ラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald, 1824年2月3日 - 1894年8月5日)は、英領時代のカナダで生まれたメティ(西洋人と原住民の混血)の船員、冒険家。鎖国時代の1848年に、アメリカの捕鯨船から小船で日本に密入国し、約10か月間滞在した。長崎では日本人通詞たちの英語学習を助け、日本初のネイティブスピーカーによる公式の英語教師になった。英領カナダ時代のオレゴン・カントリーにある(現アストリア (オレゴン州))で、ハドソン湾会社の毛皮商だったスコットランド人(国籍はイギリス)のアーチボルド・マクドナルドと、当地の原住民であるアメリカインディアンの部族長の娘コアルゾア(別名プリンセス・レーヴァン、プリンセス・サンデー)の間に生まれる。母親の父と父親は、採掘業で協力関係にあり、ともに成功を収めていた。事業をうまく進めるために、土地所有者である原住民の有力者と婚姻関係になることは植民地開拓時代にはしばしばみられた。母親はラナルド出産後数か月で死亡し、ラナルドは母方の叔母に一時預けられたが、父親が翌年再婚したため再び引き取られた。エジンバラ大学卒の父親から基礎教育を受けたのち、1834年にレッドリバー(現・ウィニペグ)のミッション系の寄宿舎学校に入り、4年間学んだあと、父の手配でオンタリオ州で銀行員の見習いになったが肌に合わず出奔。子供の頃、インディアンの親戚に自分達のルーツは日本人だと教えられて信じ、日本にあこがれていたため、日本行きを企て、1845年、ニューヨークで捕鯨船プリマス号の船員となる。日本行きを決心した理由を本人はいくつか書き記しているが、自分の肌が有色であったこと(そのため差別を経験していた)、容貌が日本人と似ていたことから日本語や日本の事情を学びたかったこと、鎖国によって謎の王国とされていた日本の神秘のベールが冒険心を掻き立てたことなどを挙げている。また、インディアンの血が理由で好きな女性との結婚がかなわなかった失恋事件もきっかけとしている。さらに、植民地主義的な考えから、西洋人である自らを権力を持った支配層側、日本人をアメリカにおけるアメリカインディアンのような存在ととらえ、日本に行けば、自分のような多少の教育のある人間なら、それなりの地位が得られるだろうとも考えていた。船が日本近海に来た1848年6月27日(グレゴリオ暦)、単身でボートで日本に上陸を試みた。他の船員らは、日本は鎖国をしており、密入国は死刑になると説得したが、マクドナルドは応じなかった。船長は、マクドナルドが後に不名誉な扱いをされないよう、下船用ボートを譲り、正規の下船証明も与えた。最初、焼尻島に上陸、二夜を明かしたが、無人島だと思いこみ、再度船をこいで7月1日(グレゴリオ暦)、利尻島に上陸。マクドナルド自身の記述によれば、不法入国では処刑されるが、漂流者なら悪くても本国送還だろうと考え、ボートをわざと転覆させて漂流者を装ったという。ここに住んでいたアイヌ人と10日ほど暮らした後、島の別の場所で日本人に20日間拘留されたが、扱いは悪くなかったという。この後、8月に密入国の疑いで宗谷に、次いで松前に送られた。そこから10月に長崎に送られ、崇福寺の末寺である大悲庵に収監され、1849年4月にアメリカ軍艦プレブル号で本国に帰還するまでの約7ヶ月間を過ごした。マクドナルドは何度も奉行所で尋問を受けたが、通訳をつとめたのは森山多吉郎(森山栄之助、のちペリーの艦隊が来航したとき、通訳をつとめる。)である(マクドナルドもプレブル号船長も森山の英語がうまかったと述べている)。やがてマクドナルドが日本文化に関心を持ち、聞き覚えた日本語を使うなど多少学問もあることを知った長崎奉行は、オランダ語通詞14名を彼につけて英語を学ばせることにした。14名の通詞たちは、森山栄之助、西与一郎、楢村作七郎、西慶太郎(のち出島の医官ポンペの通訳をつとめる。)、小川慶次郎、塩谷種三郎、中山兵馬、猪俣伝之助、志筑辰一郎、岩瀬弥四郎、堀寿次郎、茂鷹之助、名村常之助、本木昌左衛門である。それまでは(オランダ語などを経由せず)直接的に英語を教える教師はいなかったので、彼が最初の英語母語話者による英語教師だったことになる。教えた期間はわずかではあったが、生徒のなかでもひときわ熱心であったのは、英語がもともと話せ、通訳も務めていた森山多吉郎(森山栄之助)であり、覚えがはやく、おどろくほどの習得能力を示した。日本の英語教育は幕府が長崎通詞6名に命じた1809年より始まっていたが、その知識はオランダ経由のものであったことから多分にオランダ訛りが強いものであった(「name」を「ナーメ」、「learn」を「レルン」と綴るように発音していたなど)。マクドナルドの指導法は最初に自身が単語を読み上げた後に生徒達に発音させ、それが正しい発音であるかどうかを伝え、修正させる、というシンプルなものだった。彼もまた覚えた500の日本語の単語をメモして残しており、周囲の日本人の殆どが長崎出身ということもあって、それらの単語の綴りは長崎弁が基本となっている。また、マクドナルドは日本人生徒がLとRの区別に苦労していることに関しても言及している。翌年4月26日(グレゴリオ暦)、長崎に入港していたアメリカ船に引き渡され、そのままアメリカに戻った。日本におけるマクドナルドの態度は恭順なものであったため、独房での監禁生活ではあったものの、日本人による彼の扱いは終始丁寧であった。マクドナルドも死ぬまで日本には好意的だった。帰国後は日本の情報を米国に伝えた。日本が未開社会ではなく高度な文明社会であることを伝え、のちのアメリカの対日政策の方針に影響を与えた。日本ではただの英語教師としてしか記憶されていないが、アメリカの歴史ではかなりの重要性を占める人物として、研究や紹介の書籍が多く公刊されている(Wikipedia英語版を参照)。日本から帰国したのち、活躍の場を求めてインドやオーストラリアで働き、アフリカ、ヨーロッパへも航海した。父親が亡くなったあと、1853年に地元に帰り、兄弟らとビジネスをした。晩年はオールド・フォート・コルヴィル(現・アメリカワシントン州)のインディアン居留地で暮らし、姪に看取られ亡くなった。死の間際の最後の言葉は、「さようなら my dear さようなら」であったという。「SAYONARA」の文字は、マクドナルドの墓碑にも文の一部として刻まれた。フェリー郡 (ワシントン州)のインディアン墓地に埋葬されている。(本人の口述書による)マクドナルドが長崎に拘留中に英語を教えたとする通詞は以下の14名。彼らは文法はすでに身につけており、マクドナルドは主に発音を指導した。文章を朗唱させ、そのつどマクドナルドが発音を直し、限られた日本語で意味や構造を説明した。日本人の発音について、母音は問題ないが、発音できない子音がある、子音のあとに母音が混ざる、LとRが正しく発音できないなどを指摘。マクドナルド自身も日本語を学び、日本語の単語に母方の言語であるインディアンの言葉との類似を感じ、自身の語学的才能に気づくが、指導書もなく、文法がわからなかったと書いている。マクドナルドの幽閉先には僧侶や医者などの訪問客も多く、こうした交流を通じ、自然を愛する心、人間性、高尚さ、誠実さ、純粋無垢などを日本人の美徳として挙げ、多くの点でよりキリスト教的だと驚き、キリスト教者は異教を不完全な宗教だとみなしているが本当だろうか、と疑問を呈している。
出典:wikipedia
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