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牧野忠寛

牧野 忠寛(まきの ただひろ)は、越後長岡藩の第8代藩主。長岡藩系牧野家宗家9代。牧野家家譜を補足する「御附録」によると、牧野忠敬が長岡藩主家養子になった2年後の寛保元年(1741年)8月29日に、牧野忠周と側室大原氏との長子として出生した。しかし、既に忠敬が嗣子になっていたためか、出生後は牧野氏を称さずに東彦松と称した。寛延3年(1750年)に牧野姓を賜って前年に死去した牧野貞通の猷子になり、新三郎貞通と称し、幕府には常陸笠間藩主・牧野貞通の十男で牧野貞長の弟として届け出された。宝暦5年(1755年)、公式上の兄の第7代藩主・忠利の死去により養子として跡を継ぎ、同年12月に従五位下、駿河守に叙任する。実年齢15歳であったが末期養子の禁の関係もあってか、幕府に20歳と届けている。このために「寛政重修諸家譜」及び「続藩翰譜」、牧野家公式記録「御家譜」では牧野貞通の子として記されている。この系図改竄は「長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書」での考察によれば、すでに嫡子扱いになっていた忠周養子の牧野忠敬を押しのけて、幕府に嫡子届けが出ていない忠寛を嫡子に出来ないので、後年に越後長岡藩に迎えるための処置としている。なお、「長岡市史」の忠寛の出自には「御附録」が採用されている。藩政においては、歴代同様に藩内の大火事や大洪水といった災害や飢饉に悩まされ、宝暦6年(1756年)に大飢饉が起こった上に宝暦7年(1757年)から同8年(1758年)の大水害が起こったので、急遽「お救いの粥」の配給を行ったり、被災民1794人に新田地106町歩の分譲を行ったりしている。一方では諸芸術師範役を定め、宝暦12年(1762年)には長岡藩士に対する法典「諸士法制」の最後の改訂増補を行う。明和元年(1764年)から病気による江戸城登城不参が続き、同3年(1766年)6月30日に養曾祖父(実は実父)の忠周に先立って死去した。享年26。跡を6歳の長男・忠精が継いだ。墓所は東京都港区三田の済海寺。のち新潟県長岡市の悠久山。遺骨調査では史料により異なる忠寛の出自も調査対象となり、その結果、骨格形状が笠間藩系の忠敬や忠利とは異なり、むしろ忠寿や忠周の系統と酷似しているために、人類学・骨学的には「御附録」が正しいと推測している。なお、年齢推定の結果では寛保元年(1741年)出生説の方が人類学的には正しいとの見解が示されている。

出典:wikipedia

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