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名古屋高速2号東山線

名古屋高速2号東山線(なごやこうそく2ごうひがしやません)は、愛知県名古屋市中村区の新洲崎JCTから愛知県名古屋市名東区の高針JCTへ至る名古屋高速道路の路線である。道路法上は、名古屋市道高速1号(中川区島井町 - 千種区鏡池通)の一部と名古屋市道高速1号四谷高針線(千種区鏡池通 - 名東区猪高町)の全部からなる。このことから本項では5号万場線と2号東山線をまとめて解説する場合、便宜的に「高速1号」と表記する。名古屋高速道路のうち、都心と名古屋市東部地域を連絡する東西方向の路線である。東端の高針JCTでは名古屋環状2号線専用部(名二環)と接続し、名二環経由で東名高速道路名古屋ICと連絡する。一方、西端の新洲崎JCTでは5号万場線と接続し、両路線は直線で結ばれている。路線は名古屋高速で唯一となる掘割、半地下およびトンネル区間があり、これを高架道路が前後に挟み込む形態となっている。起点から吹上東出入口を過ぎるあたりまでは若宮大通の上を通っている。丸田町JCTおよび近接するJR中央線をオーバーパスすると下り坂となってそのまま掘割区間に入る。そこから東側は終点まではほとんど半地下または地下区間となる。名古屋高速路線はその全てが名古屋環状2号線(国道302号と名古屋第二環状自動車道)に接続する。これは交通流動の円滑化に資するために環状道路と放射道路が一体となって計画された結果であるが、この他に名古屋高速には都心と郊外を連絡する使命も併せ持つことから、路線末端部において名古屋環状2号線以外の幹線道路と連結することで長距離連絡のニーズにも対応している。それは3号大高線が伊勢湾岸自動車道、4号東海線が西知多産業道路(国道247号)、5号万場線が東名阪自動車道といった連絡道路を持っていることからも判る。しかし2号東山線だけは末端部で名古屋環状2号線以外に連絡する幹線道路を持っていない。これは最初から持っていなかったのではなく、構想段階では末端部を名古屋インターチェンジとしたうえで東名高速道路と接続する計画であったものが、環境的配慮から大規模な路線変更を伴った結果であり、その経過の顛末については歴史節で解説する。ただ、交通量の多い郊外路線と都心部の連絡という当初の使命が改変されたことで、現在の2号東山線は名古屋市東部地域と都心部の東西連絡が主だった使命とされ、東西直通の幹線道路が少ない名古屋市にあってバイパス的な役割を担っている。名古屋高速は交通集中が激しい都心と6方向との相互連絡を目的として計画された。この内、都心と東名高速道路名古屋IC間で計画されたのが2号東山線である。さらに、新洲崎JCTから5号万場線として西進のうえ名古屋西JCTにて東名阪自動車道と直結し、両高速道路間の連絡路線としての使命も併せ持つこととされた。計画立案当時は東名高速道路と東名阪自動車道を直通する自動車専用道路が存在しなかったことから両高速道路間の連絡は広小路通(愛知県道60号名古屋長久手線)によるほかなく、都心の渋滞を引き起こす一要因となっていた。このため2号東山線は5号万場線と一体となって都心に用のない通過交通を平面街路から排除する役割が期された。2号東山線がまだ具体的経路が定まっていなかった時代、建設する平面街路の候補として錦通、広小路通、若宮大通が挙げられた。これは名古屋高速の建設にあたって広幅員道路を利用して用地買収を最小限度に抑えることを原則としたことによる。しかし、都心部でありながら空間に余裕がある100m道路が建設には最適との判断によって若宮大通が選定された。ところが若宮大通は千種区千種通7丁目で終点となり、これ以東に広幅員道路はなく、あるのは住宅密集地帯であった。計画ではこの住宅密集地帯を縦断して東山通3丁目に抜けて広小路通に到達、以後は広小路通(東山通)を東進して名古屋ICと連結する内容であった。しかし、住宅密集地帯に高速道路を新設するには800世帯の立ち退きが必要とされ、転居後の生活再建や自動車公害、東名高速と東名阪自動車道間の通過交通による環境悪化の懸念から地域住民の猛烈な建設反対運動に直面した(詳細は名古屋市道鏡ヶ池線を参照)。加えて広小路通以東では名古屋市営地下鉄東山線と路線競合することから地下鉄の上に高架式道路を建設することでコストアップの懸念が生じ、また、都市公園たる東山公園の前を高架式で通過させることを問題視する意見もあったことから、1976年の都市計画変更において四谷 - 名古屋IC間を廃止のうえ代替ルートとして四谷 - 高針JCT間を提示した。そして高針JCTにて名古屋環状2号線専用部(名二環)に接続することとされたが、当時は名古屋環状2号線の事業計画が未決定のため、確定までのあいだ代替ルートを留保することになった。これ以後、1982年11月に名古屋環状2号線専用部の都市計画が決定され、2号東山線も四谷までの都市計画が決定された。だが、四谷までが部分開業となったあかつきには四谷周辺で接続車両による交通渋滞が予測されることから、早急に留保解除のうえ都市計画決定を取り付けたい名古屋市の意向によって1991年8月をもって都市計画が決定、当該ルートが確定を見た。なお、2号東山線には高針ルートへ変更されたことの他に、もう一つエピソードがある。高速1号が名古屋環状2号線経由で東名名古屋ICと東名阪名古屋西ICを直結することで、東西間の通過交通が都心部になだれ込むことから環境的負荷が高まることが懸念された。このため、白川出入口と丸田町JCT間の約1.7kmを廃止して高速1号を切断する案が1975年頃に名古屋市より提案された。この区間は若宮大通のメインストリートでもあるが、よしんば当該区間が通過交通の公害から解放されたとしても、都心環状線経由で東西間の連絡は可能であることから都心環状線にそのしわ寄せが向かうだけのことであった。一応、切断を前提に道路計画の住民説明会も行われたが、説明会終了の翌月に開かれた名古屋市議会でこの取り消し区間が復活した。自民党の市議会議員が突然この復活案を出して社会党も同調、市当局は発言する機会がなく、本山市長もあえて異を唱えることもなくこの案は了承された。この時の案が若宮大通における2号東山線の現在の姿として具現化している。最初の開通区間は新洲崎JCTから白川出入口間0.8kmで1986年に開通、当時の1号万場線の延長線としての供用であった。続いて吹上までが1988年に開通し、都心小ループを形成して三重県方面と名古屋市南部が直結した。3期目は2000年から2001年にかけての四谷までの開通で、当初は高針までの全線同時供用を目指していたが、東山トンネル建設に絡む用地取得が難航し、完成区間の有効活用を図るために四谷までを先行開業させることになった。先に見たように名古屋市は当初、地下鉄工事による道路規制とも重なることから四谷付近の混雑を懸念して部分開業には消極的だったが、ここにきて方針を転換することになった。ただし、渋滞の懸念から西行きの四谷入口だけを先行開業し、東行きの出口については供用を遅らせることで調整した。2003年に最後の供用区間として高針JCTまでが開通し、東名阪自動車道(現・名二環)と接続した。当初計画では1977年度までの建設完了が目論まれていたが、住民対応の絡みもあって2002年度までずれ込み、名古屋高速全路線の中にあって唯一終点位置の大規模な変更を伴っての全線供用となった。平日24時間交通量(平成17年度道路交通センサス)名古屋高速は自動車公害や日照阻害を懸念する地域住民との折衝を経て当初計画案を可能な範囲で住民要望に沿うよう変更を重ねて建設された。中には建設コストや工期短縮の面から構造の変更を実施した路線もあるが、その中にあって2号東山線は環境的配慮に加えコストの面から大幅な構造とルートの変更をおこなったことは先述した。このうち、日照阻害や騒音公害低減の意図から半地下式で建設された吹上西出入口 - 四谷出入口間と、緑豊かな東山公園一帯の環境保全の観点からトンネル式で建設された四谷出入口 - 高針集約料金所間における概要、環境的配慮については名古屋市道鏡ヶ池線、東山トンネルをそれぞれ参照されたい。従って、本節では新洲崎JCT - 吹上西出入口間における環境対策、景観面について解説する。新洲崎JCTから吹上西出入口付近までは若宮大通の中央に建設された。若宮大通は久屋大通とともに名古屋を代表する100m級の広幅員道路で、街のシンボル的存在である。従って、ここに高架式高速道路を建設するにあたっては都市景観に対する特段の配慮を払うこととされた。建設を前にして市議会において高架下のグリーンベルトを公園として再生させる提言が出され、地元住民からもテニスコートや並木道、遊歩道的な歩道の造成等、各種施設を盛り込むよう要請がなされた。特に従来、高架下のイメージは暗い、重たいというマイナスイメージがあったことから、高架建造物も公園の構成要素との考えで開かれたイメージを付与するべくデザインを展開した。その内訳は、橋脚を従前の門型ないしT型に替えて梁なし2柱式とし、橋脚内に排水管を埋め込んだうえでコンクリートであるにもかかわらず塗装を行い、都市風景の一要素となるべく公園との調和を図った。橋脚に載る箱桁は逆台形としたほか、市長より久屋大通との交差部においては特に景観に配慮するよう要請されたことから、当該箇所の継ぎ手をボルト締めから現場溶接とした。また、高架を挟むようにして既存の銀杏並木を生かし、運動施設や花壇を設置するなどして高架下のイメージの向上につなげた。なお、第二次世界大戦の空襲によって焦土と化した名古屋市の戦後復興において、住民の猛反対を押し切って若宮大通、久屋大通を造成した名古屋市技監の田淵寿郎が後年、公社職員に戦後復興で完成させた100m道路に高速道路を通すことをどう思うかと尋ねられると、「その時々の人が選べばいいんだよ」との返事をしたとされる。若宮大通直下には調節池が設けられている。近接する堀留水処理センターの関連施設で、都心部における浸水被害対策として国と愛知県、名古屋市が一体となって建設した。最大貯水量約10万㎥で、雨水が急激に新堀川に流入することを防いで河川流域の浸水被害を抑えるものである 。工事は1982年から開始されたが、その後に2号東山線の建設工事が割って入った。このため、公社は調節池の築造工事に支障なきよう施工内容を工夫するなどして道路建設を行った。調節池の完工は1986年、高速道路の完工(吹上まで)は1988年である。当該路線は都心環状線の概ね中間地点を東西に貫通し、新洲崎JCTと丸田町JCTの2か所で接続する。この路線形態を生かして、かつて都心環状線が環状ルートを形成していなかった時代に、5号万場線から3号大高線に直通するルートとして2号東山線が吹上暫定連絡路を設置のうえ活用された(詳細は名古屋高速都心環状線#都心小ループを参照)。この連絡路は1995年の都心環状線全線開通を機に廃止されたが、2004年2月から吹上東出口流出後15分以内に吹上東入口に入場した場合、新たな料金を徴収しないサービスがETC搭載車限定で開始された。この施策が実施された背景には、当時3号大高線の慢性化した渋滞が都心環状線の山王ジャンクションまで到達することで受け入れ容量の限界に達していたことが挙げられる。当時の山王JCTは現在と違って2車線しかなく、これが大高線からの流入交通を吸収しきれていなかった。そこへ1号楠線から名古屋西JCT(5号万場線)へ向かう交通が流入することで混雑に一層の拍車をかけていた。これは楠JCT(1号楠線)方面から名古屋西JCT(5号万場線)方面に向かう場合、都心環状線の丸田町JCTから西向きの2号東山線に乗り入れることは不可能であるため、鶴舞南と山王の両ジャンクションを経由する大回りルートを選択する過程で、3号大高線からの流入交通と重複することにより発生するものであった。そこで考えられたのが、1号楠線から南下した交通を丸田町JCTから東向きの東山線に流入させて吹上東出口で一般道に流出、Uターンして再度吹上東入口から東山線に流入のうえ名古屋西JCTを目指してもらうことで、都心環状線の南側をショートカットして大高線からの流入交通と分離、混雑緩和を図る内容であった。同様の対策として、名古屋西JCT(5号万場線)から名古屋南JCT(3号大高線)に向かう場合の明道町JCTにおける混雑緩和も期待された。ただし混雑がなければ大回りしても都心環状線経由が早いことから、双方の選択は各ドライバーの任意である。当該路線は東名高速道路名古屋ICとの連結計画が環境、コスト面から高針JCT経由に変更されたことは先述した。よって東名高速名古屋ICと都心の連絡は短い距離ながら料金体系の異なる名二環を介することで510円(普通車)の追加料金が発生する。このため、過去にはETC割引実験をはじめセット回数券の発行によって割高感の解消を狙った料金制度が適用された。なお、現状では東名高速静岡・豊橋方面と名古屋都心の連絡は伊勢湾岸自動車道の全線開業によって3号大高線、4号東海線による選択肢が追加され、この2路線は伊勢湾岸自動車道との直接連絡であるため追加料金は発生しない。

出典:wikipedia

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