三重県道750号阿児磯部鳥羽線(みえけんどう750ごう あごいそべとばせん)は、三重県志摩市を起点に三重県鳥羽市に至る一般県道である。志摩半島東部の海岸線を結ぶ重要な道路であったが、地形の制約から拡幅が困難で2009年現在でも狭小区間が大部分である。沿線一帯の陸の孤島状態を解消したのは1976年(昭和51年)に全線開通したパールロードであった。的矢湾の磯部町三ヶ所から磯部町的矢へは道路が存在せず無料の渡船が運行されており、地元では「県道船」と呼ばれ親しまれている。船により的矢湾内の三ヶ所、的矢、渡鹿野島を結んでいる。また、この路線の運用は三重県が志摩市へ委託している。2009年現在、県道船は三重県ではこの路線のみとなっており、日本国内では全部で13箇所ある。2005年度(平成17年度)の的矢地区の海岸高潮対策工事に伴い、的矢の船着場が東と西の2箇所に分かれていたが、船着場付近の工事が完了し、2005年(平成17年)9月1日より元の船着場に復旧した。日本では1872年(明治5年)に学制が発布され初等教育が開始された。翌年の1873年(明治6年)9月に的矢湾沿岸の的矢村(現在の志摩市磯部町的矢)に的矢学校が設置され、1887年(明治20年)に的矢湾内の渡鹿野島と的矢湾対岸約680mの三ヶ所地区に分教場が作られた。1892年(明治25年)に三ヶ所分教場は独立し、的矢学校は甲賀の志摩高等小学校の分校となった。1899年(明治32年)に渡鹿野島分教場は1-2年生のみとなり、3年生以上は的矢へ通学することになったのちの1908年(明治41年)に廃止され、全学年が的矢へ通学することとなった。三ヶ所地区では三ヶ所尋常小学校となったのちに的矢小学校と合併し、三ヶ所地区でも船での通学が必須となった。そのため地元住民による通学のための人力での渡船の運行が1921年(大正10年)より開始された。的矢小学校への通学の渡船が1959年(昭和34年)に県道750号阿児磯部鳥羽線の一部として認定され、「県道船」と呼ばれるようになる。1946年(昭和22年)に動力船の「まとや丸」が導入された。1981年(昭和56年)に新造船に交代し、2006年8月現在は1997年(平成9年)就航の5代目「まとや丸」が使用されている。1998年(平成12年)に就航した5代目「まとや丸」は、200馬力級の三菱製V8インタークーラー・ディーゼルターボエンジンを搭載しており、県道船の規模としては高知県の県営渡船(長浜-種崎)・福井県に次ぎ日本で3番目である。まとや丸には自動車やオートバイなどは載せることができない。船室の中央部が通路になっており、前後に9列の座席が並んでいる。最前列右側が操舵席になっており、他の席は2人掛けである。定員は船長を含め35名であるため、団体の観光客には対応できない場合がある。まとや丸が整備などで運行できない場合は、三重県が民間船を手配し運航することになっている。専任の船員は船長1名である。週40時間労働に対応するため月-金曜日の週5日勤務になっており、土日曜日は基本的に民間船と民間船の船長により運航される。毎日6便の定期便が運行されているほか、待機時間中に船着場で待っている客が目視できた場合には随時運行が行なわれる。随時運行が開始されてからは、待っている意思表示のために竿の先に布を揚げる方法が選ばれたが、被視認性が悪いなどの理由で2002年(平成14年)に回転灯による合図に変更された。しかし故障が多く、停電時に合図ができないため、回転灯は半年ほどで廃止された。その後は国際法で定められた赤い板を水平にして待ち、乗る前に垂直に戻す方法に変更されている。定期運行毎日6便を含め、毎日約30便を運行している。三ヶ所地区と渡鹿野島の小中学生を中心に、年間約5万人を運ぶ。沿線には、難読地名が多数存在する。
出典:wikipedia
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