左近允 尚正(さこんじょう なおまさ、1890年(明治23年)6月6日 - 1948年(昭和23年)1月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。鹿児島県出身。海兵40期卒業。専攻は水雷。タイ王国大使館付武官の時太平洋戦争開戦を迎える。1943年(昭和18年)9月、第二南遣艦隊第16戦隊司令官に就任し南方戦線に従軍。渾作戦、レイテ島輸送作戦(多号作戦)などを指揮した。1944年(昭和19年)10月、中将に進級する。12月、支那方面艦隊参謀長に就任し終戦を迎えた。しかし、ビハール号事件の戦犯として逮捕され、イギリス軍により植民地の香港のスタンレー監獄で絞首刑に処された。事件は1944年(昭和19年)3月、臨時に第16戦隊の指揮下に入った重巡洋艦利根(艦長・黛治夫大佐)が、インド洋でイギリスの商船「ビハール号」を撃沈した際、捕虜80名を得たが、司令部の「作戦中の俘虜は処分すべし」という命令によって後に65名を虐殺したもの。俘虜殺害命令は口頭でおこなわれたため記録がなく出所不明。最高責任者である南西方面艦隊司令長官高須四郎大将は既に病没していたので、次位の左近允がスケープゴートにされたとの説もある。左近允の人柄は、同期の寺岡謹平によれば「豪壮、恬淡、真に薩摩隼人の典型」であったという。辞世の句は"「絞首台何のその 敵を見て立つ艦橋ぞ」"であった。左近允の二人の息子も兵学校を出て太平洋戦争に従軍し、長男の正章(68期)は昭和19年10月、駆逐艦島風で戦死、次男の尚敏(72期)は生き残り、戦後は海上自衛隊に入って海将となった。
出典:wikipedia
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