エジプト第10王朝(紀元前2130年頃 - 紀元前2040年頃?)は、エジプト第1中間期の古代エジプト王朝。(古代エジプト語:)を拠点にエジプト全域に勢力を拡大した第9王朝の地位を継承したが、南部ではテーベ(古代エジプト語:ネウト)侯が第11王朝を建てており、これと激しく争った。エジプト第10王朝がどのようにして成立したのかは明らかではない。エジプト第9王朝が築いた基盤を継承し、上エジプト北部地方を支配した。当時ナイルデルタ地方(下エジプト)東部には外国人が流入して統制を失っていたうえ、テーベを拠点とした第11王朝の強大化著しく、第10王朝は苦境に立たされていた。第10王朝と第11王朝の国境は当初上エジプト第8県のアビュドスの北にあったが、第11王朝の諸王による進入が繰り返し行われていた。こうした状況のため、上エジプトの州侯に対しても広範な自治を認めてその協力を仰がなくてはならなかった。第10王朝が比較的安定した時代を迎えるのはケティ3世の治世である。彼の時代に、第11王朝の王アンテフ2世による大規模な攻撃があり、一時は上エジプト第10県までが第11王朝の支配下に落ちた。しかしケティ3世はアシュート(古代エジプト語:サウティ)侯テフィーブの協力の下でこの攻撃を退け、逆に南下してアビュドスを占領することに成功した。この成功を背景に、第11王朝との間に元のアビュドス北の国境線で停戦するという合意を結ぶことに成功し、その後は友好関係の構築に尽力した。こうして南方国境を安定させると、下エジプト地方の統制回復に力を注ぐべく軍を北に向けた。ケティ3世が王太子メリカラーに対して与えた教訓であると伝えられる文書がある。これは現在『メリカラー王への教訓』と呼ばれており、かなりの部分が現存している。この文書は当時の王の責務など、王権観に関する記述や、倫理、政治的な問題に関する記述が多くある他、第10王朝が置かれた状況下で取るべき政策について論ずる記述も含まれており、当時の歴史を知るための第一級の史料である。文書の形式としては『カゲムニへの教訓』などの文書と同じ形式に従っている。この文書で、ケティ3世は下エジプトにおいて海岸に至るまでアジア人を撃退し、彼らによって破壊された土地は行政区に分け、都市を築いてアジア人を撃退するための兵士で満たしたと宣言する。その上でメリカラーに対し、「自分のやったこと以上のことをやれる者を見たいものだ。」と語り、アジア人に対する対策法をかなり具体的に教えている。また、それとは別に南方(通常第11王朝と解される)との間の友好を保つように述べ、それによって南部の建材は「妨害されることなく」メリカラーの下に届けられるだろうと述べている。ケティ3世の没後にメリカラーが王位についたが、最終的にはケティ3世の期待に応えることはできず、第11王朝の攻勢に敗退し、第10王朝は大幅に弱体化した。両国の間に再び戦争が起こるきっかけとなったのは、第11王朝の支配下にあった上エジプト第8県で発生した反乱であった(紀元前2047年頃)。この反乱にメリカラーが介入したため、両国の間に再び戦端が開かれた。しかし、第11王朝の王メンチュヘテプ2世の前にメリカラーは苦戦を強いられた。この第10王朝の劣勢を見たヘルモポリス(古代エジプト語:ウヌー)侯など第10王朝の有力州侯が第11王朝側につき、メリカラー死去までに第10王朝の国境線は大幅に後退した。メリカラー王の死後、名前不詳の王が跡を継いだが、間もなく第11王朝によってネンネス(ヘラクレオポリス)が陥落させられ、第10王朝は瓦解。再び全エジプトが統一王朝の下に置かれることになった。第10王朝の王に関しては不明な点が多く、各資料でも異動が多い。マネトは第10王朝に19人の王がいたとし、トリノ王名表では5人としている。以下に示す一覧は全く不完全なものである。
出典:wikipedia
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