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ジョーン・フォンテイン

ジョーン・フォンテイン(、1917年10月22日 - 2013年12月15日)は、アメリカの女優。イギリス人の両親の間に日本で生まれ、1919年に姉であるオリヴィア・デ・ハヴィランドとともに、アメリカのカリフォルニア州に移住した。フォンテインは1935年に舞台で女優としてのキャリアを始め、同年にアメリカの映画会社RKOと契約を結んだ。フォンテインは1941年に、アルフレッド・ヒッチコック監督作品『レベッカ』でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、翌1941年に同じくヒッチコック監督作品の『断崖』でアカデミー主演女優賞を受賞した。フォンテインはヒッチコックの監督作品でアカデミー賞を獲得した、ただ一人の俳優となっている。また、姉のデ・ハヴィランドも『遥かなる我が子』(1946年)と『女相続人』(1949年)でアカデミー主演女優賞を受賞しており、フォンテインとデ・ハヴィランドは2013年現在で唯一の主演賞を獲得した兄弟姉妹である。フォンテインは1940年代から1990年代にかけて、舞台、ラジオ、テレビ、そして映画で女優活動を続け、1978年には自伝『』を出版した。50年以上にわたって女優活動を続けていたフォンテインが最後に映像作品に出演したのは1994年のことだった。フォンテインはカリフォルニア州カーメル・バイ・ザ・シーの邸宅ヴィッラ・フォンタナで暮らし、2013年12月15日にこの邸宅で96年の生涯を閉じた。ジョーン・デ・ハヴィランドはイギリス人の両親の間に、1917年に東京(現在の東京都港区)で生まれた。父親のウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(1872年8月31日 - 1968年5月23日)は東京帝国大学の英語教授として日本に招かれていた人物で、フォンテインが生まれたときには特許弁護士をしていた。母親のリリアン・オーガスタ(1886年6月11日 - 1975年2月20日)は、夫ウォルターと来日する前にはイギリスの舞台女優だった。リリアンは、娘たちが1940年代に女優として成功を収めた後に「リリアン・フォンテイン」という芸名で、再び舞台女優に復帰している。ジョーンの両親は1914年に結婚したが、ウォルターが浮気がちな男性だったために、二人の結婚生活は必ずしも幸福とはいえなかった。1919年2月に、母リリアンは病弱だった娘たちには東京の気候があっていないのではないかと考え、ウォルターを説得して一家はイギリスへと戻ることを決めた。イギリスへ戻る途中にオリヴィアが気管支炎となり、高熱で倒れたために一家はカリフォルニアにしばらく滞在している。その後フォンテインも肺炎に罹患したために、リリアンは二人の娘とカリフォルニアに残る決断をし、サンフランシスコから50マイルほど離れたサラトガに移り住んだ。しかしながら父ウォルターは家族を見捨てて、後に結婚することとなる日本人家政婦とともに日本へ戻っていった。フォンテインの両親はその後別居生活となったが、二人が正式に離婚したのは1925年2月になってからだった。フォンテインはロス・ガトス高校 () に通いだし、まもなく姉のオリヴィアとともに発声法のレッスンを受けるようになった。フォンテインは16歳のときに、父ウォルターと暮らすために日本へと戻っている。日本でアメリカン・スクールに入学し、1935年に卒業した。フォンテインが女優としてデビューしたのはドディー・スミスが脚本を書いた戯曲で、1935年に上演された舞台作品『』である。フォンテインはこの作品に出演後すぐに映画製作会社のRKOと出演契約を交わしている。映画での初出演となったのは1935年の『男子牽制』の端役で、このときのフォンテインはジョーン・バーフィールドという名前でクレジットされていた。当時フォンテインが契約していたRKOはキャサリン・ヘプバーンに力を入れており、フォンテインには『』(1937年)や『偽装の女』(1937年)といった作品の端役しか回ってこなかった。それでもRKOはフォンテインを将来見込みのある女優だと考え、『』のヒロインに抜擢し、「RKOの新たな女優」であるとエンドクレジットで紹介している。フォンテインが次に主役級を演じたのは、それまでジンジャー・ロジャースとの共演で成功を収めていたフレッド・アステアが、ロジャースと離れてRKOの作品に最初に出演した『踊る騎士 ()』(1937年)だった。しかしながらこの作品は観客からは不評で、興行的にも失敗作となってしまった。その後のフォンテインは『ザ・ウィメン』など12本の作品で端役を演じ続けたが、大きな注目を集めることもなく、RKOとの契約は更新されることなく1939年に終了した。不遇をかこっていたフォンテインの運命は、とある晩餐会でハリウッドの大物プロデューサーであるデヴィッド・O・セルズニックと隣席になったことで一変することとなる。フォンテインとセルズニックはこのとき、イギリスの小説家ダフネ・デュ・モーリアの作品『レベッカ ()』について語り合った。そしてセルズニックは、フォンテインにこの作品の映画版のヒロイン「わたし」役のオーディションを受けてみないかと薦めている。6カ月間にわたって数百人の女優が受けた過酷なオーディションに勝ち残り、『レベッカ』のヒロイン役に決まったのは、フォンテインが22歳の誕生日を迎える直前のことだった。フォンテインとイギリス人俳優ローレンス・オリヴィエとの共演となった『レベッカ』は、イギリス人監督アルフレッド・ヒッチコックが初めて手がけたハリウッド映画でもあった。1940年に公開された『レベッカ』は大評判となり、フォンテインもアカデミー主演女優賞にノミネートされている。このときのアカデミー賞で主演女優賞を獲得したのは、『恋愛手帖』に出演したジンジャー・ロジャースだったが、翌1941年にケーリー・グラントと共演したヒッチコック監督作品『断崖』で、フォンテインはアカデミー主演女優賞を受賞した。ヒッチコックの監督作品が受賞したアカデミー賞の中で、このフォンテインの主演女優賞が唯一俳優に贈られたアカデミー賞となっている。1940年代のフォンテインは恋愛メロドラマ作品に多く出演した。この時期の評価が高い作品として、3回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされた『永遠の処女 ()』(1943年)をはじめ、『ジェーン・エア』(1944年)、『』(1947年)、『忘れじの面影』(1948年)などがある。1950年代になるとフォンテインの映画での人気は徐々に衰えを見せ始め、女優としての活動の場をテレビや舞台へと移すようになっていった。1954年に上演された舞台作品『お茶と同情 ()』で、アンソニー・パーキンスの相手役ローラを演じて高く評価された。また1940年代には、ラジオの長寿番組『』に何度も出演している。フォンテインは1960年代も舞台作品を中心に活動した。『』、『』、そして『冬のライオン』などである。フォンテインが最後に出演した劇場映画作品は『影なき裁き ()』(1966年)で、この作品でフォンテインは副製作も担当している。1970年代、1980年代でもフォンテインは映像作品やテレビドラマに出演を続け、1980年にはソープオペラの『』でエミー賞にノミネートされた。1978年にフォンテインの自伝『』が出版された。1982年には第32回ベルリン国際映画祭の審査委員長を務めている。フォンテインが出演した最後のテレビ番組は、1994年の『』である。これはフォンテインが芸能界から半ば引退し、カリフォルニア州カーメル・バイ・ザ・シーにあった隠棲先の邸宅でのガーデニングやペットの犬との生活に入ってから久々の作品だった。フォンテインの映画界への貢献を賞して、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのヴァイン通り1645には、フォンテインのスター・プレートが設置されている。フォンテインは両親の出身国であるイギリス国籍と、1943年4月に取得したアメリカ国籍を持つ二重国籍者だった。フォンテインは4回にわたって結婚と離婚を繰り返した。最初の結婚は1939年で、イギリス人俳優のブライアン・エイハーン () とだったが、1945年4月に離婚している。1946年5月に俳優、プロデューサーのウィリアム・ドジャー () とメキシコ・シティで再婚した。二人の間には1948年に娘デボラ・レズリーが生まれたが、1949年には別居生活を送るようになった。翌年フォンテインはドジャーが育児放棄をしたとして離婚調停を申し立てている。そして二人が正式に離婚したのは1951年1月のことだった。フォンテインは1952年11月12日に、プロデューサー、脚本家のコリアー・ヤングと3度目の結婚をした。しかしながら1960年5月から二人は別居生活を始め、1960年11月にフォンテインが離婚調停を申し入れた。最終的に二人の離婚が成立したのは1961年1月だった。フォンテインの4度目にして最後の結婚相手となったのはアルフレッド・ライトだった。ライトは『スポーツ・イラストレイテッド誌』のゴルフ記事担当編集者で、2人は1964年1月23日に結婚したが、1969年に離婚している。1951年に開催された映画祭で南米に滞在していたフォンテインは、当時4歳のペルー人少女マルティタと知り合い、養女にならないかと申し入れた。フォンテインとマルティタが出会ったのはインカ帝国の遺構で、マルティタの父親が介護人として働いていた場所だった。マルティタの両親は娘がよりよい生活を送れるようにと、フォンテインがマルティタの法的な後見人になることを承諾した。このときフォンテインはマルティタの両親に、マルティタが16歳になったらペルーへ帰郷させることを約束している。そして、フォンテインのもとに引き取られたマルティタが16歳になったときに、フォンテインはマルティタにペルー行きの往復チケットを買い与えたが、マルティタはペルーに戻ることを拒んで家を飛び出した。この出来事以来、フォンテインとマルティタの間はギクシャクして疎遠になってしまった。フォンテインは1978年に自叙伝を出版して、その宣伝活動中に「私は義理の娘を両親のもとに戻そうとしましたが、彼女はそれを喜びませんでした。私が彼女の両親に約束していたのにも関わらず。私に約束を破らせることになった誰かさんを私は決して許すことはないでしょう」と公言している。フォンテインと姉オリヴィア・デ・ハヴィランドは、2013年現在で主演賞を受賞した唯一の兄弟姉妹となっている。女優の道に進んだのは姉のデ・ハヴィランドのほうが早かった。フォンテインが姉に続いて女優になろうとしたときに、姉のデ・ハヴィランドをより可愛がっていた母親のリリアンはフォンテインにファミリーネームの「デ・ハヴィランド」を芸名に使用することを許さなかった。このためフォンテインは新たな芸名をつけざるを得ず、女優の活動当初にはジョーン・バーフィールドという芸名を名乗り、後にジョーン・フォンテインという芸名を名乗るようになった。伝記作家のチャールズ・ハイアム () は、この姉妹が幼いころからいつも喧嘩をしていたと指摘し、フォンテインはデ・ハヴィランドのお下がりの服を与えられていたが、デ・ハヴィランドがフォンテインに渡す服をわざと破ったために、フォンテインはその服を縫い直して着なければならなかったというエピソードを紹介した。そしてフォンテインがデ・ハヴィランドを嫌うようになったのは、母親がデ・ハヴィランドばかりを可愛がっていたことが原因だとしている。1942年にデ・ハヴィランドとフォンテインは、同時にアカデミー主演女優賞にノミネートされた。対象となったのは、デ・ハヴィランドが『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役、フォンテインがアルフレッド・ヒッチコック監督作品『断崖』のリナ・マクレイドロウ役で、主演女優賞を獲得したのは妹のフォンテインだった。チャールズ・ハイアムはこのときのフォンテインが「女優という仕事に心身を捧げていない自分が賞を獲得したことに対して後ろめたく感じていた」としている。また、ハイアムはこのときのアカデミー授賞式で、主演女優賞を受け取るために歩き出したフォンテインがデ・ハヴィランドからの祝福をあからさまに拒絶したために、デ・ハヴィランドは気分を害して当惑して見えたと記述している。ハイアムはフォンテインが実娘とも疎遠になったとしており、おそらく娘が伯母であるデ・ハヴィランドと隠れて連絡を取り合っていたためではないかと指摘している。デ・ハヴィランドもフォンテインも自分たちの関係を公言したことはほとんどない。ただしフォンテインは1979年のインタビューで、自分たち姉妹が口をきかなくなったのは、癌に苦しんでいた母親に外科手術を受けさせようとしたデ・ハヴィランドと、当時88歳の母親には手術は無理だと考えていた自分との間で意見が対立したことが原因だと語ったことがある。そしてフォンテインは、母リリアンが死去したときにデ・ハヴィランドが、当時舞台巡業公演で各地を回っていた自分を探そうとしなかったと主張している。デ・ハヴィランドは母の死を知らせる電報をフォンテインに送ったが、この電報をフォンテインが目にしたのは二週間後で、フォンテインが母の死を知ったのは次の公演地に移動してからのことだった。1978年に受けたインタビューでフォンテインは「私のほうがオリヴィアよりも先に結婚し、先にアカデミー賞を受賞しました。もし私のほうが先に死去することがあれば、すべてにおいて私の後塵を拝したと知って彼女は激怒することは間違いないでしょう」と語っている。フォンテインは2013年12月15日に、カリフォルニア州カーメルの自宅で老衰のために96歳で死去した。

出典:wikipedia

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