谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年5月26日 - 1989年9月27日)は、日本の哲学者。法政大学総長などを務めた。愛知県知多郡常滑町(のち常滑市保示町)生まれ。京都帝国大学哲学科卒業。日本芸術院会員。常滑市名誉市民。ジンメル、カントの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行った。詩人の谷川俊太郎は長男。林達夫、三木清とは同期の友人。1895年5月26日、愛知県知多郡常滑町に生まれた。旧制愛知県立第五中学校(のち愛知県立瑞陵高等学校)卒業。1913年、第一高等学校(のち東京大学教養学部)に入り、在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が主宰していた求道学舎に寄宿する。西田幾多郎に影響され、1918年に京都帝国大学哲学科へ入学して師事する。1922年に卒業し、同志社大学講師などを経て、1928年に法政大学文学部哲学科教授となる。その後、文学部長、能楽研究所長を経て、1963年に法政大学総長に選出され、1965年まで務めた。大学で同僚だった野上豊一郎、弥生子夫妻とは深い交流が続いた。論壇には1929年『改造』に発表した論文で登場した。『思想』の編集に関わったのち、戦時中は思想懇談会に参加し、戦後は三年会、世界連邦運動に加わる。『婦人公論』主幹、帝室博物館(現・東京国立博物館)次長、『心』編集代理委員を務めた。大正教養主義の流れに立った知識人で、旧制高校出身の学歴貴族たちに大きな影響があった。その流れで、作家阿川弘之とは志賀直哉ら白樺派関係で、平岩外四とは同郷でもあり終生交流があった。また宮沢賢治の研究家でもあり、自ら詩も書いた。賢治については「雨ニモマケズ」を高く評価し、同作に否定的な見解を表明した中村稔の評論に批判をおこなって、中村から反論を受けた(雨ニモマケズ#「雨ニモマケズ」論争を参照)。柳宗悦とも交流があり、終生民藝運動を支えた。晩年に終生の座右の書は『論語』『正法眼蔵』『ファウスト』と述べている。戦後短期間、博物館次長に在任中に館長の安倍能成、和辻哲郎、田中耕太郎らと昭和天皇の話し相手をしたことをたびたび述べることで、象徴天皇制を擁護している。『世界』の創立メンバーの一人でもあり、昭和天皇崩御に際しての『世界』の特集号では、ただ一人天皇を称える文章を載せている。1960年 法政大学文学博士。「茶の美学序説 芸術としての茶の構造」 1967年叙勲二等授瑞宝章。1987年文化功労者。1989年9月27日未明、虚血性心不全により自宅で死去。前日まで職務を行っていた。叙従三位、叙勲一等授瑞宝章。弔辞は阿川弘之が読んだ。墓所は鎌倉市山ノ内の東慶寺にある。妻・多喜子は立憲政友会の議員だった長田桃蔵の娘。京都帝大時代に音楽会で出会ったことがきっかけで交際に発展し、結婚するまでの2年間に多くの恋文が交わされた。多喜子は徹三より5年早く世を去ったが、没して10年後の1994年、息子の俊太郎は、多喜子が残した恋文の一部を『母の恋文』(新潮社)として出版した。
出典:wikipedia
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