LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

T-62

T-62()は、ソビエト連邦で開発された主力戦車である。1950年代に入るとソビエト連邦軍は新世代の戦車砲、およびそれにより運用される対戦車砲弾として滑腔砲とAPFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)の開発を始め、これを搭載する次期新型戦車の開発に着手した(これが後のT-64となる)新型戦車砲及び徹甲弾の開発は順調に進み、量産中のT-55にこの砲システムを搭載した改良型の開発計画が建てられた。この計画はT-55の設計を行った技師の設計チームが担当し、1957年には最初の試作車である「オブイェークト165」が完成し、T-55の流れを汲むがより真円に近く平たい形態の全周旋回式砲塔に、第9工場(火砲)設計局で開発された100 mmライフル砲 D-54TSを搭載していた。D-54TSには発砲後空薬莢を砲塔後上面に設けられたハッチより自動的に排出する機構が備えられていた。1961年からは当初の計画通り115 mm滑腔砲 U-5TSを搭載した試作車が完成し、これを「オブイェークト166」、制式名称 T-62 として量産に入ることが決定された。正式な量産/配備車両は1965年5月9日にモスクワ赤の広場で行われた「対ドイツ戦勝20周年祝典パレード」で初めて公式に公表された。T-62は、T-54/55とは違い広く供与はされなかったものの、ソビエトの同盟諸国においても装備された。第四次中東戦争時にイスラエル国防軍によって鹵獲されたシリア軍の車両は、アメリカ合衆国に運ばれてアメリカ軍によって徹底的なテストを受けており、当時としては貴重なソビエト製戦車の詳細なデータを西側諸国にもたらしている。1970年代末に生産を終了し、現在ではソビエトを始め多くの国では後継のT-72に主力戦車の座を譲っているが、一部の国では近代化改修型を現在でも主力戦車として運用している。T-62は、基本的にT-55を発展させたもので、車体が若干大きくなり、重量の配分が変わったため転輪のピッチが異なる(T-54/55は第1転輪と第2転輪の間が広くとられているが、T-62は第3・第4転輪の間と第4・第5転輪の間が広く取られている)。鋳鋼製の砲塔はT-54/55のものをさらに洗練させた鋳造製で、傾斜の小さい下部ほど厚みがあり、上にいくに従って薄くなる構造である。T-54/55とは異なり、上面も含めた一体鋳造になっている。最大の特徴は主砲に滑腔砲(ライフリングを施していない砲)を採用した事である。この砲の装甲貫徹力は大きかったが、ソ連陸軍の第二次世界大戦における戦車戦の分析に従い、長距離での戦闘を重視しない設計思想であったため、単純な距離計測能力しか持たない(照準器の接眼レンズ内に距離測定用の目盛りを持つのみ)照準器のため、射程1,500メートルを越えると命中率が急激に低下するのが弱点であった。この欠点については、のちにレーザー測遠器を搭載するなどして改善された。敵による発見を防ぎ、また、被弾率を低くするために全高を低く抑えるというソ連戦車の設計思想がよく現れた設計がなされている。ただ、それによって乗員の居住性が犠牲となることと、砲身の俯角がほとんど取れないという欠点が生じている。砲弾の装填は装填手が手動で行い、射撃後の空薬莢を邪魔にならないよう砲塔後部の小ハッチから自動的に排出する機構は射撃速度の向上に大いに貢献するとされていたが、排莢時は砲身の仰角を最大にしなければ機構が作動しないため、排莢後にはそのつど砲身角度を戻さねばならず、かといって排莢作業を手動で行うには砲塔内容積の余裕のなさが装填手の作業に悪影響を与え、砲塔内の狭さは装填作業にも多大な影響を与えたため、却って射撃速度が低下する結果となった。また、射撃後に砲身角度を一定に保てない事は、同一目標への連続射撃を大いに阻害することになった。自動装填装置を持つ他の戦車でも射撃後の排莢・装填時には砲身を規定角度に戻す必要があるが、現代の戦車では自動的に元の位置に素早く復旧されるのに対し、T-62では砲安定装置の機能がそこまで進んでいなかった。また、空薬莢の排出ハッチが作動して開くと砲塔部に開口部ができることになり、NBC兵器で汚染された状況下では運用に難があった。なお、T-62は標準で潜水渡渉能力を持ち、シュノーケルを装備すると共に機関室上面の開口部を塞ぐための水密扉が装備されているが、自動排莢機構によって機関室上面に投棄された空薬莢によって水密扉が損傷することを防ぐため、格納状態の水密扉にはこれを覆う形で防護板が備えられている。1983年以降、対戦車ミサイルに対するアクティブ式防御装置を搭載したり、主砲からミサイルを発射できるように近代改修された車両も多く存在している。初の実戦参加は1969年の中ソ国境紛争・珍宝島事件の時であるが、この際に少なくとも1輌が軟弱地で動けなくなり、中国側に鹵獲されている。T-62は、ワルシャワ条約機構軍には供与されず、チェコスロバキアで1973年以降に1,500輌が生産されたに止まり、これはエジプト軍やシリア軍に売却され、第四次中東戦争などで用いられたが、本来の想定戦場であるヨーロッパの大平原と異なり、中東の複雑な地形では前述の遠距離射撃性能の悪さや俯角の取れない点などが仇となって戦果は芳しくなかった。戦争を通じてイスラエル国防軍にも多数が鹵獲されTiran-6として戦力化されているが、中距離までなら威力と精度が必要充分として、同様に鹵獲されたT-55で行われた主砲換装などの凝った改造までは施されていない。また、共産主義時代のアフガニスタン政府軍に対してもソ連軍撤収時に170輌が譲渡され、後の内戦時には各勢力により使用された。後のアメリカ軍のターリバーン攻撃時にも、北部同盟に対しロシアからT-55と共に新たに供与されている。ロシアでも運用は続けられ、チェチェン紛争に投入されたロシア国内軍のT-62Mは映像にしばしば登場している。T-62は自動装填装置を搭載したT-64以降のソ連戦車と異なり、砲塔直下の床下に弾薬庫を持っていないために地雷などに対し砲弾の誘爆が起きにくく、意外なタフさを見せた。ウクライナでは、独自に125 mm砲や爆発反応装甲を搭載する改修型を開発しているがこれは主として輸出目的であり、ウクライナ軍では運用していない。北朝鮮の「天馬号/天馬虎」および「暴風号/暴風虎」戦車の基にもなっている。イラクでは共和国防衛隊で運用されていたが湾岸戦争においてアメリカ軍のM1A1に敗北している。本来、T-54/55を代換すべきT-64の開発・実用化と量産がはかどらなかったため、T-62は予定以上に生産されて装備され、T-72が開発・配備された後も近代化改修が施されるなどして長らく使用されたが、冷戦終結後の軍縮により退役しスクラップになった車両も相当な数に上っている。たとえば南オセチア紛争で使用された際には、敵に撃破されるものよりはるかに多くの故障による損失を出してロシア兵を悩ませたという。その後もロシア軍には2011年段階で950輌、うち稼働150輌が残っていたが、2013年に全車退役が決定され、分解整備の後、輸出に回されることとなった。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。