マイケル・アンソニー・イースラー(Michael Anthony Easler, 1950年11月29日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド出身の元プロ野球選手(外野手)。1969年のMLBドラフト14巡目でヒューストン・アストロズに指名され契約。9月5日の対シンシナティ・レッズ戦(アストロドーム)で、延長11回裏にスキップ・ジャッツの代打として出場しメジャーデビューを果たす。結果はピッチャーゴロに終わり、この試合の最後の打者となった。ピッツバーグ・パイレーツ時代のにレギュラーに定着し、にはMLBオールスターゲームに出場した(6回裏の守備から出場し、2打数1安打1四球1得点)。メジャーでは実働14年で6球団を渡り歩いた。また、学生時代から「ザ・ヒットマン」の異名でも知られていた。シーズン途中、トニー・ブリューワとブライアン・デイエットがことごとく怪我で戦線離脱し外国人助っ人選手が不足していたNPBの日本ハムファイターズに入団。5月19日のNPBデビュー戦で初打席本塁打を記録した。同年は3番・田中幸雄、5番・大島康徳とクリーンナップを組み、結局最終戦まで4番の座を明け渡すことなく打率.304、19本塁打(いずれもチームトップ)の成績を残し、当時貧弱だったファイターズ打線の中で気を吐き前年に続くAクラス入り(3位)に大きく貢献した。極端なアッパースイングでフォロースルーでバットをすくい上げる独特のフォームが話題となったも開幕から主軸を打っていたが、高齢(当時38歳)と相次ぐ怪我に泣かされ出場機会も減り、最後は肋骨の亀裂骨折で戦線離脱したまま現役を引退。引退後は、にミルウォーキー・ブルワーズ、からまでボストン・レッドソックス、からまでセントルイス・カージナルスで打撃コーチを務め、マイナーリーグでもロサンゼルス・ドジャース傘下のAAA級ラスベガスなどで打撃コーチを務めた。はロサンゼルス・ドジャースで打撃コーチを務めた。はニューヨーク・メッツ傘下のAAA級バッファローで打撃コーチを務めた。イースラーと同じく日本ハムでプレーし、現在駐米スカウトを務めるマット・ウインタースによれば、外国人選手では珍しく納豆が食べられたという。
出典:wikipedia
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