日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット、機体記号JA8119、製造番号20783)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した航空事故である。運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2016年9月の時点で最多であり、墜落事故および単独機の航空事故でも世界最多である。夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれることもある。1987年(昭和62年)6月19日に航空事故調査委員会が公表した報告書では、同機が1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故(後述)後の、ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。これをもって公式な原因調査は終了している。航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声があるが、現在に至るまで行われていない。123便に使用されたボーイング747SR型機(機体番号JA8119)は1974年(昭和49年)1月に製造された。本事故を受け、1985年8月19日付で登録抹消。本機は日本の航空会社で運航していた同型機が墜落事故によって登録抹消された初のケースであり、ボーイング747型旅客機が日本の航空会社から全機退役となった。本事故発生当日、管轄の運輸大臣である山下徳夫や球団社長の中埜肇を本事故で失った阪神タイガースの選手・首脳陣たちは、事故直前の便(福岡発羽田行日本航空366便)で本機に搭乗して上京していた。1978年(昭和53年)6月2日、羽田発伊丹行き115便として本機が伊丹空港に着陸しようとした際、機体尾部が滑走路と接触し中破する事故が発生したが(日本航空115便しりもち事故)、この事故によって生じた損傷の修理を製造元のボーイングが行った際、後部圧力隔壁を修理する中で発生した作業ミスが本事故の主原因と結論付けられている。1985年2月から本事故までの間、本機では客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生している。事故調査報告書は、しりもち事故によって生じた機体の歪みによって化粧室ドアの不具合が発生した可能性は否定できないとしている。乗客は509人。搭乗方式はボーディング・ブリッジではなく、搭乗待合室から地上に降りて徒歩でタラップを昇る搭乗であった。18時04分、乗員乗客524人を乗せたJA8119型機はJAL123便として定刻より4分遅れで羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に当時の滑走路15Lから離陸した。18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24,000ft (7,200m) へ向け上昇中、23,900ftを通過したところで緊急事態が発生する。突然の衝撃音と共にJA8119型機の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、補助動力装置も喪失、その際にハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、操縦システムに必要な作動油が全て流れ出して、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまう。フゴイドやダッチロールを起こした機体は迷走するとともに上昇、下降を繰り返すものの、クルーの操縦により17分間は20,000ft (6,000m) 以上で飛行を続ける。18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(車輪などの降着装置)を降ろした後、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22,000ftから6,000ftへと一気に15,400ft (4,600m) も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの、埼玉県上空で左旋回し、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始める。123便は衝撃音発生から墜落までの間、破片を落としながら飛行していたようで、相模湾と墜落現場だけではなく、東京都西多摩郡奥多摩町日原でも機体の破片が発見されている。その奥多摩町で一般人が撮影した写真によって、JA8119型機が「垂直尾翼の大部分を失った状態」で飛行していたことが、後日初めて明らかとなった。機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデッド・アナウンスが流れた。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われた。波多野チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたという。その後、乗客は墜落時の衝撃に備え、いわゆる「不時着時の姿勢(前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)」をとって、衝撃に備えた。乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は、後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。一般的に墜落事故では、異常の発生から数分の余裕も無く墜落に至ることが多いが、この事故では18時24分の異常発生から30分以上にわたって飛行を続けることができたため、遺書を書く時間があった稀な航空事故である。デッドヘッド乗務の生存者は「客室乗務員は終始乗客のサポートをしていた」と証言しており、機体後部に取り付けられていたコックピットボイスレコーダー (CVR)には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されている。その他、一人の客室乗務員による不時着後に備えて乗客に出す指示を列挙したメモや、異常発生後の客室内を撮影したカメラが墜落現場から見つかり、マスメディアによって公開されている。衝撃音がした直後、高濱機長は航空管制官への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。その際、管制官の「右と左のどちらへ旋回するか?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる「右旋回」を要求している。このことは「海山論争」として多くの議論を呼ぶ。コックピットボイスレコーダーの解析によると、異常発生から墜落まで、操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は佐々木副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・パネルの操作・管制官との交信・クルーへの指示などは高濱機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、JALとの社内無線交信、さらに副操縦士の補助は福田航空機関士がしていたと推測されている。異常発生直後から油圧操作の効果がほとんどないにもかかわらず繰り返し操縦桿での操舵を試みるなど、クルーは操縦不能になった理由を最後まで把握できていなかった模様である。尾翼部分はコックピットからは目視できないため、パイロットは油圧系統全滅を認識しながらも油圧での操縦を試みている。ボイスレコーダーには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っている。近年、オリジナルに近い音声で元同僚パイロット協力のもと解析した結果、不明だった部分のうち16箇所が明らかになった。初めに残っていた音声は「最初の衝撃音」直前の客室とコックピットとのやり取りだった。本来当時のコックピット・ボイスレコーダーは30分の1/4インチ・エンドレステープレコーダー(始点と終点のない輪になったテープを巻いて用いるもの)であったが、30分を超える録音が残っているのは、たまたまテープに余分があったためである。18時24分35秒頃、ボイスレコーダーに何らかの衝撃音が録音されている。衝撃音直後に機長の「まずい、なんか爆発したぞ」という発言が記録されている。直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ランディング・ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、ランディング・ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧機器の作動油の圧力)を見ませんか」と提案する。25分、機長はスコーク77を発信し東京航空交通管制部に羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の後、機長が副操縦士に対し「バンク(傾き)そんなにとるなマニュアル(手動操縦)だから」「(バンクを)戻せ」と指示する声が記録されている。しかし、副操縦士は「戻らない」と返答した。その際、航空機関士が油圧が異常に低下していることに気づいた。26分、機長は副操縦士に「ディセンド(降下)」と指示するが、直後に機長の「なんで降下しないんだ?」とも聞き取れる発言が録音されている。27分、異常発生からわずか3分足らずで全ての油圧の喪失を示したとみられる「ハイドロプレッシャーオールロス(油圧全て喪失)」という航空機関士の音声が記録されている。同じ頃、客室の気圧が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールができない機体にはフゴイド運動やダッチロールが生じ、ピッチングとヨーイング、ローリングを繰り返した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「頭(機首)下げろ」「頭上げろ」という言葉が記録されている。31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している。37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1,000m余りの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。38分頃、これを回避するためにランディング・ギアを降ろそうとするが、油圧喪失のため降ろせなかった。40分、パイロットはランディング・ギアの自重を利用してギアを出すバックアップシステムを用いてこれを降ろした。この操作によって機体は右に大半径で旋回しながら降下し、同時にロール軸の振幅が縮小して多少安定した。46分、高濱機長の「これはだめかも分からんね」との発言が記録されている。やがて機体は山岳地帯上空へと迷走していき、47分頃からは彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。右、左との方向転換が繰り返し指示される中で、操縦している副操縦士に対して機長が「山にぶつかるぞ」と叫ぶなど、緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6,000ft (1,800m) 前後をさまよっていた。48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。この頃からエンジン出力(パワー)の強弱で高度を変化させる操縦を行い始めたと思われる。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。49分頃、機首が39度に上がり、速度は108kt (200km/h) まで落ちて失速警報装置が作動した。この頃から機体の安定感が崩れ、何度も機首の上げ下げを繰り返した。この間、機長が「あーダメだ。終わった。ストール(失速する)」と発言するまでに追い詰められながらも、諦めることなく「マックパワー(エンジン出力全開)、マックパワー、マックパワー」などと指示し続ける音声が残っている。50分、「スピードが出てます スピードが」と困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と励ます音声が残っている。機長の「頭下げろ、がんばれがんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今コントロールいっぱいです」と叫んでいる。この頃速度が頻繁に変化し、不安定な飛行が続いていたために、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され、53分頃から機体が安定し始めた。54分、クルーは現在地を見失い、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県熊谷市から25マイル西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180kt (330km/h) まで落ちた。出力と操縦桿の操作で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はいフラップ-10(今10度下がっているという意味)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。しかし55分12秒、フラップを下げたとたん、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下し始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ」という叫び声が記録されている。50秒頃、機長の「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との言葉に混じって副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と叫び、すぐさまフラップを引き上げたがさらに降下率が上がった。この頃高度は10000ft (3000m) を切っていた。56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「上げてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と叫ぶ。クルーの努力も空しくJA8119型機は降下し続け、18時56分14秒に対地接近警報装置が作動。同17秒頃にはわずかに機首を上げて上昇し始めたが、同23秒に右主翼と機体後部が樹木と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt (640km/h) に達していた。接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に70度傾いた。同26秒には右主翼の先端が稜線に激突し、衝撃で右主翼の先端と垂直・水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落、さらに同28秒には機体後部が分離した。機体は機首を下げながら前のめりに反転してゆき、18時56分30秒に高天原山の斜面にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。23秒の衝撃音の直前には、PULL UP(上昇せよ)との警告音に混じって機長の「あーダメだ…」もしくは「もうダメだ…」とも聞き取れる叫び声も記録されていた。ボイスレコーダーに録音されていた音声は、後に活字で公表されたが、この叫び声は判読不能とされていた。墜落時の衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。一方、28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇跡的に生還できた。だが、その他の者は即死もしくはそれに近い状況であった。即死した者も多かったものの、墜落直後の時点では客室後部付近を中心にかなりの数の乗客が生存しており、翌朝に捜索隊が到着するまでの間に次々と息を引き取ったという生存者の証言がある。JAL123便として飛行していたJA8119型機の飛行記録装置 (DFDR) と音声記録装置 (CVR) は、墜落現場から回収された。これらのデータによって、異常事態発生後のJA8119型機の飛行の様子が明らかになった。パイロットたちは、JA8119型機に発生した異常についてその直後に感知したが、垂直尾翼や機体後部の損傷状態については最後まで認識できなかった。同機に発生したフゴイド運動とダッチロールは、機首上げ角度20度 - 機首下げ15度、機体の傾き右60度 - 左50度の動きを周期的に繰り返すもので、大きな動揺にさらされた。パイロットたちは油圧が失われた状況のもと、エンジン推力を増減し、また、降着装置(ランディング・ギア)を降ろすことで空気抵抗を増大させ、機体の安定を図った。これらの操縦によってフゴイド運動の軽減と高度を下げることに成功した。しかし、ダッチロールの軽減や針路のコントロールはできなかった。異常発生の20分後には高度7,000ftまで降下したが、そのころ同機は進路を北西に変え、群馬県南西部の山岳地帯へと向かっていた。油圧不動作の代替手段として電動でフラップを展開したが、機体に大きな傾きが生じた。機首を下げて急降下し始めたため、パイロットたちはエンジン推力を増加させ機首を上げようとした。わずかに機首が上がり始めたが間に合わず墜落した。機内では衝撃音が響いた直後に酸素マスクが落下し、プリレコーデッド・アナウンスが流れた。乗客は酸素マスク・シートベルトを着用し、救命胴衣の着用なども行われた。生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までパニックに陥ることはなく、ほぼ全員が落ち着いて行動していたという。幼児連れの親に向けての子供の抱き方を指示や、「予告無しで着陸する場合もある」、「地上と交信できている」などの放送が墜落直前までCVRに記録されている。また、墜落までの間に複数の乗客が家族への遺書を残しており、その他にも不時着後に備えて乗客に出す指示をまとめた客室乗務員によるメモや、異常発生後の客室内を撮影した乗客のカメラが墜落現場から見つかり、マスコミによって公開されている。事故発生からちょうど29年にあたる2014年8月12日にフジテレビジョンで放送された特番で、生存した女性(夫、長男、長女、次女と搭乗し本人と長女が生還)が当時の状況を手記にしたため紹介されている。その中にあった新たな証言によると、乗客の幾人かは失神した状態だったという。18時28分頃、千葉県愛宕山の航空自衛隊中部航空警戒管制団第44警戒群(通称「嶺岡山レーダーサイト」)でも、123便の緊急事態を表す「スコーク7700」を受信した。ただちに直属部隊である中部航空方面隊に報告され、航空救難で中心的な役割を果たす航空自衛隊の中央救難調整所 (RCC:Rescue Coordination Centre) が活動を開始。18時56分、嶺岡山レーダーサイト当直司令は123便が墜落したと判断して、中部航空方面隊司令部にスクランブル待機中のF-4EJファントムによる緊急発進を提案した。19時01分、提案を了承した基地司令官の指示で、百里飛行場よりF-4戦闘機が離陸した。東京航空局東京空港事務所(羽田)は、123便の緊急事態発生を受けて東京救難調整本部 (Tokyo RCC) を開設し、同機の緊急着陸体制を整えた。その後、東京管制部のレーダーから消失(18時59分に受領)という事態となり、東京救難調整本部は、防衛庁、警察庁、消防庁、海上保安庁などの関係機関に通報(19時03分)し、123便の捜索に当たった。一方、レーダー消失直後は、まだ同機が低空飛行を続けている可能性も残されていたため、管制や社内無線からの呼びかけも続けられた。墜落から約20分後の19時15分頃、米空軍のC-130輸送機が、群馬・長野県境付近の山中に、大きな火災を発見と上空位置での横田タカン方位(305度)・距離(34マイル)を航空自衛隊中央救難調整所に通報。19時21分ごろ、航空自衛隊の百里基地を緊急発進したF-4戦闘機の2機も墜落現場の火災を発見して、上空位置での横田タカン方位(300度)・距離(32マイル)を通報した。これらの航空機が通報に利用した「横田TACAN」とは、設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)などを基準にした方位と距離から現場の上空位置を搭載の距離測定装置で測定したものである。本来これらの設備や機器は航空機の航法用として用いられている。墜落から約1時間後の19時54分に、救難・救助のため見切り発進した百里基地救難隊のKV-107ヘリコプターは、46分後の20時42分に現場上空に到着した。20時33分になって、救難調整本部(東京空港事務所長)から航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)が行われた。しかし、当時のKV-107救難ヘリは両側面のバブルウィンドウ横に救難用ライト4灯を装備して夜間の救難作業は可能だったが、赤外線暗視装置などの本格的な夜間救難装備の無いことなどを理由に、事故当夜の救難員が降下しての救助活動は行われなかった。事故機の遭難から約1時間40分後と、遅れて出された航空自衛隊への災害派遣要請の背景には、運輸省航空局東京空港事務所の幹部判断である「位置が確認できないことには、正式な出動要請はできん」などや、運輸省よりの「レーダーから消えた地点を特定せよ」と何度も東京ACC(東京航空交通管制部)には電話が入るなど、所管行政当局である運輸省・航空局隷下組織の地上での位置・地点特定に固執した混乱や錯綜が窺われる。陸上からは、群馬県警察・埼玉県警察・長野県警察が墜落現場の捜索にあたった。20時21分には、長野県警臼田署のパトカーが「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」と通報。21時39分には埼玉・長野両県警のパトカーが三国峠の西北西に赤い煙を発見した。12日深夜までに、長野県警は墜落現場は群馬県側の山中であると発表した。しかし、氏名不詳の110番通報によりもたらされた「長野県北相木村のぶどう峠付近に墜落した」との情報や、日本航空による22時の広報では「御座山北斜面」、運輸省は事故現場の緯度経度(北緯36度02分、東経138度41分)の他に「長野県南佐久郡御座山北斜面」、朝日新聞では防衛庁からとして「現場は長野県の御座山北斜面」などの誤報が繰り返えされ、これらの情報で地上からの捜索は混乱した。消防・警察や災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊は、翌13日の朝まで現場に到達することはできなかった。なお、航空自衛隊第44警戒群からの情報として、遭難当初から東京救難調整本部(運輸省航空局)より公表されていた、遭難機のレーダー消失地点である「」は、御巣鷹山から北側約2.0kmの群馬県側になるが、根拠のない情報として「長野県南佐久郡北相木村」、「御座山北斜面」が付加され、これにより緯度・経度情報が地上捜索隊の活動に生かされることはなかった。海上では、乗客が機外に吸い出された可能性があることから、東京救難調整本部の通報を受けた海上保安庁の巡視艇3隻が、駿河湾周辺の捜索を行った。8月13日午前4時30分過ぎの航空自衛隊救難隊による「墜落機体の発見」、続く5時10分の陸上自衛隊ヘリによる機体確認、5時37分の長野県警ヘリによる墜落現場の確認と、各自衛隊や警察のヘリによって、次々と墜落現場の状況が確認された。群馬県上野村の黒沢丈夫村長(当時)は、テレビ報道の映像を見て、現場が村内の「スゲノ沢」であると判断し、土地鑑のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請した。現場までは熊笹の生い茂る、傾斜角30度の急斜面で、約2kmの道のりに1時間30分もかかる難路だった。墜落からおよそ14時間が過ぎた、8月13日午前8時半に、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下し、その後陸上自衛隊第1空挺団員が現場に降下して救難活動を開始。陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着し、ようやく本格的な救難活動が開始された。8月13日午前11時前後に、4名の生存者が長野県警機動隊、上野村消防団などによって相次いで発見された。4人とも重傷を負っており、陸上自衛隊のヘリコプターで上野村臨時ヘリポートまで搬送され、4人のうち2人は東京消防庁のヘリに移し換えられて藤岡市内の病院に運ばれた。事故機には、多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が貨物として積載されていた。また、機体には振動を防ぐ重りとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐに現場には入らず、別命あるまで待機するよう命令されたという。航空自衛隊百里基地のF4戦闘機による事故直後の19時01分の緊急発進、百里救難隊による最初の救難捜索機 (MU-2S) や救難ヘリ (KV-107) の出動は、航空自衛隊への東京空港事務所長からの災害派遣要請が出される前に行われた。陸上自衛隊も群馬、長野の部隊が19時30分頃から出動態勢を整え、派遣要請を待っていた。航空自衛隊からの再三の要請督促を受けた羽田RCC(東京救難調整本部)から、すでに現場に到達していた航空自衛隊への災害派遣要請は20時30分過ぎと遅れ、陸上自衛隊に対しては航空自衛隊への要請が済んでいたため、要請の必要性を知らずに21時30分頃とさらに遅れた。また、当時の東京消防庁航空隊には、サーチライトを搭載したアエロスパシアル製救助ヘリコプターが2機配備されていた。事故当夜は関係省庁からの要請に備え、いつでも出動できるように待機していたが、東京消防庁への出動要請はなかった。のちに運輸省・防衛庁・警察庁ともに、このヘリの存在を知らなかったことが明らかになり、緊急時における縦割り行政の問題点が浮き彫りになった。この消防ヘリについては、事実の誤認が有り、着陸灯を探照灯(サーチライト)と間違った可能性がある。なお、東京消防庁航空隊は13日に、陸上自衛隊が事故現場よりヘリで搬送した、生存者4名のうち2名を上野村臨時ヘリポートで降ろした際に、同乗した前橋赤十字病院医師の判断で、救急車から消防庁の幹部移送のために、駐機中の消防ヘリに載せ替えて搬送している。民間機遭難を想定した当時の「航空機の捜索救難に関する協定」では、主に警察庁と運輸省(航空局)などが中心になっており、捜索救難の主体は警察が担うことになっていた。また、各自衛隊と警察の協力は防衛庁を通しての間接的な連携であり、航空自衛隊救難隊との直接の無線連絡はもちろんのこと、航空自衛隊中央救難調整所 (RCC) との連携なども不明確な状態に置かれていた。また、航空自衛隊のKV-107救難ヘリは夜間救難用のサーチライトを装備して、当時でも夜間救難作業に従事するなど、サーチライトの有無が事故機救難の阻害要因とは考えられない。なお、航空自衛隊の救難ヘリは警察の捜索隊との無線連絡のできない中で、搭載の着陸灯、サーチライトなどを用いて、上野村に派遣された群馬県警捜索隊への必死の誘導を試みている。1995年(平成7年)8月、当時123便を捜索したロッキードC-130輸送機に搭乗していた元在日米軍中尉が、事故直後に厚木基地のアメリカ海兵隊(のちに座間のアメリカ陸軍と訂正)救難ヘリを現場へ誘導したが、救助開始寸前に中止を命じられ、またその事実も他言しないよう上官から命令されたと証言した。生存者の証言によると、墜落直後の現場にヘリコプターが接近したが、やがて遠ざかっていったという。また、報道機関としては事故現場を最も早く発見した朝日新聞社のヘリは、現場を超低空で飛行するヘリを目撃している。マスコミ各社は「日本側がアメリカ軍の救助協力を断った」などと報道し、救難体制の不備や関係当局の姿勢に対する批判が高まった。護衛艦まつゆきは、石川島播磨重工業東京第1工場で、1984年(昭和59年)10月25日進水し、1986年(昭和61年)3月19日の就役前であった。1985年(昭和60年)8月13日午後、相模湾での公試中、前日夕刻に起きた「日本航空123便墜落事故」で、事故発生時に事故機から離脱した「垂直尾翼の破片」を偶然発見、回収。事故原因解明に大きく寄与した。事故が発生した日は夏休み中で、「お盆の入り」の前日であったため、当日の日本航空や全日本空輸、東亜国内航空の各便には出張帰りのビジネスマンのほか、帰省客や観光客が多く搭乗した。最終便が満席で乗れない客が発生することを防ぐ理由もあり、最終便1本前である当便は、ほぼ満席の状態だった。このため、仕事を終えて帰宅しようとした全日空の社員も自社便が利用できず、数名が当便に搭乗していた。生存者は4人であった(デッドヘッド客室乗務員の26歳女性、34歳女性と8歳女性の母子、12歳女性)。救援隊の到着時に、現場で実際何人が生存していたのかについては、情報が錯綜した。生存者4名は発見から数時間は、現場からのヘリコプター搬送が行われず、特に34歳女性と8歳女性の母子は、大変な重傷で、猛暑の中体力を消耗した。捜索隊による生存者か遺体かの判別は、呼びかけたり叩いた時に反応があるか、手で触って脈があるかなどで行われていた。生存者発見後に医師・看護師が墜落現場へ、ヘリで派遣、生存者4名が病院に搬送され、それ以外は遺体として藤岡市民体育館(建替え前の施設)へ運ばれた。搭乗していた乗員・乗客524名のうち、墜落地となった群馬県の住民は1人(竹下元章)だけであった。尚、当初墜落地と報道されていた長野県の住民は1人も当便に搭乗していなかった。など。遺族待機所・遺体安置所として、群馬県藤岡市内の小学校・中学校・高校の体育館と校舎が開放された。遺体の搬出には、陸上自衛隊・東京消防庁・近隣各県警・警視庁・海上保安庁のヘリコプターが投入された。ヘリコプター発着場所は、藤岡市立藤岡第一小学校・校庭、遺体検視兼安置所は旧藤岡市民体育館に設置された。8月14日午前9時頃、墜落現場から直線距離で約45km離れた群馬県藤岡市へ、遺体搬出作業が開始された。地元群馬県警察医師会所属の医師のほか、群馬県内外の医師、群馬大学医学部および東京歯科大学の教授陣・法医学者・法歯学者・歯科医師・看護婦、日本赤十字社関係者などが、身元確認作業に従事した。しかし、墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた。盛夏であったこともあり、遺体の腐敗の進行も早かった。当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったため、身元の特定は困難を極めた。最終的な身元確認作業の終了までには、約4カ月の時間と膨大な人員を要し、最終的に確認できなかった遺体片は、同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行われ、火葬に付された後に、墜落現場に近い群馬県上野村の「慰霊の園」へ納骨埋葬され、検視に利用された藤岡市市民体育館は、遺体の死臭が抜けず取り壊された。運輸省航空事故調査委員会(委員長:武田峻)は、事故発生後の8月14日に墜落現場に入り、本格的な調査を開始した。調査には事故機の製造国であるアメリカから、NTSB(アメリカ国家運輸安全委員会)の事故調査官ら(調査団代表:Ron Schleede)が顧問として加わった。事故から約1ヵ月後の9月6日、事故機の製造者であるボーイング社が声明を発表し、しりもち事故の際に自らが行った圧力隔壁の修理にミスがあったことを認めた。刑事裁判にて、業務上過失致死傷罪での刑事責任追及を恐れた日米の関係者は、黙秘権を行使し、事故調査報告書も、墜落機のトラブルに至る詳しい経緯には踏み込めなかった。2016年(平成28年)8月11日、墜落事故から4年後の1989年(平成元年)に、アメリカ合衆国司法省がボーイング社に対し、日本の検察の捜査に協力するよう促していたことが分かった。アメリカ合衆国連邦政府が、中核産業のボーイング社を擁護したとの見方も根強いが、当時、主任検事を務めたリンダ・キャンドラー弁護士が、東京新聞の取材で初証言をし、明確に否定した。1987年(昭和62年)6月19日、運輸省事故調査委員会は事故調査報告書を公表し、本事故の推定原因を発表した。その要旨は以下のとおりである。また、報告書では調査結果に基づき、大規模な機体の修理を行う場合は、その修理部分を特別に点検項目に加えて継続監視することや、与圧構造が損壊した場合のフェイルセーフ性を耐空基準に追加することなどを勧告した。事故調査報告書では、事故機の垂直尾翼の破壊過程については、尾翼の回収が部分的であるため、その詳細は特定できなかったとしている。損壊した垂直尾翼については、事故から2か月以上が過ぎた1985年11月に、海上保安庁の協力を得て相模湾周辺の海底探査が行われたが、何も発見できずに打ち切られており、垂直尾翼の大半は回収されなかった。1986年4月25日に行われた事故調査報告書の案を検討する聴聞会では、公述人として参加した技術関係者や学識経験者から、事故原因の究明に重要な要素である垂直尾翼の破壊過程が十分に解明されていないという意見が出た。また、尾翼の捜索も不十分であるという指摘もあった。事故調査報告書では、圧力隔壁の損壊部分から与圧された客室内の空気が流れ出したことで、機内には相当な減圧が発生したと推定している。事故調査委員会はこの減圧についての計算を行い、異常発生の8秒後には機内の与圧はすべて失われ、気温もマイナス40度にまで低下したことを示唆している。これに対して、パイロットが急減圧発生時の所定の対応をとらず、酸素マスクを使用した形跡がないことや、生存者が、室内温度の低下や急減圧時に発生する強風を否定する証言をしていることなどから、123便には急減圧が発生していなかったと指摘する意見がある。この点、運輸安全委員会が平成23年7月に発行した解説書では、2009年7月13日に、アメリカ合衆国で急減圧事故を起こしたサウスウエスト航空2294便に搭乗していた非番の機長2名の証言を引用した後、「実際に急減圧が発生した際の機内の状況は、乗務員を含めて一般的な理解とは大きく異なるのではないでしょうか」として検証と解説を行い、としている。生存者の証言によれば、墜落直後には相当数の乗客が生存していた可能性があった。救出された、当時12歳の少女の証言によると墜落した直後は周囲からがんばれという励ましや、早く助けに来ないのかなどという話し声が聞こえていたが、次第に静かになっていったと語っている。そのため、救出が早ければもっと多くの命を救えたのではないかという意見がある。しかし、事故調査報告書は、この点については事実認定をしておらず、4名の生存者以外は即死もしくはそれに近い状況であったとした。航空事故調査委員会とは別に、JALも社内事故調査委員会を設置して、独自の事故調査を行っている。この報告書は2002年8月にまとめられたが、社内外ともに非公開とされた。同年8月26日に、同社の労働組合に対して行われた説明会において、その内容は「基本的には事故調の報告書と齟齬はない。」とされた。遺族や航空関係者(労働組合)などの間では、事故調査報告書の内容に納得せず、再調査を求める声も多い。技術的、工学的な指摘としては、事故原因は圧力隔壁の破壊ではなく、垂直尾翼の方向舵に発生したフラッターによるものではないかという異論もある。本事故が起きた昭和60年度には、国内線旅客は前年度の対前年度比9%増から一転して同2.1%減となり、各航空会社とも経営が悪化した。これに対し新幹線旅客は、輸送人員で前年度の対前年度比1.5%増から飛躍的に増加し、同9.8%増となった。羽田 - 伊丹線往路「JAL123便(JL123)」という便名は、1985年(昭和60年)9月1日のダイヤ以降に欠番とされたが、後にこの便名と対となる復路「JAL122便(JL122)」も欠番扱いになった。事故当時、JALはそれまでの半官半民の特殊会社体制から完全民営化へと移行する方針を決定していたが、本事故の影響による経営の悪化、安全体制や経営姿勢に対する世論からの批判を受けて、日本国政府主導により、抜本的な体制の刷新が行われた。1985年(昭和60年)12月、当時カネボウの会長だった伊藤淳二が、JAL副会長に就任(後に会長へ昇格)し、経営体質の改革や長年の懸案であった同社の労働組合問題や親方日の丸体質の解決に取り組むと伴に「絶対安全の確立」を、新たな経営方針の一つとして掲げ、機付整備士制度の導入や技術研究所の設置などの施策が行われた。2006年(平成18年)4月24日、羽田空港整備地区(東京モノレール羽田空港線・整備場駅から徒歩5分圏内)に『日本航空安全啓発センター』が開設された。同センターには、本事故の残存機体の一部(後部圧力隔壁、垂直尾翼前側、後部胴体の一部、座席、フライトデータレコーダ、コックピットボイスレコーダなど)を含め、事故に関する資料が展示されている。JAL社内向けの研修施設であるが、一般にも公開されており、事前に申込みをすれば見学することができる。なおセンター内は、特別の場合を除き撮影禁止となっている。また事故を知らない社員が9割以上になった事を受け、2012年以降は風化防止の為、JALグループの全社員35,000人に対し、同センターの見学を義務化している。2013年(平成25年)9月30日に一旦閉館後、同年12月10日より、JALメインテナンスセンター(最寄り駅は東京モノレール羽田空港線・新整備場駅)1内に移転、リニューアルオープンした。747SRは、JALがローンチカスタマーであったが、事故を受けて同型機は747-400Dの導入に合わせて90年代までに全て売却された。なお、JA8117はNASA(アメリカ航空宇宙局)が、同時期に発生したスペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故を受けてスペースシャトル輸送機の改造ベースとして購入した。NASAは、受け取った機体の整備技術に敬意を表し、JALの整備部に表彰状を贈っている。また、JA8118はボーイングが金属疲労試験機として買い戻した。現在、胴体を輪切りにした一部がロンドンに展示されている。2000年8月、運輸省航空事故調査委員会が保管期間の切れた一部の事故調査資料をすでに廃棄していたことが毎日新聞などにより報道された。再調査を求める遺族や航空関係者からは運輸省の対応を批判する声が上がった。また、2000年7月ごろには、事故機のコックピット・ボイスレコーダー(CVR)に収録された音声を再録したテープがマスコミに流出し、その一部音声が8月に入って相次いでテレビ放映された。本事故の犠牲者の遺族は1985年12月に遺族会「8.12連絡会」を結成した。この会は事故原因の究明や航空安全の推進について、JALやボーイング社などの事故関係者や社会全般に訴えることを目的の一つとしており、会の内部に技術部会を置いて航空安全に関する独自の研究活動を行った。この技術部会は後に「航空安全国際ラリー組織委員会」として独立し、航空安全シンポジウムの開催や、墜落時の衝撃を和らげる座席の開発提言などの活動を続け、2009年3月には、国際的な航空安全に貢献したとして全米航空惨事被災者同盟 (NADA) の最高賞「航空安全賞」を受賞した。当時の陸上自衛隊は夜間装備が十分ではなく、山間部での救難活動は行っておらず、救難作業ができるヘリコプターなども無かった。また、事故発生直後、事故現場上空で捜索救難活動を行った航空自衛隊・百里救難隊所属の救難ヘリコプターKV-107「バートル」には現場周辺を明るく照らす照明弾が装備されていたものの「照明弾が地上に落下した後、燃焼熱で山火事を誘発する危険性がある」として、山火事の少ない夏山にもかかわらず使用ができなかった。これを教訓として、航空自衛隊航空救難団救難隊に、本格的な夜間の捜索救難が可能な赤外線暗視装置を装備したUH-60 ブラックホーク救難・救助ヘリコプターが1990年より順次調達・配備されている。なお、当時のKV-107救難ヘリでも山間部や洋上での夜間救難活動を行っており、機体側面の観測窓横には強力な救難用ライト4灯を装備していた。墜落現場である「御巣鷹の尾根」には事故の翌年、慰霊碑が建立され、毎年8月12日には慰霊登山などが行われている。「御巣鷹の尾根」は、公益財団法人「慰霊の園」が地元・上野村の人々を雇用する作業委託で整備が進められたが、群馬県警察の遺体発見場所地図を元に建てられた、多数の墓標・みかえり峠の碑・せせらぎを渡る橋・手すりなど、地元の人々・警察など当時の関係者・JAL職員や退職者などが、ボランティアの手作業で維持管理しているものも多数ある。事故発生から30年以上が経ち、遺族の高齢化が進んでいることから、事故から21年後の2006年7月より、墜落現場付近を通る、国土交通省の砂防ダム工事用道路が、上野村の村道兼林道として一般開放され、墜落現場まで歩く距離が約2.2kmから約800mに短縮された。2016年(平成28年)7月23日午前9時40分頃、遺族の慰霊登山に向けて、JALの社員7人と登山道の整備などをしていた、日本航空安全推進本部ご被災者相談室所属の59歳男性が斜面を滑落し、頭を強く打ち病院に搬送されたが、死亡が確認された。事故調査報告書 交信記録・CVR・DFDR記録事故調査報告書 事故調査の経過事故調査報告書 修理事故調査報告書 気象事故調査報告書 飛行経路事故調査報告書 事故の概要事故調査報告書 異常事態の発生事故調査報告書 機体後部の破壊事故調査報告書 事故原因事故調査報告書 救助事故調査報告書 措置
出典:wikipedia
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