デイヴィッド・ジェイムズ・コノリー(David James Connolly, 1977年6月6日 - )は、イングランド・ブレント・ロンドン特別区出身の元サッカー選手、元アイルランド代表。現役時代のポジションはセンターフォワード。プレミアリーグのウィガン・アスレティックFC、サンダーランドAFCを含めイングランドの様々なクラブを渡り歩いた他にも、フェイエノールト、SBVエクセルシオールといったオランダの2クラブでもプレーした経験を持つ。代表としては、イングランドで生まれ育ったが、アイルランド代表を選択しており、2002 FIFAワールドカップに出場している。1994年にワトフォードFCの下部組織を経て、監督率いる同クラブのトップチームからプロキャリアを開始する。翌1995-96シーズンは、低迷するチームにあって、1996年4月13日のポート・ヴェイルFC戦でプロ初得点を含むハットトリックを達成すると、23日のグリムズビー・タウンFC戦でもハットトリックを達成する等で終盤の6試合で8得点を記録したが、チームを救済するまでに至らず、ディビジョン2 (3部) へと降格した。1996年12月9日、FAカップのアシュフォード・タウンFC戦で途中出場から14分の間にハットトリックを記録した。1996-97シーズン終了後、アイルランド代表の先輩であるナイアル・クインから、クインが所属するサンダーランドAFCへの移籍を薦められたが、UEFAチャンピオンズリーグでのプレーを夢見た為、1997年に自由契約でエールディヴィジ (オランダ1部) のフェイエノールトと4年契約を締結した。しかし、開幕から6試合目まで出番が訪れず、9月下旬にフィテッセ戦で初得点を挙げるも、以降は再び出場機会を得るのに苦労していた。レオ・ベーンハッカー監督交代後はチャンスが与えられ、FCトゥウェンテ戦で途中出場からリーグ戦2得点目にして決勝点を挙げるプレーを見せたが、またしても出場に恵まれなかったことで、1998年8月にディビジョン1 (2部) のウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC、1999年からはエールステ・ディヴィジ (オランダ2部) のSBVエクセルシオールへそれぞれ貸し出された。ウルヴァーハンプトンでは、ロビー・キーンとコンビを組み、1998年11月のブリストル・シティFC戦において4得点を挙げるも、シーズン全体では32試合6得点と印象を残すことは出来なかった。だが、エクセルシオールでは、1999-2000シーズンに得点王 (29得点) に輝いており、翌2000-01シーズンもエクセルシオールに滞在することになったが、15試合13得点と昨シーズン同様に得点力の高さを見せつけると、2000年12月にフェイエノールトに呼び戻された。期限付き移籍から復帰したフェイエノールトでは、アヤックスとのデ・クラシケルでの2得点を含む5得点を記録。2000-01シーズン終了後、クラブから契約更新の提案があったが、自身の求める賃金と開きがあった為に退団すると、自由契約選手となったコノリーにAZアルクマールとローダJCの2クラブからオファーをされ、最終的にアイルランド代表で共にプレーするの推薦もあり、2001年7月にディビジョン1のウィンブルドンFCと3年契約を締結した。しかし、AZアルクマールから、ウィンブルドンFCとの契約前に3年契約で口頭合意していたと主張され、更にオランダサッカー協会からは、新クラブでプレーすることを禁止が言い渡され、一時暗礁に乗り上げていた。7月27日にウィンブルドンFCでプレーすることが正式に決定した。ウィンブルドンでエースとして、リーグ戦63試合42得点を記録。特に2002-03シーズンは、主将のとのコンビで24得点を挙げており、その活躍にプレミアリーグのクラブからオファーがあったものの、2003年8月1日、プロキャリアを開始した時の監督だったローダー監督が率いるウェストハム・ユナイテッドFCと移籍金28万5000ポンドで合意した。初出場を飾ったプレストン・ノースエンドFCとの開幕戦では、移籍濃厚だったジャーメイン・デフォーの残留に加え、期限付き移籍で加入したニール・メラーの存在から控えでのスタートとなったが、メラーとの交代出場した8分後に決勝点を挙げてチームを勝利に導いた。その後、デフォーやメラー、更にボビー・ザモラ、マーロン・ヘアウッド、といった多くの選手とのポジション争いを繰り広げながら、最終的に公式戦48試合14得点を記録した。2004年5月のクリスタル・パレスFCとの昇格プレーオフ決勝戦がウェストハムでの最後の試合となった。2003-04シーズン終了後、かつてアイルランド代表で師事したミック・マッカーシー監督が率いるサンダーランドからオファーをされるも、2004年7月20日にの後釜として、移籍金50万ポンドでレスター・シティFCと3年契約を締結する。レスターでチーム最多の得点源として活躍し、翌2005-06シーズンもストーク・シティFC戦でハットトリックを挙げる等、好調を見せていたところ、2005年8月31日に移籍金200万ポンド(インセンティブ最大300万ポンド)でプレミアリーグのウィガン・アスレティックFCに引きぬかれ、3年契約で合意した。初出場を飾ったウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦において初得点を挙げ、早速結果を残したが、ジェイソン・ロバーツとアンリ・カマラの牙城を崩せず、また、2006年1月10日にアーセナルFCとのフットボールリーグカップにおいて、ハムストリングを負傷したことでシーズンの大半を棒に振り、昇格組ながら10位と好調なチームにあまり影響を与えることが出来なかった。2006年8月31日、旧知のロイ・キーンが監督を務め、過去に2度誘われたサンダーランドAFCと移籍金190万ポンド、3年契約で加入する。サンダーランドでも負傷に悩まされながら、11月18日のコルチェスター・ユナイテッドFC戦で初得点を挙げて以降、12月9日のルートン・タウンFC戦の決勝点、16日のバーンリーFC戦の同点弾といった重要な得点を挙げており、チームはターンオーバー制を敷き、ストライカーの布陣は流動的であったが、チーム最多の13得点を挙げて、リーグ優勝及びプレミアリーグへの昇格に貢献した。だが、2007-08シーズン、特に2008年1月以来、鼠径部の度重なる問題から出場機会を得ることが出来ず、2009年5月28日に退団となった。自由契約選手となった後、暫くの間所属先が見つからなかったが、ウィンブルドンFC時代に師事したアラン・パーデュー監督率いるサウサンプトンFCでの3週間の練習を経て、2009年10月8日に同クラブと2009-10シーズン終了までの契約で移籍した。パーデュー監督が4-5-1のフォーメーションを採用しており、1トップのレギュラーにリッキー・ランバートを据えていたことで、初出場を飾ったオールダム・アスレティックAFC戦、次のミルトン・キーンズ・ドンズFC戦と途中出場だったが、それぞれ得点を挙げてアピールしていった結果、11月6日のブリストル・ローヴァーズFCとのFAカップで先発の座を掴み、そして2得点を挙げた。その後、レギュラーと言えないながらも、20試合7得点を記録したのが評価され、2010年7月6日に契約を1年延長することに成功すると、2010-11シーズンは、負傷の影響から17試合4得点と前シーズンより結果を残せずにいたが、クラブから新たな契約を提示され、2011-12シーズン終了までの1年延長した。2011-12シーズンは、リーズ・ユナイテッドAFC戦を皮切りにバーンズリーFC戦、イプスウィッチ・タウンFCと開幕戦から3試合連続で得点を挙げ、8月27日のレスター戦でも得点を挙げてリーグ戦5試合4得点と近年の不振を感じさせない結果を残していた。しかし、2012年1月の冬の移籍市場でと李忠成が加入した影響から定位置を掴むのに苦労し、最終的に先発出場試合11試合にとどまり、2012年5月19日にシーズン終了に伴って退団することが発表された。2012年12月31日にポーツマスFCと1ヶ月の契約で合意する。翌日のスウィンドン・タウンFC戦で初出場を飾る。2月26日のミルトン・キーンズ・ドンズ戦で初得点を挙げると、次のクルー・アレクサンドラFC戦でも得点し、更にその次のベリーFC戦では2得点を挙げたコノリーは、チームのフットボールリーグ2 (4部) への降格を防ぐことが出来なかったが、17試合7得点と一定の結果を残したことで契約を2年延長することに成功した。翌2013-14シーズンは、9月下旬から監督を支える選手兼任コーチに就任。だが、監督就任以降は構想外となり、2014年1月31日に同シーズン終了までの期限でオックスフォード・ユナイテッドFCへ貸し出された。2月1日のAFCウィンブルドン戦で初出場及び初得点を記録した。期限付き移籍復帰後もポーツマスで出場機会を得られなかった為、2015年1月15日に双方合意でクラブと契約解除し、同日に同カテゴリーのAFCウィンブルドンに移籍した。2月21日のルートン・タウン戦で初得点を挙げる。8試合 (途中出場6試合) 1得点を挙げた後、体力の限界を感じたコノリーは、ウィンブルドンFC時代に共にプレーした監督との会談の末、2015年3月8日に37歳で現役引退することを発表した。イングランドで生まれ育つも、両親がアイルランド出身だったことから、1996年5月のポルトガルとの親善試合に向け、アイルランド代表に初招集され、初出場を飾る。同年のにおいて、アメリカ戦、メキシコ戦でそれぞれ1得点挙げた後、1997年5月22日の1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のリヒテンシュタイン戦で12分間にハットトリックを達成し、初出場から5試合5得点とした。同予選では、アイスランド戦でも得点を挙げる等でプレーオフ進出に貢献したが、ベルギーとの第2戦において、1点差を追いかける中、途中出場から約10分後にを蹴ったことでレッドカードによる一発退場処分となり、チームは1998 FIFAワールドカップ出場を逃した。出典:出典: サンダーランドAFC サウサンプトンFC
出典:wikipedia
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