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トミ・マキネン

トミ・マキネン(トンミ・アンテロ・マキネン、Tommi Antero Mäkinen, 1964年6月26日 - )は、フィンランド出身の元ラリードライバー。三菱ラリーアートチームの一員としてランサーエボリューションを駆り、1996年から1999年にかけて世界ラリー選手権 (WRC) の4年連続ドライバーズチャンピオンに輝いた。名前の表記は「トンミ・マキネン」「トミー・マキネン」「トミ・マキネン」などがあるが、一般には「トミ・マキネン」、フィンランド語により近いのは「トンミ・マキネン」である。1985年に地元の実業家、ティモ・ヨキや同郷の先輩、ユハ・カンクネンらの援助でラリーを始める。最初のマシンはフォード・エスコートRS2000であった。1987年にWRCデビューを果たすものの、後に鎬を削ることとなるコリン・マクレーやカルロス・サインツらがチームの強力なバックアップを受けて活躍していたのとは対照的に、1991年にマツダ、1992年には日産に加入したが、チームもマシンにも恵まれなかった。フィンランド国内選手権やイタリアラリー選手権、あるいはスポットでWRCに出場するなど、不遇の時期を送っていた。 そんなマキネンに転機が訪れたのは1994年1000湖ラリー(現:ラリー・フィンランド)。エースのフランソワ・デルクールの交通事故以来、低迷を続けていたフォードがそのカンフル剤として彼に白羽の矢を立てた。ディディエ・オリオールとカルロス・サインツのタイトル争いが過熱していたこの年、マキネンは見事にエスコートを乗りこなし、終始2人を圧倒して初優勝を成し遂げた。この活躍により、後に共に成功の階段を歩む三菱との契約を果たす。三菱での最初のラリーとして1994年のサンレモラリーにスポット参戦し、結果はリタイヤだったが、後にマキネンの走りを支えることとなる三菱の宝刀、アクティブ・デフを初投入した非常に意義のあるラリーだった。フル参戦初年度の1995年は、前年に投入した電気式アクティブデフの威力とマシンの改良が功を奏し、マキネンも持ち前の速さを遺憾なく発揮する。2戦目のスノーイベントのスウェーデンではその成果が表れ、チームオーダーによりチームメイトのケネス・エリクソンに勝利を譲ったものの、マキネンの速さが際立った。その後のラリーでも速さを見せるものの、結果に結びつかないラリーが多く、この年は散発的な結果に終わる。翌1996年は三菱本社の予算縮小の煽りを受け、1台体制がメインとなるも、チームはマキネンのタイトル獲得に戦力を集中させる。マキネンも前年の不安定感を克服して、シーズンを通して安定した速さを見せた。最終的に全9戦中5勝を挙げ、第7戦オーストラリアで初のWRCドライバーズ・タイトルを獲得した。この年を境にマキネンとランサーエボリューションは目覚しい活躍をみせる。1997年に新しくワールドラリーカー(WRカー)規定が導入され、ライバルのスバル、フォード、トヨタがWRカーを投入したが、三菱はグループAを貫き、ランサーエボリューションⅣを投入した。マキネンは最終戦までスバルのマクレーと熾烈なタイトル争いを繰り広げ、わずか1ポイント差でマクレーを下しタイトルを連覇した。その後もWRカー勢に対抗し、三菱もワイドトレッド化とエアロダイナミクスを改善したランサーエボリューションⅤ、Ⅵを投入した。アクティブ・デフも進化し、マキネンとのコンビネーションは圧倒的な速さでWRCを席巻した。1998年と1999年もタイトルを防衛し、チャンピオン獲得4回というユハ・カンクネンの記録に並んだ(4連覇は史上初)。1998年は三菱初のマニュファクチャラーズ・タイトル獲得にも貢献し、まさにマキネン、ランサーエボリューションの絶頂期であった。だが、改造範囲の広いWRカーがより戦闘力をつけるとともに、マキネンとランサーエボリューションの走りにも陰りが見え始め、グループAのランサーがWRカーの規約にあわせた修正(フロント、リアスポイラー)を余儀なくされる不条理な事態も発生するようになった。2000年シーズンにはその年からフル参戦を開始したプジョーのマーカス・グロンホルムにチャンピオンを奪われ、マキネンはシーズン5位に終わった。なお、このシーズンのラリー・ニュージーランド前に、フィンランド空軍の、F-18戦闘機に試乗した。飛行後、そのパフォーマンスに、あっけにとられていた表情が印象的である。このような時代の変化に伴い、ついにチームは2001年に長年に渡って拘ってきたグループAからWRカーへの転換を発表した。その特例でフライホイールの軽量化、リアサスペンションストロークの増大を施したランサー・エボリューション・トミマキネンエディション(通称:エボ6.5)は開幕戦から3勝をマークした。その後、第11戦サンレモからWRカーであるランサーエボリューションWRCを投入するも、最終戦までの4戦中3戦でリタイヤし、わずか1ポイントを得たのみだった。その結果、最終戦までもつれたチャンピオン争いに敗れシーズン3位に終わった。2002年、マキネンは7年間過ごした三菱を離れ、「ほかのワークスチームも知りたい」という理由から、これまで鎬を削ってきたスバルへと移籍する。初戦のモンテカルロでいきなり優勝したが、新型インプレッサWRC2002投入後は3位2回にとどまり、ランキング8位と低迷した。2003年はスウェーデンで2位を獲得するが、チームメイトのペター・ソルベルグの急成長を受けて、ソルベルグのチャンピオン争いをサポートする立場に回る。ソルベルグやセバスチャン・ローブ、マルコ・マルティンといった若手の台頭もあり、地元フィンランド終了後に本年限りでの引退を表明した。引退レースとなった最終戦ラリーGBでは金色のシューズを履いてドライブし、3位表彰台で花道を飾った。このラリーで3位を争ったマクレーもレギュラー参戦最終年となり、一方でソルベルグが優勝してチャンピオンに輝くなど、WRCの世代交代を印象づける一戦となった。マキネンのWRC4連覇の記録は2008年にローブが5連覇して更新され、ローブはさらに9連覇まで記録を伸ばした。現役引退後は故郷のユヴァスキュラ近郊にて、スバルのグループNラリーカーの輸入・製作・販売・開発を行うトミ・マキネン・レーシング(TMR)を経営する。また、スバル・インプレッサWRX STiの市販車開発テストに2010年現在もテストドライバーとして参加している。2004年のラリー・ジャパン初開催時はゼロカーをドライブ。久々の走りを披露し日本のファンに元気な姿を見せている。2010年4月16日、ドイツ・ニュルブルクリンクにおいて、当時最新のスバル・インプレッサWRX STi 4ドアを駆り7分55秒00を記録した。現役時代、日本のWRC参戦メーカーの中ではトヨタとの関わりがなかったが、2014年のラリー・フィンランドにて、豊田章男社長を乗せてTMR製作のトヨタ・GT86ラリーカーでパフォーマンスランを行った。2015年にはトヨタのWRC復帰(2017年より)と、マキネンが「TOYOTA GAZOO Racing」のチーム代表に就任することが発表された。ヤリスWRカーを開発するチーム拠点もフィンランドに置かれる。マキネンのレース運びの特徴は、得意なステージでライバルに差をつけ、終盤はライバルのペースをみながらリードを保ち勝利を得るというものだった。特にモンテカルロや地元のフィンランドではより鮮明に表れていた。フィンランド人ドライバーであるが、ターマックラリーも得意であり、1997年のカタルーニャでスバルのピエロ・リアッティを7秒差で下して勝利したときを境に、モンテカルロでは1999年~2002年に4年連続で、サンレモでは1998年と1999年に2年連続で勝利を飾っている。ちなみに、ターマックでは前述のモンテカルロの4連覇、グラベルではフィンランドの5連覇という1イベントにおける連覇記録を持っていたが、いずれも後にローブによって更新されている(ターマックではドイツとカタルーニャの8連覇、グラベルではメキシコの6連覇)。前述の通り、ターマックをベースに雪や氷により目まぐるしく変化する路面状況が特徴でありシリーズの中でも最難関とされ伝統の一戦でもあるモンテカルロを大得意としており相性は抜群で、1997年には総合3位、1999年~2002年では前述の通り史上初の4連覇を達成している(1998年と2003年はリタイヤ)。モンテカルロでの4連覇の記録は未だ破られていない。なお、モンテカルロでの通算勝利記録は4勝でワルター・ロールと並び最多タイ記録だったが、2008年にローブにより更新された(後に7勝まで記録を伸ばす)。一方で、ツイスティで独特なコースが特徴であるツール・ド・コルスを苦手としており相性は良くなく、初出場の1997年は6速全開200km/hで突如、コース上に現れた牛と激突して、50メートル崖下に転落してリタイア。崖からの転落にも関わらず、マシンは前後が大きく潰れるだけで済み、奇跡的にも無傷であった。翌1998年はECUのトラブルで、三菱最後の出場となった2001年もニューマシンの熟成が進まず、岩に激突、転倒し崖に転落する寸前で止まる大事故となった。この事故で長い間コドライバーを務めたリスト・マニセンマキが背中を痛め長期休養し、カイ・リンドストロームに交代することとなった。

出典:wikipedia

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