キエーティ()は、イタリア共和国アブルッツォ州にある都市で、その周辺地域を含む人口約5万1000人の基礎自治体(コムーネ)。キエーティ県の県都である。16世紀、戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師・ヴァリニャーノの出身地である。 は と発音される。日本語文献では「キエーティ」のほか、「キエティ」とも記される。キエーティ県最北部に位置し、北にペスカーラ県と境界を接する。ペスカーラから南南東へ約13km、県第二の都市ランチャーノから北西へ約24km、州都ラクイラから東へ約63km、首都ローマから東北東へ約149kmの距離にある。隣接するコムーネは以下の通り。PEはペスカーラ県所属。ペスカーラ川の下流右岸(東側)に位置し、北へ15キロほどでアドリア海に至る。やといった山を背後に控えている。キエーティの都市は旧市街地と新市街地からなる。旧市街地は丘陵上にあり、キエーティ・アルタ()と呼ばれる。ペスカーラ川沿いの低地には新市街地が広がり、キエーティ・スカロ()と呼ばれる。郊外には、市域北東部にフォンテキアーロ・ダ・カーポ()やクローチェフィッソ()、南西部にカゾーネ・デル・トラットゥーロ()やブレッチャローラ()などの集落がある。古代、この町は好戦的なマルチーニ人の拠点であり、テアテ(Theate Marrucinorum) と呼ばれた。古代ギリシャの地理学者ストラボンによれば、この都市はもともとアルカディア人によって作られ、Tegeate と呼ばれていたという。マルチーニ人はローマに敗北し、その後はその忠実な同盟者となった。同盟市戦争後はローマ共和国の市民権を獲得した。ローマ帝国時代には6万の人口を数えた。西ローマ帝国が崩壊すると、都市は西ゴート人やヘルリ人による破壊を受けた。その後、ランゴバルド王国の総督の所在地となった。フランク王国のピピン3世によって破壊を受けたのち、ベネヴェント公国の封土となった。ノルマン人の南イタリア支配(シチリア王国・ナポリ王国)の下、キエーティは政治的・経済的な重要性をいくらか取り戻した。17世紀には対抗宗教改革の庇護の下で文化的・建築的な繁栄を迎えたが、1656年の疫病の流行で打撃を受けることになる。18世紀には、町にはいくつかの学校が設立された。ナポレオン戦争中の1806年、フランス人の手によって要塞化が行われた。1860年、イタリア王国の一部となった。第二次世界大戦中のキエーティは、ローマ同様に無防備都市を宣言したため連合軍による爆撃を受けず、周辺の町村から避難民が集まった。ドイツ軍が撤退した翌日の1944年6月4日に連合軍が入城した。キエーティには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
出典:wikipedia
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