廃止されていたために公式記録と認められず、わずか1年違いで公式記録保持者になる権利を逃した。勝負強い打撃の反面、守備に関しては19失策を記録するなど拙守ぶりが目立った。応援歌は日本たばこ産業のたばこブランド「リベラマイルド」のCM曲が元ネタとなっていた。後にタフィ・ローズら多くの優良外国人を発掘し、渉外担当として近鉄に貢献した市原稔が初めて獲得した外国人選手である。1989年8月16日の対オリックス戦で、関口朋幸から死球を受けたことに激昂、関口に殴りかかり乱闘騒ぎを起こしたとして退場処分を受けている。この他、内角攻めを受けた際に投手に向かう仕草を何度か見せるなどエキサイトする場面が多々見受けられた。
出典:wikipedia
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