明氏亀谷家(みんしかめやけ)は、照屋親雲上長太を元祖とする明氏安次冨家から分かれた琉球士族。門中の間では、琉球王国の第一尚氏王統第七代国王・尚徳王の三男・屋比久大屋子の流れを汲んでいると信じられている。尚徳王の世子・佐敷王子、次男・浦添王子は第二尚氏の尚円王への世替り(クーデターという説もある)の折、殺害された。三男はこのとき三歳、乳母に抱かれ先祖の地、佐敷に落ちのびたとされる。後に佐敷間切・屋比久の地頭となり、屋比久大屋子と称する。明氏はその後裔である。一世長太は第二尚氏王朝・尚清王に仕える。二世長孫は長太の次男で、明氏の直系は、兄・上江洲親雲上長均の家系である明氏安次富家で、長孫は分家独立し、先祖の遺領、奄美阿鉄の地頭になり(阿手津親雲上)、かつ第一尚氏王朝以前(屋蔵大主、鮫川大主時代)の地である伊平屋島の按司掟に任じられた。また四世長頼(亀谷親雲上)の時、王孫の由緒をもって王府より王城の地首里移住を許される。これより、この子孫は首里士族としての道を歩む。琉球と明との関係は1372年、明の太祖の招諭を、時の中山王察度が応じて使者を派遣したのに始まる。いわゆる冊封体制が成立した。こののち第一尚氏王朝はこれを引き継いだ。第一尚氏王朝と明王朝はきわめて緊密で親しい関係にあった。明王朝も琉球国を重視し『明実録』には、明と琉球との交流、琉球国の動向が詳細に記録されている。琉球と明との関係は朝貢関係ではあるが、むしろ「親子」関係、いや「祖父母と孫」とに似た関係とも言えるであろう。明王朝に対する親しみ、尊敬、敬慕の念は第一尚氏王朝の歴代国王、その末裔に脈々と受け継がれた。のち第二尚氏王朝時代、王府に系図座が創設され 士族が唐名(中国名)を名のるようになった時、第一尚氏嫡流の子孫は明王朝との繋がりの中で、“明姓”を名のったのである。清王朝に対する明王朝、第二尚氏王朝に対する第一尚氏王朝、現王朝に対する前王朝を、暗に意味していることは言うまでもない。“尚姓”を超える“明姓”ともとれる。 また、日=てだ(太陽)、月=月しろ(第一尚氏の守護神)とを合わせたものである。との伝承もあることを付け加えておく。琉球王家紋章『左三つ巴』と亀谷家紋章『丸菱右巴』琉球王家の紋は左三つ巴、俗に"左御紋"と言う。この紋の由来は、第一尚氏王朝から始まったものではなく、当家が王となる以前から(鮫川大主以前の時代より)この三つ巴の紋を使用していた。のち第二尚氏王朝はそれをそのまま引き継いだのである。しかし巴紋は子々孫々に受け継がれた。第一尚氏嫡流 明姓亀谷宗家に伝わる紋に『丸菱右巴』がある。これは時の琉球王家の三つ巴をはばかり「一つ巴」とした紋である。(出典:比嘉朝進『士族門中家譜』球陽出版、2005年、72頁参照。)(『明姓家譜(亀谷家)』より)
出典:wikipedia
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