大橋 乙羽(おおはし おとわ、明治2年6月2日(1869年7月10日) - 明治34年(1901年)6月1日)は、日本の小説家、編集者。本名、又太郎。旧姓、渡部。羽前国米沢(現・山形県米沢市)生れ。硯友社に入り「こぼれ松葉」「露小袖」などを執筆。のち博文館主人大橋佐平の養子となり、博文館に入社した。著書に小説等をまとめた『花鳥集』『若菜籠』、紀行文集『千山万水』など。1869年6月2日、羽前国米沢の立町二ツ橋畔に生れた。父は渡部治兵衛、母はかつといい、旅館音羽屋を営んでいた。北堤小学校に入り、この頃から作文などが得意であった。卒業後、山形十日町の呉服商富士屋で商売の見習いをしていたが、次第に文学を志し実家へ戻った。友人と雑誌を作ったりした後、20歳のときに磐梯山爆発の記事を出羽新聞に載せ、これが出版社東陽堂主人の吾妻健三郎の目に留まり、上京し東陽堂に入社した。「風俗画報」「絵画叢誌」を編集し政治小説「霹靂一声」などを書いたが、石橋思案と知り合い硯友社に入った。「こぼれ松葉」「露小袖」「霜夜の虫」などを書き、「上杉鷹山」の挿絵を描いた寺崎広業の紹介で博文館主人の大橋佐平を知った。尾崎紅葉の仲立ちでこの大橋家の養子となり、佐平の長女とき(時子)と結婚する。博文館に入り、支配人となって文筆活動を離れていった。硯友社以外にも根岸派や樋口一葉らの文人、画家、政財界人への幅広い人脈を活かし、文芸誌のみならず多くの雑誌を成功させた。坪内祐三は、滝田樗陰に先立って、近代日本で編集者という職能を最初に確立した人物と評している。樋口一葉とは1895年(明治28年)に半井桃水から紹介されて知り合い、乙羽の依頼で一葉は「ゆく雲」「にごりえ」など代表作を発表している。また乙羽の妻・ときも一葉から和歌の指導を受けるなど夫婦で親交があった。乙羽は紀行文にも妙があり、思案と東北を旅した際の『奥州日記』、1900年に外遊した際の「欧山米水」、特に紀行文集『千山万水』は有名である。外遊から帰国後の1901年、腸チフスと筋膜炎を併発し、6月1日午前6時に没した。乙羽は、尾崎紅葉の『金色夜叉』の富山唯継のモデルとされることがある。乙羽からなじみの芸者を巌谷小波が奪われた話を紅葉が参考にしたとされ、小波は1927年『金色夜叉の真相』を刊行し、直前に自殺未遂を起こした。。ただし実際は乙羽の義兄大橋新太郎がモデルとされる。のち『金色夜叉』は堀啓子によって西洋の粉本が発見されたが、モデル説は必ずしも否定されていない。
出典:wikipedia
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