水木 しげる(みずき しげる、男性、1922年3月8日 - 2015年11月30日)は、日本の漫画家。文化功労者、傷痍軍人。本名は武良 茂(むら しげる)。大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町出身、東京都調布市在住。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市で経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家としてデビュー。代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。1922年(大正11年)に大阪で生まれ、鳥取県境港市で育つ。幼少時、まかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受ける。高等小学校卒業後、画家を目指して大阪で働きながら学ぶ。やがて徴兵年齢に達し、体躯壮健ながら近眼であった事から乙種合格となり補充兵役編入。1943年に召集され、帝国陸軍の軍人(兵)として太平洋戦争下のニューギニア戦線・ラバウルに出征。過酷な戦争体験を重ね、米軍の攻撃で左腕を失う。一方で現地民のと親しくなり、ニューブリテン島に残ることも希望したが、周囲の説得で日本へ復員した。復員後は貧窮により画家の修行を諦め、生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。1958年、貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。1960年から断続的に『墓場鬼太郎』シリーズを発表し始める。1961年、飯塚布枝と見合い結婚。1963年、『悪魔くん』を貸本の東考社から出版。1964年、『ガロ』で商業誌デビュー。1965年に『テレビくん』が講談社児童まんが賞を受賞したほか、貸本時代に描いていた『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載され、以降、妖怪を扱った作品により人気作家となった。1966年には『悪魔くん』がテレビドラマ化。最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より5度テレビアニメ化されている。1993年、幼少期を過ごした境港市に町おこしとして水木しげるロードが建設され、2003年には水木しげる記念館が開館した。長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、1991年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章を受章。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また1973年に執筆した『総員玉砕せよ!』がアングレーム国際漫画祭遺産賞、米アイズナー賞最優秀アジア作品賞をそれぞれ受賞している。妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任。調布市名誉市民、東京都名誉都民。2010年に文化功労者にも選ばれた。2013年、『水木しげる漫画大全集』の刊行が開始される。2015年11月30日、多臓器不全により死去。93歳没。1922年(大正11年)3月8日、大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区東粉浜)に生まれた。父・武良亮一、母・琴江の次男。水木によれば、当時父親の亮一は、親戚が大阪の梅田駅近くで経営していた印刷会社で働いていたという。身重の母親・琴江は夫に会うために境港からやってきて、大阪で水木を産んだ。父は共同経営者とともに農機具を輸入販売する会社を興す為に、妻子をいったん故郷の鳥取県西伯郡境町入船町(現在の境港市入船町)に帰した。境港に戻った理由は「大阪は空気が汚れていて乳の飲みが悪い」からという。水木が境港に戻った年齢についてははっきりとわかっていないが、生後まもなくから2歳ぐらいのときとされている。その後間もなく父は事業に失敗して帰郷、結局は一家全員が境港に落ち着くことになった。5歳の頃のある日、「死」に興味を抱き、3歳の弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の妹(大叔母)に「やいと(灸)」をすえられた。比較的に恵まれた環境で育つが学校の勉強はできる方ではなく、両親が尋常小学校入学を1年遅らせたほどだった。自身も認める超マイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという変わった生徒だった。当時、「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。また、屁を自在に出すことができ、朝礼のおりなどに放屁して子供たちをワッと笑わせるのが得意だった。そんな調子から成績は振るわず体育と図画以外は「総崩れ」だったが、一歳年上で体格が大きかった為に腕っ節は強く、明るい性格もあってガキ大将として君臨した。尋常小学校卒業後は5年制の中等教育学校であった旧制中学校への進学を志望していた。昭和初期の農村部の子供は殆どが初等教育で社会に出たが、水木によれば地元の境港は貧しい港町ながら教育熱心な土地柄であったらしく、多くの者が中等教育に進んでいた。水木の母も学歴を気にする性質であったため教育に熱心で、実際に成績優秀な兄と弟は旧制中学校に進学を果たしていた。勉強そっちのけだった水木も漠然と旧制中学受験を希望したが、進路相談で教師は水木の母に「そりゃあ、無理じゃろう」と即答したという。僅かに将来への不安を覚えたが、中等教育の予備校でもある無試験の高等小学校に進むとすぐに忘れて遊び回る子供に戻っていった。高等小学校時代も図画の成績は良く、小学校の教頭の勧めで公民館で授業で描いた絵の展覧会が開かれ、新聞に掲載されたこともあった。学内コンクールでも金賞を何度も取り、鳥取二科展の審査員でもあった先の教頭からは油絵の道具を譲ってもらったりと可愛がられた。高等小学校卒業後も旧制中学校には進めず、社会に出て働き先を探す為に故郷を離れる事になった。生命保険会社に勤めて神戸に単身赴任していた父を頼りに近畿に移り、親戚の紹介で出生地の大阪に舞い戻った。たった一人でふるさとを離れて働きに出る水木のことを不憫に思う母は、兄や弟と違って要領の悪い次男を心配して「お前はこれからどうなるんだろう」「中学に行く人たちとの差は開くばかりだよ」「務まるかなあ」と心配そうに嘆いたという。しかし当の水木は至って平静で、むしろ田舎から都会に出て働くのを楽しみにしていた。大阪では都会の立ち並ぶビルと行き交う人の多さに圧倒され、夜の街の光には「まるで祭りのようだ」と思ったという。谷町(現・大阪市中央区)にあった石版印刷会社の田辺版画社に住み込みで勤務したが、マイペースさから仕事に付いて行けず僅か2ヶ月でクビになった。次は寺田町にある小村版画社に入社したがこれも配達の道順が覚えられず、やっと道を覚えると今度は下町の職人達の手仕事を見物している内に荷物を届けるのを忘れる有り様で、二度目の会社も解雇された。その後、親戚の家に居候している時に体調を崩して黄疸の症状が出た為、療養すべく鳥取へと戻る事になった。帰郷後、息子に労働は向いていないと思った父親は好きな道(絵の勉強)に進ませる事にした。水木は「もう職探しはやめて絵の勉強を…」という父の言葉に躍り上がったと回想している。水木は勉学が苦手な自分の気質を考慮して、様々な美術学校から「試験や入学資格の無い所」を探したという。やがて大阪の上本町で、京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)で学んだ画家の松村景春が設立した精華美術学院という、当時としても珍しい無試験の美術専門学校を見つけて入学した。しかし学院は美術学校というには小さな建物で、職員も校長が教員と事務員を兼任するという個人塾のような所で、授業内容も実践的な図案講習会に近かった。立派な画家になるんだと思い詰めて一心不乱に独習を重ねてきた自身の方が、もったいぶって教える先生より技量が上と感じたという。失望から程なく学校には行かなくなり、近所の森や山で時間を潰す日々を送った。ちなみにこの学院には画家の丸木位里も学んでいた記録が残っている。上記の反省から学校を選び直す事を思い立ち、美術系の旧制専門学校である東京美術学校(現・東京藝術大学)で学んで画家になりたいという大きな夢が膨らんだ。高等小学校卒の水木には旧制専門学校の受験資格はなかったので、まずは旧制中学校を再び目指し、精華美術学院を退校して大阪府立園芸学校(現・大阪府立園芸高等学校)を受験した。幸運にも同年の筆記試験は国史(日本史)の一科目だけであり、参考書をほとんど丸暗記して試験に臨んだ。加えて定員50名に対し受験者51名(つまり一人だけが落ちる)という低倍率で、絶対に合格すると自信満々で結果すら見に行かなかったが、父が確認すると不合格だった。水木は不合格の原因について、面接で「卒業したらどうするんだ」と聞かれ、「満蒙開拓義勇軍に入ります」というのが模範回答だが、旧制中学校卒の資格が目当てであって別に園芸や農業に興味はないと正直に答えたためではないかと推測している。流石の水木も惨めな思いをしたが、父は怒らず「本当に満州行きになったらどうするんだ」と優しく慰めてくれたという。1940年(昭和15年)新聞配達で働きながら別の学校(日本鉱業学校採掘科)を受験、今度は合格する。しかし例によって専門科目に全く興味が抱けず、成績不振且つ欠席が多く半年で退学処分となった。間もなく新聞配達も辞め、大阪の朝日ビルディングの中にあった中之島洋画研究所に通っていた。水木は両親と今後を話し合い、両親から日本大学付属の旧制大阪夜間中学校(現・大阪学園大阪高等学校)への進学を勧められ、同校に入学した。昼間には『支那通信』というガリ版新聞を配達する仕事をし、休日には宝塚ファミリーランドの動物園や昆虫館、宝塚歌劇によく足を運んでいた。そうした中、太平洋戦争が勃発する。20歳になった水木は徴兵検査を受け、結果は体は頑健ながら近眼により乙種合格で、補充兵役に編入され現役入営(入隊)はしなかった。だが戦争が激化する中で(甲種合格の現役兵主体では兵員不足のため)次第に召集対象者の枠は広がっていき、やがて自分も召集され入営する可能性が高まっていった。「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えていた水木は哲学書を乱読し、仏教書や聖書など宗教文献を読み漁った。その中で一番気に入ったのが、ドイツの詩人ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』で、これは戦地にも持っていった。21歳の時、夜間中学3年生の補充兵役であった水木に召集令状が届き、本籍地の鳥取の歩兵第40連隊留守隊に入営した。なお、在学していた夜間中学は自動的に退校処分となった(後述)。軍隊生活でもマイペース振りはそのままで、その大胆な態度から風呂で幹部と間違われて古年兵に背中を流してもらった。初年兵教育を終えると喇叭手になったが上手く吹けず、自ら配置転換を申し出た。最初は取り合ってもらえなかったが、三度目に曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。国内配置についての事だと考え、寒いのが嫌いなので「南であります」と答えた。てっきり九州など国内南部の連隊への配属になると思っていたが、南方のラバウル行きが決定したと告げられて青ざめた。楽天家の水木も南方戦線の惨状は知っており、異動命令の直後に二泊三日の外泊が許されて両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという。歩兵第229連隊(岐阜県。第38師団隷下)所属となった水木をパラオからラバウルまで輸送したのは、日露戦争で活躍した老朽船の「信濃丸」だった。敵潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ、水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後にラバウルに派遣された部隊は全て途中で沈没させられているため、水木の部隊がラバウルに到着できた最後の部隊であった。ラバウルに着いた時、上陸できた奇跡から気が緩んで「ここは何処でありますか」と尋ねてしまい、上官から猛烈な往復ビンタを食らった。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、特に上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。配属部隊の上官はなぜか茨城県出身者が多く、強い訛り言葉を水木が聞き取れないとそれもまた鉄拳制裁の理由になった。基本的に軍隊生活と馴染めなかった水木だったが、所属していた第2中隊の中隊長である児玉清三中尉(30歳代後半の材木屋出身の予備役将校)からは、その腕を買われ似顔絵を描く事をよく頼まれていた。他に下士官の宮一郎軍曹や軍医の砂原勝己大尉など、親切に接してくれる人物もいた。ニューブリテン島での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。ニューブリテン島ズンゲンの戦いにおいて、優れた装備と圧倒的な物量の連合軍の前に、所属する支隊の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、児玉中隊長の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。しかし、支隊本部の総員玉砕報告に反して生存者が出たことから、児玉は責任を取って自決した。また島の住民にも襲われそうになった。バイエンに配属され、決死隊として夜間の見張りをしていたとき、敵の飛行機から機銃掃射された。さらに逃げていた所を原住民ゲリラに発見され、あわてて海に飛び込んで逃げた。水木は銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、落ち武者狩りをやりすごしつつ、奇跡的に生還した。九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられた。「なぜ死なずに逃げたのか」と不機嫌な態度で詰問され、呆然としていると「死に場所は見つけてやるぞ」と言い捨てられた。これ以降、戦場ですら朗らかだった水木も流石に塞ぎこんで虚無主義的な考え方をするようになった。陰惨な日々は続き、帰還してまもなく行軍中に風邪を引いた際にマラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく行方不明になりそうにもなった。追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。1945年の初め頃、他の傷病兵と後方に送られる。傷病兵の間では「役立たずになった兵士はまとめてどこかに捨てられる」との噂が立っており、水木も少し不安だったが辿り着いたのはナマレに設置された野戦病院で、治療の傍ら畑仕事などに駆り出された。最前線に比べれば安全な土地で死の恐怖が和らぐと、島の原住民であるトライ族と交流する余裕ができた。他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。事ある毎に自分を罵倒していた上官の大尉からは「あいつは頭がおかしいぞ」と陰口を叩かれたが、先述の砂原勝己大尉が庇ってくれたという。8月25日、部隊長から「ポツダム宣言受諾」についての訓示を受ける。水木も他の兵士達も意味する所が理解できず「戦争に勝ったのか?」との囁きが漏れたが、程なく「戦争に負けた」という話だと判った。軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だった。カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意した。1946年3月、24歳の時に駆逐艦「雪風」で浦賀港に入港し、日本へ復員した。3年振りに帰国した水木は国立相模原病院(旧・神奈川臨時第3陸軍病院、現在の国立病院機構相模原病院)に入院して、応急処置の段階だった片腕の本格的な治療を待っていた。医者や物資の不足で一向に順番が回ってこないので一旦故郷の境港に戻り、養生する日々を送った。両親は水木が片腕を失った事を知らなかった為、事実を知った後に母が片腕を使わずに家事をしたり、父が片腕無しでも務まる仕事を探して「灯台守なんかどうじゃろう」と知恵を絞ったりと、次男の不幸を悲しんでいたという。しかし水木自身は生き抜いた喜びと「絵を続けられる」という希望を胸に抱き、出征前に目に焼き付けておいた故郷の風景を眺め、清々しい気持ちで過ごしたという。翌年、治療の順番が回ってきたので相模原病院に戻った。病院直営の染物工場で絵付けの仕事で入院中の生活費を稼いでいたが、雀の涙にしかならなかった。やがて他の患者と闇米の買い出しで生活費を稼ぐようになり、本格的に闇屋家業で一財産を得ようと目論んで東北に食料の買い付けに向かった事もあったが、見事に失敗して「どんな道でもプロになるのは険しい」と反省した。他に病院仲間から誘われて「新生会」という「傷病兵の明るい未来」をスローガンに掲げ、様々な事業を繰り広げていた傷痍軍人団体に加盟し、復員兵による廃墟ビルへの居座りや募金活動などに参加した。この内、居座りについては政府から軽くあしらわれて失敗したが募金活動は上々の成果を挙げ、元気よく軍歌を歌って募金を集めた。だが上層部の内紛で加盟員の離脱が相次ぐと、水木も配給制において政府の許可制である魚屋の資格を申請して転職した。予め契約を取った家庭に魚を届ける形式で、ようやく復員後の生活が安定するようになった。経済的に余裕が出ると絵に対する思いが湧き上がり、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)が学生を募集中と知る。すぐに入学を思い立つが、旧制専門学校であった同校には旧制中学もしくは新制高校の卒業資格が必要だった。水木は件の夜間学校に掛け合ったが、「出征により退校」となっていた事から卒業資格は与えられないと回答された。それでも在学証明書を貰って美術学校に直談判し、特別に入校を許可される。1948年、26歳の時に入学した美術学校は敗戦直後という事もあって学生の服装は古びていて、技術や年齢層も不揃いだったが懸命に学んでいたという。仕事の方は新たに輪タク業を始めるべく魚売りの権利を売り、その金で輪タクを四台購入して一日五百円で貸し出し、また弟と協力して米軍物資の横流しなど闇市での商売も続けた。学業と仕事に明け暮れたが、商売はやはり素人商売ゆえに大手に押されてどちらもジリ貧になり、店じまいとなった。起死回生を狙って「新生会」の副会長と二人で全国募金行脚を挙行するも、思っていた程に集まらず、神戸に辿り着いた時には這々の体であった。学業の方も絵で食べていく事の経済的な厳しさを痛感する中で徐々に見切りを付け始め、数年後に中退した。これが水木にとって最後の学業への試みとなり、「色々学校に行ったが、結局は高等小学校卒という事になった」と回想している。復員後の道が定まらない状況を過ごしていたが、先の募金旅行で辿り着いた神戸市で滞在した安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらえんやろか」と購入を持ちかけられた。既に抵当が付いていたが、その代わりに格安の値段であったので購入を決意し、輪タク業など今までの事業で貯めた資金をかき集め、足りない分は父に借金して代金を調達した。このアパートが神戸市兵庫区水木通にあった事から「水木荘」と名付け、大家業を始めた。勝手が分からずとにかく不動産屋に頼んで募集の広告を掲載した所、水木と同じ変わり者ばかりが入居し、家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が中々軌道に乗らず副業を探していた所、29歳の時に紙芝居作家の弟子をしているという青年がアパートに入居した。一度は諦めた絵に対する熱意もあって、その青年から紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。水木曰く「内容がゲイジュツ的」だった為か評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士の鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが紙芝居業は非常に薄給で、ましてや実績のない無名の新人作家にはまともな代金は支払われなかった。加えて貸元も絶えず夜逃げの危機にある零細企業であり、その僅かな代金の支払いすら滞りがちであった。暫くして鈴木が林画劇社から独立して自身の貸元「阪神画報社」を設立すると水木も引き抜かれて専属作家の扱いになった。当初は本名で活動していたが、鈴木が水木の本名(武良茂)を覚えてくれずいつまで経っても「水木さん」と間違って呼ぶため、そのまま「水木しげる」のペンネームを使い始めた。専属作家になっても相変わらず薄給のままで、人気の紙芝居作家であった加太こうじの助手なども務めながら本業の収入に頼る状態が続いた。1953年、ついにアパート経営にも行き詰まると水木荘を売却して購入時に引き継いだ借金を精算し、大家業から手を引いて西宮に引っ越した。それからは紙芝居の専業作家として脇目も振らずに作品作りに没頭し、少しづつノウハウを掴んで「空手鬼太郎」「河童の三平」など後年の活躍に繋がる作品を制作した。しかし水木が紙芝居作りのコツを覚えるのと平行してテレビや貸本漫画など他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退していった。紙芝居に見切りを付けて漫画家への更なる転身を決め、1957年に西宮から上京して貸本の版元に持ち込みを行った。自身と同じく紙芝居から離れていた加太こうじの推薦もあり、兎月書房という小さな出版社から別の作家が書き残した「赤電話」という漫画を完成させる仕事を受注した。この仕事を無事に終えた後、1958年に正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版し、35歳で紙芝居作家から貸本漫画家となった。貸本時代初期の水木は主に戦記漫画やギャグ漫画などを中心に制作しており、『飛び出せピョン助』『戦場の誓い』などを兎月書房から刊行した。他にもホラー漫画、SF漫画、ギャグ漫画、少女漫画、時代劇などの多彩なジャンルをさまざまなタッチで描き分けている。また作家が他の出版社から作品を出すのを嫌がる傾向があったので、水木しげる以外にもむらもてつ、東真一郎など複数のペンネームを使い分けていた。貸本漫画は一冊120ページ程度の作品につき2万5000円から3万円程度の報酬が出版社から支払われたが、これは当時の国家公務員の初任給が1万足らずで、紙芝居が1作200円から1000円であった事を考えればかなりの高給だった。ただしそれは毎月作品を量産でき、なおかつ作品が毎回採用された場合の話であった。遅筆の水木が一ヶ月で作品を仕上げれる事はまずなく、完成しても売れる見込みのある作品でなければ出版社は買い取らなかった。そればかりか他の出版社にも不評の噂が回って締め出しを食らうという過酷な実力社会だった。しかも紙芝居の貸元同様に貸本出版社も零細企業が多く、どうにか納入が決まっても例によって代金の支払いは滞った。懸命に働いても生活は楽にならず、家賃の滞納や質屋通いが続いた。作品が評価されず不遇の生活が続く内に暗く陰惨な作風が強まり、それが出版社から「作風が暗い」と敬遠されて余計に生活が苦しくなるという悪循環に陥っていった。一時は「水木しげるの名では売れない」と"堀田弘"、"竹取おさむ"など勝手に作者名を変更される屈辱を味わった。この貧乏生活のさなか、すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、島根県能義郡大塚村(現在の島根県安来市)出身の飯塚布枝と見合いをし、同年に結婚した。間に立ったのは布枝の母の弟で、この叔父の妻の実家が武良家の遠縁だった。結婚する最初で最後の機会と考えた水木は「普通の会社員の二倍稼いでいる」と仲人口で見栄を張って洗練された都会人を装ったが、気が緩んだ拍子に方言を連発してしまったという。見合いから結婚式までわずか5日というスピード婚で、式場は米子の灘町後藤のお屋敷が用いられた。新婚旅行の余裕すらなく大急ぎで東京に戻り、作品制作を再開した。この頃の水木は戦記漫画が一番の売れ筋であり、兎月書房の貸本用雑誌である『少年戦記』で水木しげる作戦シリーズなどを連載し、また雑誌の編集役を請け負って小松崎茂や坂井三郎らとも交流している。しかし肝心の原稿料は出し渋られ、紙芝居業界につづいて貸本漫画業界も衰退すると益々生活が苦しくなっていった。あまりの貧しさに、訪れた税務署員は「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑ったが、水木は質札の束を突きつけ「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と怒って追い返した。結婚の翌年に長女が生まれた時は真剣に漫画家を辞める事も考えたという。そうした中でかつて紙芝居作家時代に描いた「鬼太郎」を題材にする事を思い付いた。1960年、兎月書房から『墓場鬼太郎』シリーズの執筆を開始し、第一作となる「幽霊一家」が貸本雑誌『妖奇伝』に掲載された。後年の鬼太郎とは全く違う、紙芝居時代に近い陰鬱な怪奇物に仕上げ、当初は全く売れず『妖奇伝』も第2号で打ち切りとなった。だが打ち切り後に一部の読者から熱心な連載再開を要望する手紙が届き、倒産間際だった兎月書房は最後の希望を託して『墓場鬼太郎』シリーズの刊行を継続した。これが人気作となり、徐々に水木しげるの名が知られていく契機となった。水木は「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と述べている。名が売れると多少は強気の姿勢に出られるようになり、『墓場鬼太郎』の原稿料を支払わない兎月書房から三洋社に移籍して『鬼太郎夜話』を刊行した。『鬼太郎夜話』も人気を得たが、三洋社の長井勝一社長が結核で入院して経営が混乱した事で打ち切りになってしまい、既に納入していた5巻目の「カメ男の巻」は原稿自体が行方不明という幻の作品と化している。『鬼太郎夜話』に次いで東考社から『悪魔くん』を出版したが、思ったより人気が出ず、全5巻の予定が3巻目で打ち切りとなった。貸本版の『悪魔くん』は経済的な貧しさから生じた過激な社会風刺に満ちており、「間違っている世の中を倒して、革命を起こす」という過激な思想は当時の水木の「懸命に働いても貧乏が続く」自身の生活の悲しみと憤りから発している。『悪魔くん』の後は兎月書房とも和解して鬼太郎と共に紙芝居時代の作品である『河童の三平』を漫画化した。水木が得意とする妖怪漫画の原型は紙芝居から貸本漫画時代にかけて形作られている。1964年、復帰した長井勝一から新しく漫画雑誌を作る予定を聞かされ、水木にも参加して欲しいとの依頼を受けた。同年9月に現代漫画の源流の一つとなる『月刊漫画ガロ』の第1号が出版され、水木は創刊号で「不老不死の術」を掲載した。以降、個性派揃いの作家陣が揃うガロにあって、白土三平やつげ義春らと並んで雑誌の看板作家として名を上げた。加えて翌年には講談社からもW3事件の影響で「劇画路線」を採用した『少年マガジン』での連載を依頼される。当初は「SF物」との縛りがあった事から悩んだ末に辞退したが、半年後に作風を限定しないとの譲歩を得て執筆を承諾した。貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのに苦労するが、『別冊・少年マガジン』に掲載された『テレビくん』を掲載した。1965年、『テレビくん』が第4回講談社児童漫画賞を受賞して、45歳にして人気作家の仲間入りを果たした。水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界は一大妖怪ブームとなる。また民俗学での専門用語だった「妖怪」が、一般に伝わる経緯ともなった。また、『少年マガジン』で「大図解」を担当していた大伴昌司も、水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。急増した仕事に対処するため、1966年に水木プロダクションを設立し、池上遼一やつげ義春、鈴木翁二らが参加した。アシスタントを多数使えるようになったため、水木漫画おなじみの「点描が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した非常にユニークなものである。なお、それまでの貧乏生活で、質屋に入れていた物品は質札3cm分にもなっていたが、雑誌連載の原稿料ですべて返済し、質流れになることなく取り戻すことができた。ただ、最初に質屋に入れた背広は、10年経って変形していたので外につるして置いたら、ドロボウに盗まれてしまったという。1970年には連載が11誌に達してテレビやイベントの仕事も引き受けるなど時間に追われる日々を過ごした。気侭な人生をモットーとする水木はどんな状況でも睡眠時間だけは十分に取っていたが、この時期だけは徹夜に次ぐ徹夜で目眩や耳鳴りの症状が出る程だった。またプロダクション設立後は運営経費の捻出にも悩まされ、「漫画では大金持ちにはなれない」と痛感したという。そんな時に軍隊時代の恩人で、戦後は阪急電車の職員になっていた宮一郎元軍曹と26年振りに再会し、二人で戦地を尋ねる旅行に出向く事になった。再訪したニューブリテン島ではトライ族の集落も訪れ、久しぶりに牧歌的な生活を見るにつれて自身のマイペースさを失っていた事に気付き、帰国後すぐに仕事をセーブする事を決めた。またこの時期に本人が最も思い出深いと語る戦記漫画『総員玉砕せよ!』を執筆している。仕事を抑えた事に加えて初期のブームが一段落した1980年代初期には低迷期を迎え、水木家では夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほど経済的にも遣り繰りが厳しくなったという。一時は水木も「妖怪なんていないんだ」と言い出すなど霊的世界への興味や創作意欲を失ったが、次女が修学旅行で「目々連」を目撃した話をしたところ、水木は喜んで立ち直ったという。それから鬼太郎を筆頭に全盛期に描いた妖怪漫画の度重なる映像化や再放送などで人気が復活し、やがて世代を超えた知名度を得ていった。また連載を減らした時からアシスタントには趣味でもあった妖怪絵巻の制作を手伝ってもらい、膨大な数の妖怪画を蓄積していたが、こうした妖怪に関する考察や資料も作品の再評価に繋がった。ブーム再燃後は『のんのんばあとオレ』『コミック昭和史』など自らが描きたいと思う作品を選びながら執筆するようになり、個性派作家としての人気を確固たるものにした。1991年に紫綬褒章を、2003年に旭日小綬章をそれぞれ長年の漫画家としての活躍を讃えられて受章している。水木の特異なキャラクターと昭和と戦後漫画の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、水木自身について興味を抱かれる機会も増えた。1993年、縁の深い鳥取県境港市の町おこしに協力し、水木しげるロードの建設が開始され、2003年に水木しげる記念館の開館によって完成した。同地は鳥取県における観光名所として発展している。2010年、文化功労者に選出される。90歳を超えてなお新作漫画を発表し続け、晩年の主な作品としては、長年の課題としていた出雲を描いた『水木しげるの古代出雲』、泉鏡花の生涯を漫画化した『水木しげるの泉鏡花伝』、最後の連載漫画となった『わたしの日々』などがある。『ゲゲゲの鬼太郎』の実写映画や貸本版『墓場鬼太郎』のテレビアニメなども実現した。2010年、妻・布枝の著書『ゲゲゲの女房』がNHK連続テレビ小説としてテレビドラマ化、および映画化されるなど改めて水木の人生に注目が集まった。海外での評価も高まり、フランス・アングレーム国際漫画賞、米アイズナー賞などを受賞している。2011年、東日本大震災について考察した絵を描き、ニューヨーク・タイムズに掲載された。2013年、自身初の全集となる『水木しげる漫画大全集』が講談社から刊行開始。同年には近況を綴った『わたしの日々』の雑誌連載を『ビッグコミック』誌で開始、90歳を超えて新連載を始めるのは異例の記録となる。その後も、2015年4月より、93歳で『怪』に小泉八雲の原作に絵をつけた作品である『怪画談』の連載を開始(水木しげる+水木プロダクション名義)。同年12月発売の『怪 vol.0046』に発表された第3回が遺作となった。第4回からは水木プロダクション作品として連載が続けられている。2015年11月11日、東京都調布市の自宅で転倒して頭部を強く打ち、都内の病院に入院した。頭部打撲による硬膜下血腫を治療する為に緊急手術を受け、入院治療中で、頭部打撲は回復したものの、同年11月30日未明に容体が急変し、午前7時18分に多臓器不全のため入院先の東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去した。93歳没。通夜、葬儀・告別式は近親者のみで営まれた。翌年の1月31日には東京・青山葬儀所にて「お別れの会」が開かれ、親交のあった著名人や一般弔問者など約7800人が参列した。戒名は「大満院釋導茂(だいまんいんしゃくどうも)」。弔辞は野沢雅子、さいとう・たかを、松田哲夫らが読み上げた。1966年から『少年サンデー』連載の「ふしぎなふしぎなふしぎな話」で妖怪画を発表し始める。やがて、『少年マガジン』増刊の『日本妖怪大全』を経て、1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も「妖怪図鑑」の類を多数執筆している。水木は妖怪を題材にするにあたり、古い文献や絵巻などから多くの伝承や妖怪画を蒐集してゆく。そして、鳥山石燕など古典の画が存在する場合は参考にして描き、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」など文字の記録のみで古典の画が存在しないものは、水木によって初めて絵として描かれていった。そのため多くは水木が創造した形であり、現在の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の作品から大きく影響を受けている。大衆の中で失われていた多くの妖怪を救ったともされ、こうした仕事に対しては、水木を妖怪文化の継承者にして布教者などと評す声もある。一方、出典が不詳のため、創作の可能性を指摘されている妖怪(樹木子など)も幾つか描いている。また、2007年8月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明したように、近年の研究で水木の創作以前の絵が発見された例もある。1980年代には『水木しげるの妖怪事典』(正・続)、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。1992年には『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となる。1998年からは、1600点以上の妖怪画を収録した『妖鬼化』シリーズの刊行が開始。水木の周囲に妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年に世界妖怪協会を設立して会長となる。荒俣宏、京極夏彦、多田克己らが会員となり、「世界妖怪会議」が開催される。1997年からは、世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『怪』(角川書店)が刊行開始。水木も漫画を執筆している。それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカ・マリ共和国のドゴン族、マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族、オーストラリアのアボリジニ、メキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。その際、祭りなどがあるとビデオ撮影や録音をして、自宅で何度も鑑賞している。旅先で購入した仮面なども蒐集しており、自宅などに展示している。大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『日本妖怪大全』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。それらの結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えるようになる。のんのんばあとは彼がベビィ(水木語で“子供”の意味)の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことである。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていた。景山ふさの素姓について、水木の母・琴江によると「(松江の)士族の娘。貧乏侍。…親父は足軽」という。ふさは子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をしてくれた。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。ふさは水木が小学5年生の時に死去した。幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名が『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。2015年9月に中四国のTBS系列局とBS-TBSで放送された特番『水木しげる93歳の探検記 〜妖怪と暮らした出雲国〜』では、ふさの出身地でもある島根県出雲地方を訪れた水木が荒俣宏と共に初めてのふさの墓参りを行った。同年11月に水木は死去したため、これが最初で最後の墓参であった。戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』が放送された。水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官である砂原勝己軍医大尉に現地除隊を申し込むほどだった。砂原は2004年(平成16年)1月28日に逝去したが、1999年(平成11年)7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的にラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。それでも、アドバイスに従い、大戦前期の戦果を挙げた戦闘に取材した漫画も描いたが、題材が敗色濃厚になる末期に移るにつれ、案の定売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた。『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた。片腕を失ったことに対しては「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。2015年5月、水木が出征前に書いたとされる手記が発見され、文芸誌『新潮』2015年8月号に掲載された。貸本時代の水木は、出版社や作品などによって複数の名義を使い分けていた。特に自身が編集を任されていた貸本誌では、多数の作家が執筆しているように見せるため、1冊の中で複数の作品を別名義で書き分けていた。以下の出典は、名義の一覧と簡単な使用歴など。シリーズ物や、長編作品を中心に記載。『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』は前述。他、多数。『ゲゲゲの女房』がヒットした2010年には『あさイチ』(NHK総合、2010年5月19日)、『ボクらの時代』(フジテレビ、2010年8月15日)などに夫妻で出演。(鳥取県境港市入船町、東京都調布市)(鳥取県米子市東倉吉町)住田氏は近世期中ごろから米子の東倉吉町に居住し、住田屋を号した。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した。“本住田屋”の住田善平は、1896年(明治29年)12月 - 1900年(明治33年)12月まで米子町町長をつとめた。善平の長女が武良家に嫁いだ。
出典:wikipedia
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