穂高神社(ほたかじんじゃ)は、長野県安曇野市穂高にある神社。式内社(名神大社)、信濃国三宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。安曇野市穂高の本宮(里宮)のほか、松本市安曇の上高地に奥宮、奥穂高岳山頂に嶺宮があることから、「日本アルプスの総鎮守」の通称がある。また、毎年9月27日に行われる例大祭(御船祭)が有名である。本宮の祭神は次の通り。太字は主祭神。穂高神社一帯は古来より安曇氏(あづみし/あずみし、阿曇氏とも)の定着地とされる。『新撰姓氏録』には安曇氏に関連する記載として以下の3条が知られる。穂高神社祭神を「穂高見命」と見る説は、社名とこれらの条との関係づけによる。なお、『古事記』神代記には、ワタツミ(綿津見神・綿積神)の子で阿曇氏の祖として「宇都志日金拆命」の記載があり、穂高神社側ではこれを穂高見命の別名としている。ワタツミの子には他に、ヒコホホデミの妻・トヨタマヒメや、ウガヤフキアエズの妻で神武天皇の母・タマヨリビメがいる。一方で、社名「穂高神社」はあくまでも「穂高の神の社」または「穂高に坐す神社」の意に過ぎないとの指摘もある。なお、祭神は古くは一座であったが(『延喜式』神名帳)、中世に大宮・南宮・若宮の三殿とし、天文18年(1549年)の文書では「五所大明神」と五所(祭神不詳)を称してもいる。創建は不詳。当地は安曇郡の郡域にあり、定着した安曇氏によって当郡が建郡されたと見られている。そしてその安曇氏によって祖神が祀られたのが創祀とされる。安曇氏とは海人の一族で、福岡県志賀島の志賀海神社が発祥地とされる。安曇氏は北九州を中心として栄え、その活動範囲を東方へも広げていったとされる。当郡への定着は、信濃における部民制や当地の古墳の展開から6世紀代と推定されている。その要因には蝦夷地域開拓の兵站基地として、ヤマト王権からの派遣が考えられている。安曇郡の式内社には他に川会神社があるが、こちらでも安曇氏系の綿津見神が祭神とされている。穂高神社の西方には多くの古墳が築かれているが、穂高神社付近は神域として避けられたと考えられ、穂高神社一帯が勢力の中心地域であったと見られている。なお当郡における安曇氏の初見は、正倉院宝物の布袴にある天平宝字8年(764年)の墨書である。ただしここには「安曇部」の記載しかないため、あくまでも安曇氏の部曲が当地に設置されたに過ぎないという考えもある。文献の初見は、天安3年(859年)2月11日に「宝宅神」に対して従五位下から従五位上への神階昇叙がなされたという記録である。『延喜式』神名帳では信濃国安曇郡に「穂高神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。また、天正13年(1585年)に記された『三宮穂高社御造宮定日記』に見えるように、信濃国三宮を称していた。中世以来安曇郡一帯を治めた国人領主仁科氏が滅亡すると、安曇郡は松本城主の所領とされ、天正10年(1582年)に同城主となった小笠原貞慶は神領として土地を寄進し、小笠原秀政からは累代受け継いで式年の遷宮や祭祀の厳修に努めた。古くは諏訪大社の影響もあり、『定日記』によれば境内には諏訪神を祀る南宮があり、御柱を立てる習慣もあった。また仏教の影響も強く、文書によると中世には境内に神宮寺があり、江戸時代には本殿の西南に薬師堂があり本堂としていた。文禄年間(1592年-1596年)には穂高神社に15石、神宮寺に3石の朱印が安堵されている。神職は、古くは安曇氏だったと見られるが、中世には大伴氏が務め、のちには仁科氏に代わっている。明治に入ってからは、明治5年(1872年)に近代社格制度において郷社に列格、明治15年(1882年)に県社、昭和15年(1940年)に国幣小社に昇格した。本殿は形式の等しい右殿・中殿・左殿が並ぶ三殿方式で、この三殿と規模の小さい神明社が一直線に並ぶ。このうち中殿には、穂高神社だけに伝わる独特の形式の「千木(ちぎ)」と「勝男木(かつおぎ)」が乗せられている。勝男木は釣竿または船の帆柱を表していると言われ、この形式は「穂高造」といわれる。式年の遷宮祭では、『定日記』に定められた方式で社殿の造替・配置替が行われる。境内では、拝殿の前に神楽殿が立ち、その右手に若宮社と境内社数社が鎮座している。そのほか、手洗石と手水舎、神橋が安曇野市指定文化財に、大門の欅と若宮西の欅が安曇野市指定天然記念物に指定されている。天保14年(1843年)の『善光寺道名所図会』には穂高神社が載せられており、当時の境内の様子がうかがわれる。奥宮は、松本市安曇上高地に位置する。中部山岳国立公園内の明神池の入口に鎮まる。奥宮の脇にある景勝地の明神池は同神社境内にあり神域となっている。祭神は穂高見神で、本殿は穂高造。奥宮の御船神事は本宮とは異なり、毎年10月8日に明神池に舟を浮かべて行われる。また、4月27日に開山祭、11月15日に閉山祭が行われる。なお「かみこうち(上高地、神垣内)」の名称は、穂高見神を祀る穂高神社奥宮と明神池があることに由来するとされる。嶺宮は、穂高見神が降臨したとされる奥穂高岳(3,190メートル)の頂上に鎮座する()。社殿は白い石造りの小さな祠。式年祭として、20年に1度本殿一棟を造り替える大遷宮祭と、その間2回の修理を行う小遷宮祭が行われる。祭は、穂高神社に伝わる『三宮穂高社御造宮定日記』(安曇野市指定文化財)に従い、文明15年(1483年)以前からの古い形式で、安曇野市指定無形民俗文化財に指定されている。神事は遷座の100日前の四至榊立神事から始まる。役目を終えた本殿は各社に払い下げられるか取り壊すかされ、移築されて現存のものは十数棟ある。例大祭は「御船祭」と呼ばれ、毎年9月26日・27日に行われる。高さ6m・長さ12mにもなる大きな船形の山車(だし)「御船(おふね)」をぶつけ合う勇壮な祭で、長野県指定無形民俗文化財に指定されている。なお26日は神事のみで、本祭りは27日である。9月27日は天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで戦死したという安曇比羅夫の命日と伝えられている。祭では、大小5艘の御船に穂高人形を飾り氏子が穂高の街中や田園地帯で御船を曳いて練り歩く。そして神社へと曳き入れられ境内神楽殿を練り、神前を曳き廻るうちに大船2艘は御船同士をはげしく衝突させ合う。その迫力と豪快さから多くの見物客が訪れる。また、9月最初の土・日には子供船が町内を練り歩く「子供祭り」も行われている。御船神事で使われる御船は、本殿北側の御舟会館(入館料大人300円)に展示されている。御船の構造は、櫓(長立方形)4個の車輪、山(刎木、廻し木、架木)、腹(前部が男腹、後部が女腹)からなっている。神事の際御船のなかには若者が座り、笛・太鼓などの楽器を吹き鳴らす。奉射祭(おびしゃさい)は、3月17日に行われる特殊神事。拝殿中央から「神の矢」を東北に、「殿の矢」を東南に放ったあと、神楽殿に下げた大的に12本の羽根矢を射る。矢の命中の仕方でその年の豊作・凶作を占うものと伝わる。神事は安曇野市指定無形民俗文化財に指定されている。所在地交通アクセス(本宮まで)
出典:wikipedia
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