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国鉄スハ32系客車

国鉄スハ32系客車(こくてつスハ32けいきゃくしゃ)とは、日本国有鉄道の前身である鉄道省が1929年(昭和4年)から製造した20m級鋼製客車の形式群である。国鉄が定めた正式の系列呼称ではなく、1929年より製造が開始されたスハ32600形(のちのスハ32形)および1932年より製造が開始されたスハ32800形(のちのスハ32形)と同様の車体を持つ客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。鉄道省最初の鋼製客車のグループであるオハ31系客車(1927年〈昭和2年〉から製造)は、従来の木造客車の車体をそのまま鋼製としたような構造で、荷物車、食堂車など一部の車種を除いて車体長が17 mであったほか、台枠も荷重に対して強度を確保できるが重量のかさむ魚腹形台枠を用いていた。ところがそれら最初の鋼製客車完成後に実施された荷重試験で、必ずしも台枠を魚腹形とする必要はないことが判明した。その結果、スハ32形以降の客車台枠は、原則的に溝形鋼を用いた、単純で軽量な長形台枠に変更された。それと同時に、車体長は等級・用途を問わず、すべての車種で20 mに統一された。座席のシートピッチはオハ31形では木造車並みの1,300 mmで、ボックス席2つにつき3枚の窓が並んでいたが、スハ32形では、シートピッチを1,455 mmに拡大して居住性を改善し、ボックス席1つに2枚の窓が並ぶようになった。窓の左右幅は変わらないが、上下寸法は735 mmに拡大された。また窓框の床面からの高さは、その後日本の旅客車両の多くが採用するようになる800 mmとなった。台車は、オハ31系では球山形鋼と呼ばれる特殊な断面の鋼材を使用する釣合梁(イコライザー)式のTR11(2軸ボギー式)およびTR71(3軸ボギー式)が採用されていたが、造船需要の急激な減少に伴い、用途の限られる球山形鋼の製造が打ち切られたことで、これらの台車の継続生産が困難となり、全面的に構造を変更する必要が生じた。そのため本系列では、ペンシルバニア形と呼ばれる鋳鋼製軸バネ部と一般的な形鋼による側梁を組み合わせた簡潔な構造の軸ばね式台車が新たに設計された。これらは2軸ボギーがTR23、3軸ボギーがTR73と呼称し、TR23は二等座席車・三等車(荷物合造車および寝台車を含む)・荷物車それに郵便車に、TR73は一等車(展望車を含む)・食堂車(合造車を含む)・寝台車(一等および二等。合造車を含む)などの優等車にそれぞれ装着された。なお、スシ37740形に限っては全車とも球山形鋼を使用するTR74 が装着され、台枠もこれにあわせて専用品が採用されたが、その理由は定かではない。TR74を除くこれらにおいてはいずれも台車枠側面の大型部品であった釣合梁が廃止された。このため、摩耗部品であるブレーキシューの交換が容易となったほか、ばね下重量の軽減によって軌道破壊を抑制できるメリットがあった。ブレーキはオハ31系で初採用されたA動作弁によるAVブレーキ装置(自動空気ブレーキ)が、車体シリンダー方式で当初より標準装備とされた。また、従来の客車では天井裏に単純な重力落下式の給水機構とともに設置されていた便所用水タンクが、このAVブレーキ装置のブレーキ管から流用して供給される空気圧で揚水するように変更され、保守面で有利な床下設置とされたのも、目立たないながら重要な改良点であった。本系列の台枠は、基本的には溝形鋼を主材料とするが、初期の二重屋根車から1933(昭和8)年度製までは側梁に乙形鋼が使用され、2軸ボギー車には基本的にUF21が、3軸ボギー車にはUF45が使用されたが、合造車であるスハニ35650・35700形、スハユ35300形の各形式については製造当初側面に大きな開口部を持つことによる強度不足が懸念され、オハ31系の20 m級3軸ボギー車用魚腹台枠であるUF46の台車心皿位置を2軸ボギー式台車用に変更したUF22が採用され、さらに荷重の大きな荷物車については、オハ31系に属するUF46を使用した一世代古い設計のカニ39550形が1930年まで継続生産された。従ってこれら3形式は本系列中でも例外的に魚腹台枠装備車となっているが、この懸念は後日実施された応力解析の結果杞憂であったことが判明したことから、1931年(昭和6年)以降設計のグループでは開口部の大きな郵便・荷物車も台枠をUF21に変更している。また例外的に台車に旧世代のTR71を改設計したTR74を装着するスシ37740形は台車側受取り付け位置の相違などの事情から枕梁の設計を一部変更したUF45Aを、展望デッキ の関係で展望室側車端部の細部構造や寸法が変更された展望車については、スイテ37000・37010形がUF47を、そしてスイテ37020形がUF47Aをそれぞれ使用した。1934年(昭和9年)度製以降は側梁を入手が容易な山形鋼とするなど溶接技術の進歩などを受けて改良が施され、2軸ボギー車にはUF30が、3軸ボギー車にはUF48が、食堂車には出入台が必要ないことから側梁の設計が変更されたUF49がそれぞれ使用された。その後の解析の結果、前後の枕梁間に合計8本設けられていた筋交い梁が必要ないことが判明したことから、1936(昭和11)年度および1937(昭和12)年度製ではそれまで2軸ボギー用と3軸ボギー用が共通設計されていた枕梁の設計をそれぞれ専用設計とし、溶接組み立てを各所に採用し、2軸ボギー車にはUF37を、3軸ボギー車にはUF50を使用、1937(昭和12)年度以降は溶接組み立てを大幅採用した2軸ボギー車用UF38と3軸ボギー車用UF51の登場で20 m級一般形客車用台枠は完成の域に達し、次代のオハ35系客車に引き継がれている。初期に製造された車両では、屋根は二重屋根 となっていた。この方式は、段差の部分に採光窓を設けることができるなどの利点があったが、構造が複雑で製造上の工数もコストも大きかった。そこで単純な丸屋根への変更が検討された が、当初は形状が大きく変わることへの反対が大きく、実施には至らなかった。ところが、1931年(昭和6年)に製造された初の三等寝台車である30000形(のちのスハネ30形)において車両限界を最大限活用し上段寝台のスペースを確保する目的で丸屋根が必然的に採用され、同形式の製造過程で屋根製造にかかる工数とコストの削減が確認された。この結果他の車両についても増備車は丸屋根とすることとなり、1932年(昭和7年)以降の新造車はすべて丸屋根に変更となった。また、1934(昭和9)年度以降新造のグループでは溶接技術の進歩や台枠の設計変更でリベットの使用本数が大幅に減少し、ウィンドウ・シル/ヘッダーの他、長土台と側板の接合部などに各1列残るばかりとされた。1938年(昭和13年)になると、客用窓を1 m以上に拡大したオハ35系の製造が開始され、以後製造される一般型客車はそちらに移行したが、保温や凍結による破損防止などの観点から、北海道向けの三等座席車には従来どおり狭窓のスハ32形の二重窓車が1941年(昭和16年)まで製造された。また、オハ35系では転換クロスシート式二等車は太平洋戦争後になるまで製造されなかったため、転換クロスシートの30850形(のちのオロ35形)が、やはり1941年(昭和16年)まで継続製造されている。一方客室内部も製造時期により変化が見られ、二重屋根車までは木製客車同様妻羽目中央に束が入っていたが、丸屋根車ではこの束を取り払い、四方の枠縁で鏡板となるベニヤ板を押さえる構造となり、1934年(昭和9年)ごろからは押縁で押さえる構造に変更し、また37400形(のちのマロネ37形)の1940(昭和15)年度落成の一部の車両では鏡板一枚張りが試みられるなど、室内から束や枠縁を取り払う構造が随所に現れている。クシ桁 は二重屋根車では「妻壁(室内)の一部」として木地塗りとされていたが、丸屋根車ではこれを「天井の一部」として天井と同色に塗装された。後年二重屋根車でも丸屋根車と同様にクシ桁を天井色とした車両が存在した。1935年(昭和10年)製で、東京都立小金井公園で静態保存されているスハフ32 2146はこの時期の製造で、クシ桁・枠縁が残っている。このクシ桁には中央の引戸上部に飾り押縁が取り付けられ、優等車のものは扇風機取り付け座を兼ねていたものを用いた。しかし、1936年(昭和11年)から扇風機の取り付け位置が天井に変更されたことからこの年以降飾り押縁は取り付けないこととなった。丸屋根車の屋根上に取り付けられたガーランド形通風器は、30000形(のちのスハネ30形)用では通風口が通風器の直下になかったのに対して、32800形(のちのスハ32形)グループ向けでは通風口を通風器の直下に置くことが可能となったことから通風口には室内灯が組み込まれた。通風器と通風口の間には室内からてこで開閉する通風戸とシンダ = 石炭の燃えカスや煤煙の侵入を防ぐための金網が設けられ、二重屋根車の「通風窓開閉装置」と異なり開閉状態が目視で確認できないので、てこには通風戸の開閉状態が確認できるように一方は白色、反対側は黒色の塗装が施され、白色側が上にあるときに通風口が開くように作られていた。ガーランド形通風器は「走行風で室内の空気を吸いだして排気する」構造になっているが、室内には「外気の取り入れ口」がないことから、室内への空気の供給は窓や戸からの「すきま風」に頼るという、矛盾した構造となっている。製造当初は1928年の称号規程に準拠していたためそれを示し、カッコ内に1941年の称号改正後の形式を示す。スハ32600形は、本系列の基本となる三等座席車で、汽車製造東京支店、日本車輌製造本店・支店、川崎造船所/川崎車輛、藤永田造船所、新潟鐵工所、梅鉢鐵工所、田中車輛、大阪鐵工所において、1929年から1931年にかけて合計158両(スハ32600 - 32757)が製造された。年度ごとの製造状況は次のとおりである。オハ31形の腰掛間隔のまま20メートル車に換算すると定員は96名になるが、腰掛間隔を1,455mmに拡大して定員を88名とし、腰掛も背摺りが板張りであるものの傾斜を持たせて座り心地を改善した。このうち、東京鉄道局(東鉄局)配置で直流1500V給電による電気暖房装備に改造された一部の車両は、阪和電気鉄道に貸し出され、南紀直通準急「黒潮号」として阪和天王寺 - 紀伊田辺(のちに白浜口へ延長)間で運転され、特に阪和電鉄線内の阪和天王寺 - 阪和東和歌山間61.2kmは同社の誇る超特急と同じ45分 で走破した。1938年に22両(スハ32704, 32706 - 32724, 32733, 32734)が陸軍の要請により華中鉄道に供出されたため1941年10月の称号改正時に在籍していた136両が丸屋根のスハ32800形とともにスハ32形とされスハ32 1 - 136が付番された。3両が戦災廃車され、97両がオハネ17形に、1両がオシ16形に台枠を供出し、残った車両も1969年1月にスハ32 2037(仙フク)が廃車され区分消滅した。スハ33900形は、従来東京駅 - 下関駅間の特急「櫻」専用として使用されていた木造車のスハ28400形を置き換えるために設計された、2人掛け2列一方向き固定クロスシートを設置した三等車で、1930年3月に28400形と同数の19両(スハ33900 - 33918)が汽車製造東京支店(10両。スハ33900 - 33909)および日本車輌製造東京支店(9両。スハ33910 - 33918)で製造された。1937年にスハ32550形に改形式ののち17両が病客車スヘ32550形に改造されたため、1941年10月の称号改正時に残存していた2両がスハ33形とされ、スハ33 1, 2が付番された。これに前後して腰掛が向かい合わせ4人掛けに改造された。1両が戦災により廃車され、残った1両は1967年に廃車された。スハフ34200形は、スハ32600形に対応する三等緩急車で、日本車輌製造本店・支店、川崎造船所/川崎車輛、田中車輛、新潟鐵工所、汽車製造東京支店、藤永田造船所、梅鉢鐵工所、大阪鐵工所において、1929年から1931年にかけて105両(スハ34200 - 34304)が製造された。年度ごとの製造状況は、次のとおりである。スハ32600形と同様、電気暖房装備車の一部が若干の改造の上で阪和電気鉄道への乗り入れ運用に充てられた。1938年に7両(スハフ34251, 34252, 34290 - 34294)が華中鉄道に供出されたため、1941年10月の称号改正時に在籍していた98両が、丸屋根のスハフ34400形とともにスハフ32形とされ、スハフ32 1 - 98が付番された。1両が戦災廃車され、3両がオハネ17形に台枠を供出し、5両がスエ31形に、1両がスヤ37形に改造された。残りも廃車が進められた。最後まで在籍していたのは肥薩線で煤煙侵入防止のために通風器をすべて撤去して使用されていたスハフ32 44(熊ヒト)で、1972年1月に除籍され区分消滅した。スハフ35250形は、スハ33900形に対応する三等緩急車で、置き換え対象となるスハフ28800形と同数の12両(スハフ35250 - 35261)が汽車製造東京支店(6両。スハフ35250 - 35255)および日本車輌製造東京支店(6両。スハフ35256 - 35261)において1930年3月に製造された。1937年に全車が病客車スヘフ35250形に改造されて消滅した。以降は、#病客車を参照されたい。スロ30800形は、転換式腰掛をもつ定員64名の二等車で、1929年に日本車輌製造本店および川崎車輛において14両(スロ30800 - 30813)が製造された。年度ごとの製造状況は次のとおりである。1941年10月の車両称号改正では、全車がスロ32形(スロ32 1 - 14)に改称された。戦災により2両が廃車され、終戦後5両が進駐軍に接収され、その際に2両がスハネ34形に改造された。接収解除後に残った3両が復帰したが、1962年よりオシ16形へ2両が、残りがオハネ17形へそれぞれ台枠を供出した。スロ31000形は、腰掛間隔1,980mmのボックスシートをもつ定員64名の二等車で、1929年と1930年に40両(スロ31000 - 31039)が製造された。年度ごとの製造状況は次のとおりである。全車が東鉄局に配属され、東海道本線東京駅 - 沼津駅間、いわゆる湘南列車で運用されており、直流1500V給電による電気暖房装置を備えていた。本形式も一部が1933年末の紀勢西線延伸開業に伴う準急「黒潮号」の白浜口延長運転開始時に阪和電鉄への乗り入れ運用に追加充当されている。1938年に9両(スロ31031 - 31039)が陸軍の要請により華中鉄道へ供出され、1941年10月の称号改正時に在籍していた31両がスロ33形とされ、スロ33 1 - 31が付番された。戦災により7両が廃車となり、終戦後16両が進駐軍に接収され、その際2両がスハネ34形に改造された。接収解除後14両が復帰したものの、オシ16形へ1両、19両がオハネ17形へそれぞれ台枠を供出、残りが1956年にスハ51形に格下げされた。スロ30750形は、化粧室2箇所と給仕室を設備した転換式腰掛をもつ定員60名の二等車で、1930年に川崎車輛で10両(スロ30750 - 30759)が製造された。落成後、特急「富士」や「燕」に連結されて運用され、1941年10月の称号改正時にスロ30770形とともにスロ34形とされ、スロ34 1 - 10が付番された。1943年3月に1両が事故廃車となったほか、戦災により1両が廃車となり、終戦後は5両が進駐軍に接収された。1952年に返還され8両が普通二等車として運用されたが、1962年より台枠を利用してオシ16形へ2両、オハネ17形へ6両が台枠を供出した。スロフ31200形は、1929年と1930年に20両(スロフ31200 - 31219)が製造された、スロ31000形に対応する定員60名の緩急車である。年度ごとの製造状況は、次のとおりである。スロフ31250形は、1930年(昭和5年)に日本車輌製造本店で2両(スロフ31250, 31251)が製造された、スロ30800形に対応する定員60名の緩急車である。1941年の称号改正では、スロフ31形に改称され、スロフ31 1, 2が付番された。2両とも無事に戦争を乗り切り、終戦後に2両とも進駐軍に接収された。その後返還されて復帰したが、1両がオハネ17形に台枠を供出、残ったもう1両はスハフ51形に格下げされた。スロハ31450形は、1930年および1932年に23両が製造された二・三等合造車である。定員は二等36名、三等40名。年度ごとの製造状況は、次のとおりである。二等室は固定クロスシート装備である。二等室と三等室の間に便所と洗面所が設けられているが、1931年度製造車では位置関係が逆になっている。本形式も電気暖房搭載車両の一部が阪和電鉄直通の準急「黒潮号」に充当された。1941年の称号改正により、丸屋根のスロハ31500形とともにスロハ31形とされ、スロハ31 1 - 23が付番された。戦災により2両が廃車され、終戦後に1両が進駐軍に接収された。その後返還され復帰するが、4両がオハネ17形に台枠を供出、残りがスハ50形に格下げされた。スロハフ31700形は、1931年及び1932年に13両(スロハフ31700 - 31712)が製造された、スロハ31450形に対応する緩急車である。定員は二等36名、三等32名。年度ごとの製造状況は、次のとおりである。二等室は固定クロスシート装備である。二等室と三等室の間に便所と洗面所が設けられているが、1931年度製造車では位置関係が逆になっている。1941年の称号改正により、丸屋根のスロハフ31750形とともにスロハフ30形とされ、スロハフ30 1 - 13が付番された。戦災により1両が廃車された。2両がオハネ17形に台枠を供出、2両がオヤ35形に改造され、残りはスハフ34形に格下げされた。スイロフ30550形は、皇族、政府高官などの要人貸切用として1932年3月に鉄道省小倉工場で2両(スイロフ30550, 30551)が製造された一二等緩急車で、前位には奥行きが深く低座面の長手式腰掛を設備する一等室(定員18名)、後位には転換式腰掛を設備する二等席(定員36名)が設けられた。1941年10月の称号改正によりスイロフ30形とされ、スイロフ30 1, 2が付番された。終戦直後、進駐軍に接収され二等座席車として使用された。1949年、進駐軍より一等座席側のみ日本側に返還されたが、一等座席車として使用できないため二等座席に格下げしスロフ34形(初代)に改造された。スイテ37000形は、1930年に特急「富士」用の展望車として3両(スイテ37000 - 37002)が鉄道省大井工場で製造された一等展望車である。定員は、一等13名、展望室11名である。展望室は当時流行のアール・デコ様式のモダンな洋風デザインを取り入れ、同時期に新築した東京日本橋の白木屋百貨店の内装デザインに似ていることにちなんで「白木屋式」と呼ばれた。1両(スイテ37002)が1931年に特急「燕」用予備車として区分室付きのスイテ37030形に改造されたため、1941年10月の称号改正時に残存していた2両がスイテ38形とされ、スイテ38 1, 2が付番された。戦時中は使用停止となり疎開していたために空襲にも遭わず、状態が良好であった1は戦後進駐軍に接収された。これに対し2は接収されなかったため、1949年に特急「へいわ」用としてマイテ39 21に改造された。マイテ39 21のその後は#展望車(改造車)のマイテ39形を参照。その後1は接収解除されたが特急運用には充当されず、1956年にオシ17形へ台枠を供出した。スイテ37010形は、特急「富士」用として1930年に鉄道省大井工場で2両(スイテ37010, 37011)が製造された一等展望車で、基本構造はスイテ37000形に準じるが、展望室は国際連絡列車としての「富士」の性格や、当時鉄道省が海外で実施していた外国人観光客誘致政策との連動企画として、桃山式と呼ばれる御殿造りの豪奢な内装とされた。定員は、一等18名、展望室12名である。1941年10月の称号改正によりスイテ39形とされ、スイテ39 1, 2が付番されたが、戦時中は使用停止となり、戦後は2両とも連合軍の接収を受けなかったことから特急用として整備された。もっとも、戦時中空襲により破壊された1は内装部材の一部を比較的状態の良好であった2に提供して簡素な洋式内装で復旧しマイテ39 1に改造、部材の提供を受けた2は新造以来の桃山式で復旧してマイテ39 11に改造された。その後は#展望車(改造車)のマイテ39形を参照。スイテ37020形は、特急「燕」用として1931年に鉄道省大井工場で2両(スイテ37020, 37021)が製造された一等展望車で、隣接して一等寝台車が連結されるために区分室を必要としなかった「富士」用の各形式と異なり、昼行特急で一等寝台車の連結がない「燕」の場合、政府要人や貴賓客のための区分室の設置が特に求められたため、出入台寄りに3人用区分室が設備された。定員は、一等19名、展望室10名である。展望室のインテリアは再びモダンな洋式とされた。1941年10月の称号改正によりスイテ48形とされ、スイテ48 1, 2が付番された。戦時中は使用停止となり、2両とも戦後進駐軍に接収され、軍用列車の最後尾に連結される司令官座乗車として重用された。スイテ48 1は1949年接収解除後、整備の上「はと」用として1950年から使用されたが、後に返還された車両が増えると予備に回り、2は接収解除された後は休車となり、結局ともに1957年・1956年にオシ17形に台枠を供出した。マイネ37130形は、特急「富士」用として1930年に鉄道省大宮工場で5両(マイネ37130 - 37134)が製造された一等寝台車で、区分室を5室(2人用3室、4人用2室)を設備するほか、貴賓客用に特別室が設備された(当初2人用、のちに3人用)。1935年7月に時の鉄道大臣内田信也の発案により大井工場でマイネ37130にシャワー浴室を設けたが、1両のみの改造であったため4日おきの営業充当となった上、一・二等乗客限定であったために利用率は極めて低く、時期尚早で短期間の営業に留まった(1938年5月廃止)。1941年10月称号改正によりマイネ38形とされマイネ38 1 - 5が付番された。1944年4月に戦局の悪化に伴い使用停止となった。戦後、連合軍に接収され、同時期に1・4・5に対し車軸駆動式のKM型冷房装置を設備した。1952年に連合軍より国鉄に返還された後は、1955年7月等級制改正によりマロネ49形に改形式され、1960年に全車オシ17形に台枠を供出した。マイネフ37230形は、1930年に鉄道省大宮工場・大井工場で5両(マイネフ37230 - 37234)が製造された一等寝台緩急車で、寝室は2人用区分室を8室設備する。大宮工場製が2両(マイネフ37230, 37231)で、大井工場製が3両(マイネフ37232 - 37234)である。戦前は、東京駅 - 神戸駅間の急行17・18列車 で限定運用され、1941年10月称号改正によりマイネフ38形とされマイネフ38 1 - 5が付番された。戦後、全車両が連合軍に接収された。接収解除による返還後は東京駅 - 札幌駅間の連合軍専用「特殊列車」で使用された。1954年ごろに更新修繕で外板の張替えが施工され鋼体を溶接で組み直したことからウィンドウ・シル/ヘッダーなど車体表面のリベットが見えなくなった。1955年7月の等級制改正によりマロネフ49形に改形式され、1962年までに全車廃車となった。なお、マイネフ38 5は1954年9月26日の洞爺丸事故で沈没した洞爺丸に積載されていたほかの客貨車と運命をともにした。1955年7月にマロネフ49 5とされたが、6月に引き上げられた洞爺丸が保全命令を受けたため廃車手続きができず「現車が実在しない」幻の番号となった。10月に同船の保全命令が解かれ廃車された。また、更新修繕が行われていたかは不明である。マイネロ37260形は、1931年に鉄道省鷹取工場で4両(マイネロ37260 - 37263)が製造された一等寝台二等車である。前位には寝台区分室(2人用3室、4人用1室)、後位には二等座席(転換クロスシート)を設備する。当初から札鉄局用として設計された寒冷地向け車両で、配属後函館駅 - 旭川駅間の急行401・402列車で使用された。1934年12月に東海道・山陽本線以外の一等車の連結中止措置に伴い本州に転属し予備車として仙台・大阪・門司の各鉄道局に分散配置された。1937年7月の特別急行「鷗」運転開始に伴い東鉄局に転属、一等展望車スイテ37050形の連結まで一等車として使用された。1940年にマイネロ37261 - 37263の3両は緩急車化され、マイネロフ37261 - 37263に改造された。1941年10月の称号改正でマイネロ37260はマイネロ37形とされマイネロ37 1が付番された。戦後、連合軍に専用客車として接収された後、1950年に特別職用車マヤ57形(マヤ57 1)に改造された。マイロネフ37280形は、1931年3月に鉄道省小倉工場で3両(マイロネフ37280 - 37282)が製造された一・二等寝台緩急車である。前位に一等区分室寝台(2人用2室、4人用1室)と後位に二等開放寝台(ツーリスト式寝台)を設備する。欧亜連絡列車として東京駅 - 敦賀港駅間 で使用された。1941年10月称号改正でマイロネフ37形とされマイロネフ37 1 - 3が付番された。戦後、全車両が連合軍に専用客車として1952年まで接収された。返還後の1953年の称号改正でマイロネフ29形に改形式する予定であったが、一等寝台の利用が見込めなかったため一等区分室寝台を二等区分室寝台に格下げ、特別二等寝台とし、特別室つき二等寝台車マロネフ38形(マロネフ38 1 - 3)へ改造された。マロネ37350形は、マロネ37300形の増備車として製造された二等寝台車で、1929年12月から1931年8月にかけて大井・鷹取・小倉の各鉄道省工場と日本車輌製造、川崎造船所で合計49両(マロネ37350 - 37398)が製造された。その状況は、次のとおりである。開放寝台14組(ツーリスト式寝台、定員42名・寝台数28)が設けられたが、室内の配置を見直し隅用洗面台を2台設けた2人用化粧室を新設し、洗面所を3名分に増やして利用者に使いやすい構成となった。また最終落成のマロネ37397, 37398は便所の配置を車端前後に振り分ける構成となり利用者の利便を図り、以後の二等寝台車の車両構成の基本となった。四国以外の全国に配置され、主要幹線で特急、急行列車に連結された。瀬田川事故でマロネ37372・37373が翌年5月にいったん廃車となったが、1936年3月に復旧の上で車籍復帰となった。1941年10月の称号改正でマロネ37300形・マロネ37400形とともにマロネ37形とされ、旧マロネ37300形に番号を続けマロネ37 44 - 92が付番された。1944年4月に戦局の悪化により寝台車の使用が停止され、同年6月より全車戦時三等車マハ47形(マハ47 44 - 92)への改造が計画されたが、本形式は43両が改造され、6両(うち1両は最終増備車のマロネ37 92)はマロネ37形のまま残された。戦後、寝台車としての設備を維持していたこれら6両はすべて連合軍に接収されたが、1952年までに接収解除された。1953年6月の称号改正でマロネ29形(21以降)に改番されたが、最終増備車は室内構成が異なるため番号を区分してマロネ29 31が付番された。以降急行列車に連結されたが、1963年2月までに全車廃車となった。マロネフ37550形は、マロネフ37500形の増備車として4両(マロネフ37550 - 37553)が製造された二等寝台緩急車で、1932年3月に鉄道省大井工場(マロネフ37550, 37551)と日本車輌製造(マロネフ37552)、川崎車輛(マロネフ37553)で製造された。開放寝台12組(ツーリスト式寝台、定員36名・寝台数24)が設けられた。車掌室を設けたため37350形より定員が座席6名・寝台4名分減少したが、その分スペースに余裕ができたため、洗面所は一人用洗面台を3名分設け喫煙室も向い合せ座席で定員も増やしている。車体はスハ32600系で一番遅くに落成したためリベットが少なくなり、アンチクライマーも取り外されたため従来より軽快なイメージになった。落成後は品川区に配置され、東海道線の急行列車に連結された。1941年10月の称号改正でマロネフ37形とされ、旧マロネフ37500形に番号を続けマロネフ37 24 - 27と付番されている。1944年4月に戦局の悪化により寝台車の使用が停止され、1945年2月にマロネフ37 24が戦時三等車マハ47 121に改造された。残りはマロネフ37形のまま残された。戦後、連合軍に接収され、1952年までに接収解除された。1953年6月の称号改正でマロネフ29形(12以降)に改番され、引き続き品川区に配属され1956年11月運転開始の夜行特急「あさかぜ」・「さちかぜ」の最後部に連結される華々しい活躍もあった。1964年3月までに全車廃車となった。スシ37740形は、1929年から1931年にかけて19両(スシ37740 - 37758)が製造された食堂車である。スシ37700形を改良したグループであるが、基本仕様は同じで台車は三軸ボギーのTR74を履く。1941年の車両称号改正でスシ37700形とともにスシ37形とされ、スシ37 39 - 57を付番されている。1944年の食堂車使用停止で不要となり、7両がマハ47形(199以降)に改造された。残りは調理室と冷蔵箱、物置以外の車内設備を撤去、三等用腰掛を設備してスハ48形に改造された。終戦後に食堂車がないことからスハ48 1・4・6 - 12がスシ37 46・49・51 - 57に復元された。うち7両はすぐさま進駐軍に接収され、4両が冷房化改造された。1953年の車両称号改正で、冷房車がマシ29形とされ、残りはスシ28形(0番台)に改番された。1962年までに廃車された。マイシ37900形は、九州島内の急行1・2列車 に連結のため、1931年3月に鉄道省大宮工場で5両(マイシ37900 - 37904)が製造された一等および食堂の合造車である。1934年12月時刻改正で東海道・山陽本線以外の一等車の連結が廃止されたため、翌年12月に一等室の設備のまま二等に格下げし、喫煙室と給仕室を食堂に改装してマロシ37900形(同番)となった。同時に37900 - 37902は大阪鉄道局(山陰線用)へ、37903・37904は札幌鉄道局(北海道)に転属した。1941年10月の称号改正によりマロシ37形とされマロシ37 1 - 5を付番されている。1944年4月の食堂車使用停止で不要となり、厨房と物置を除き車内設備を撤去、三等用腰掛を設備してマハ49形(マハ49 1 - 5)に改造された。スロシ37950形は、北海道内の急行201 - 204列車用として製造された二等および食堂の合造車で、1932年3月に大宮・鷹取の両鉄道省工場で5両(スロシ37950 - 37954)が製造された。この車両から側柱と外板が溶接で組み立てるようになったため外板のリベット数が減少した。また食堂側仕切引戸が食堂のテーブル配置に合わせて取り付けられているため食堂寄りの隅用腰掛が片側一人席と二人席の組み合わせとなったため、定員は二等19名・食堂18名となっている。1941年10月の称号改正でスロシ38000形とともにスロシ38形とされスロシ38 1 - 5が付番された。これも1944年4月の食堂車使用停止以降は余剰車となり、厨房と物置を除き車内設備を撤去、三等用腰掛を設備してマハ49形(マハ49 6 - 10)に改造された。スハニ35650形は、1930年に20両(スハニ35650 - 35669)が製造された三等および荷物の合造車である。台枠はまだ強度に不安があった ためにスハユ35300形とともに魚腹台枠のUF22を使用しているのが特徴。1941年の称号改正でスハニ31形(スハニ31 1 - 20)に改称された。2両が戦災廃車され、11両がスハニ33形に改造され、このうち8両は復元された。1両がスエ31形に、3両がオル32形にそれぞれ改造され、残りは1968年までに廃車された。スハユ35300形は、1930年に6両(スハユ35300 - 35305)が製造された三等および郵便の合造車である。台枠は魚腹台枠のUF22を使用している。1941年の称号改正でスハユ30形(スハユ30 1 - 6)に改称された。戦後も残った4両のうち1両がスエ31形に改造され、残りは1968年に廃車された。マニ36700形は、1931年から翌年にかけて18両(マニ36700 - 36717)が製造された荷物車で、荷重は14トン。この形式は、3軸ボギー台車、魚腹台枠のカニ39550形を大きく改良し、マユ36050形とともに強度に問題がないことが確認されたため、二軸ボギー台車のTR23を履き、長形台枠を使用した。1941年の称号改正で、マニ31形(マニ31 1 - 18)に改称された。戦後、連合軍専用客車に指定された車両のうち、1両がオシ33形に、1両がオハニ35形に改造されたが、この2両は原番号に復元された。また、1両がオシ30形に改造されたが、こちらは復元されなかった。7は1952年の更新修繕の際に丸屋根に改造された。4両が電気暖房化され、原番号+2000となった。1955年に5が事故廃車され(前述のマイネフ38 5と同様に洞爺丸と運命を共にした)、1両がマニ32形に、1両がスエ32形に、4両がスエ31形にそれぞれ改造され、残りは1964年から廃車が始まり、1970年に全廃となった。マユ36050形は、1932年に3両(マユ36050 - 36052)が製造された初めての鋼製かつ20m級の郵便車である。鉄道省の所有であった。荷重は13トン。長形台枠を使用し、台車はTR23を履く。1941年の称号改正でマユ31形(マユ31 1 - 3)に改称された。戦後も残っていた1と3は電気暖房化がされ、原番号に2000を加えて2001と2003となった。1967年に2001が、翌年に2003が廃車され消滅した。スハ32800形は、スハ32600形の後継となる三等座席車で、1932年から1942年にかけて日本車輌本店および支店・田中車両・汽車製造本店および支店・藤永田造船所・梅鉢鉄工場・大阪鉄工所・新潟鐵工所・川崎車輌・日立製作所のほか小倉・苗穂・大井・大宮・鷹取の各鉄道省工場で合計727両が製造された。定員は88名である。1941年の車両称号改正後はスハ32600形とともにスハ32形とされ、スハ32 137以降の車号が付番された。台枠は32800 - 32832はUF21、32833 - 33115はUF30、33116 - 33512とスハ32 836 - 863 は筋交い梁が省略され枕梁や横梁の設計が変更されたUF38を使用し、台車はいずれもTR23を装着する。車体については台枠にUF21を使用する1932年・1933年度落成車は車体裾を2列のリベットで接合しているが、台枠をUF30に変更した1934年度からはこの部分の設計を変更してリベットが1列になり、また小倉・苗穂・鷹取の各鉄道省工場で製造された車両の一部は構体について全溶接組み立てが試行された。さらにその中でも鉄道省小倉工場製車については、幕板帯を側柱の間に組み込んで幕板の内側に隠した「ノーヘッダー車」とされ、異彩を放った。なお、同時期の電車ではモハ52形に代表される「ノーシル・ノーヘッダー車」が盛んに製造されていた。腰掛は1932年度予算車である32800 - 32813はスハ32600形と同じもの(図面番号VB11170 - を、1933年度予算車である32814 - 32832には背摺り板が1枚張りに変更されたもの(図面番号VB11614)と木製背摺りの腰掛が使用されたが、1934年度予算車以降背摺りに布団を設け(図面番号VB11660)、座り心地が大幅に改善された。窓の日よけは鎧戸とされたが、北海道向けの車両は鎧戸の部分に内窓を入れて二重窓としたことから窓掛装置(巻き上げカーテン)を取り付けた。また田中車両製の32848 - 32859と鉄道省鷹取・小倉工場製の33024 - 33039は特急用として製造されたため窓には網戸と窓掛装置、天井には扇風機が設置された。1943年には21両が腰掛減少工事を施工してスハ36形とされ、戦災で72両が廃車となっている。上記の新造車のほか、本土に残存していた樺太庁鉄道向け車両の編入や戦災被災車などを復旧した車両がある。戦後、連合軍に接収された車両のうち、4両が復元されなかった。11両がオハネ17形に台枠を供出し、142両がスハ33形(2代)に、22両がオハ56形に、59両がマニ36形に、6両がマニ37形に、2両がオヤ31形に、1両がスエ31形に、4両がマヤ20形に改造され、残った車両も1982年にスハ32 832(札サツ)が廃車され形式消滅した。なお、本形式中スハ32 266は1955年5月に東海道本線で発生した踏切事故に被災し、1956年に国鉄名古屋工場でオハ35 1314として復旧された。詳細は国鉄オハ35系客車#二等車(旧三等車)を参照。スハ33000形は、特急「富士」に三等座席車を連結することになったことから1934年に汽車製造で2両と1935年に大井・鷹取の両鉄道省工場で10両、合計12両(スハ33000 - 33011)が製造された車両である。スハ32800形(スハ32形)やスハ33650形(オハ35形)の増備に伴い、スハ33900形(スハ33900 - 33911) → スハ33980形(スハ33980 - 33911)と順次改番が行われ、1941年の車両称号規定改正時に重量記号変更が併施され オハ34形となりオハ34 1 - 12が付番された。室内はそれまでの三等車とは異なり、腰掛間隔を1,455mmから1,600mmに拡大し、定員はスハ32800形の88名から80名とされた。また特急用ということから窓には鎧戸に替えて網戸と窓掛装置が取り付けられ、隅用腰掛には肘掛が設けられた。客室の天井灯の照度が2等車と同等に変更されて天井には扇風機が4基設置されたほか、1935年に省工場で製造された10両は中心ピンキセと桟板の意匠が変更された。定員が少ないことから戦後は優等列車で使用される機会が少なくなり、晩年は松本区(長モト)に配置された1を除き富山区(金トヤ)に集中配置され1969年にオハ34 2・4・10が廃車され形式消滅した。なおオハ34形には上記の新製車のほか、スハネ30形およびスハネ31形を戦時改造により三等車化した車両がある。→『その後の改造』の戦時改造車の項参照。スハフ34400形は、スハフ34200形の後継となる三等座席緩急車で、1932年から1942年にかけて日本車輌本店および支店・大阪鉄工所・新潟鐵工所・梅鉢鉄工場・川崎車輌・汽車製造支店・田中車両のほか大宮・鷹取の両鉄道省工場で合計311両が製造された。定員は80名である。1941年の車両称号改正後はスハフ34200形とともにスハフ32形とされ、スハフ32 99以降の車号が付番された。台枠は34400 - 34428はUF21、34429 - 34578はUF30、34579 - 34693とスハフ32 393 - 409はUF38を使用し、台車はいずれもTR23を装着する。このうち鷹取工場で製造された34529 - 34532の4両は特急用として製造されたために鋼体は全溶接組み立てとされ、窓には網戸と窓掛装置、天井には扇風機が設置された。腰掛・窓の構造はスハ32形に準ずる。1943年には3両が腰掛減少工事を施工してスハフ35形とされ、戦時中に事故により5両が、戦災により41両が廃車となった。戦後8両が接収を受け(内1両はのちにオヤ31形に改造)、接収解除後は事故廃車が2両ある。5両がスヤ37形に、1両がマニ37形に、19両がスハフ36形に、15両がオハフ35形にそれぞれ改造され、1984年2月までに全車両がいったん休車となり、1987年4月にスハフ32 2357が東日本旅客鉄道(JR東日本)に継承されたほかは廃車となっている。なお、本形式中スハフ32 257はスハ32 266同様1955年5月に東海道本線で発生した踏切事故に被災し、1956年に国鉄小倉工場でオハフ33 627として復旧された。また1938年に樺太庁鉄道が同形車を4両導入し、スハフ2600形(スハフ2601 - 2604)としている。当時の樺太仕様として、連結器取付け高さが低く、制動装置は真空式であった。1943年に鉄道省に編入されたが、改番は行われなかった。スロ30770形は、1936年から1937年にかけて日本車輌製造と川崎車輛および鉄道省鷹取工場で合計11両(スロ30770 - 30780)が製造された給仕室付の二等車である。1941年の車両称号改正によりスロ30750形とともにスロ34形とされ、スロ34 11 - 21を付番された。基本構造はスロ30750形と同様で、給仕室は寝台車のそれとは異なり給仕の控室として使用され、給仕室を設けたことから給仕室の向かいに化粧室を増設して化粧室が2箇所設けられているのが特徴である。客室は転換式腰掛が隅用を含み15列設けられ、定員は60名とされた。また本形式から隅用腰掛 が転換式腰掛に合わせた新意匠のものへ変更され、扇風機が天井設置とされたことからクシ桁の飾り押縁が省略されたほか、従来枠縁構造とされていた室内のベニヤ板の固定方法を押縁で押さえる構造に変更した。また1936年に落成したスロ30774 - 30776・30779・30780は便所が水洗式に、台枠がUF37にそれぞれ変更となり、鋼体に溶接組み立てが採り入れられた。落成後は特急「燕」に使用されていたが、特急廃止後の使用状況は不明となっている。戦災により2両が廃車となり、終戦後連合軍に接収された車両が4両存在した。接収解除後は給仕室を持つことからおもに急行列車などで使用され、1964年に2両が給仕室を車掌室に変更してスロフ34形(2代)に改造、1両がオハネ17形へ台枠を供出、残りはにスハ52形に格下げされた。スロ30850形は、1934年から1941年にかけて日本車輌製造・汽車製造東京支店・田中車輛・川崎車輛・新潟鐵工所で合計70両(スロ30350 - 30419)が製造された二等車である。1941年の車両称号改正に重量記号変更を併施して オロ35形とされ、オロ35 1 - 70を付番された。スロ30800形(スロ32形)を丸屋根化した構造を持ち、定員は64名とされた。鋼体はスロ30850 - 30870までは台枠にUF30を使用したリベット組立とされたが、スロ30871以降は溶接組み立てとされ、スロ30871 - 30894は台枠にUF37を、スロ30895以降はUF38をそれぞれ使用している。またスロ30871以降は内装材の固定を枠縁構造から押縁止めに変更し、従来クシ桁に取り付けられていた扇風機を天井設置としたことからクシ桁に取り付けられていた飾り押縁が廃止された。戦災により6両が廃車となり、終戦後連合軍に接収された車両が18両存在した。接収車両は接収解除時に元形式・元番号に復旧されているが、スハネ34 9に改造されていたオロ35 33は復旧時に改番が行われオロ35 53(2代) とされた。1959年から1962年にかけておもに東北本線や北陸本線で運用される26両に電気暖房装置設置工事が施工され、自重増により重量等級が変わったことから該当車両はスロ43形に改造された。その後近代化改造工事の施工などを受けながら普通二等車(いわゆる並ロ)として使用されてきたが、特別二等車(特ロ)の増備により6両がマニ36形に改造され、残りはオハ53形(0番台)に格下げされた。スロフ31050形は、1934年と1937年に日本車輌製造本店および東京支店・汽車製造で合計11両(スロフ31050 - 31060)が製造された二等緩急車である。1941年の車両称号改正時に重量記号変更を併施して オロフ32形とされ、オロフ32 1 - 11を付番された。スロ30850形(オロ35形)を前後逆向き にして後位1区画に車掌室を設けた構造となり、定員は60名とされた。車体は、スロフ31050 - 31052は台枠にUF30を使用したリベット組み立て構造、スロフ31053 - 31060は台枠にUF37を使用した溶接組み立て構造とされた。スロフ31053以降は同時期に製造された車両に倣い室内が押縁構造に変更され、扇風機が天井に移設されている。戦災で2両が廃車となり、終戦後連合軍に接収された車両が6両存在した。接収解除後は特に大きな改造を受けることなく使用されたが、1965年に7両がオハフ52形に格下げされ、残った車両も1967年にオロフ32 11(大ムコ)が廃車となり形式消滅した。スロハ31500形は、スロハ31450形の後継形式として1932年から1939年にかけて日本車輌製造と田中車輛で合計38両(スロハ31500 - 31537)が製造された二三等座席車である。室内配置はスロハ31450形同様前位に固定式腰掛を設けた定員36名の二等室、後位に定員40名の三等室を設け、その中間に便所・化粧室を設けた構造となっている。1941年の車両称号改正によりスロハ31450形とともにスロハ31形とされ、スロハ31 24 - 61を付番された。スロハ31500 - 31506はスロハ31450形をそのまま丸屋根にした構造で、台枠にUF21を使用し、車体裾のリベットは2列、腰掛は二等用腰掛甲種(図面番号VB11168)と三等用腰掛(図面番号VB11170)の組み合わせとなっていて、三等用腰掛の背摺は木製のままとされた。スロハ31507以降はUF30台枠を使用して車体裾のリベットは1列に、三等室の腰掛は背摺が木製からモケット張り(図面番号VB11660)に、スロハ30508から二等室の腰掛を甲種から改良された乙種(図面番号VB11757)に、台車中心ピンキセと桟板もそれぞれ形状が変更された。またスロハ31514からは三等室の仕切壁のクシ桁の飾り押縁が廃止されて隅用腰掛に肘掛が取り付けられ、スロハ31520から内装材の固定方法が枠縁構造から押縁構造に変更されたことで室内が明るくなり、二等室の扇風機はクシ桁から天井に移設し、網棚の形状も変更された。戦災により6両が廃車となったほか、3両が連合軍に接収された。1949年に1両がスヤ31形(のちのオヤ31形)に改造され、1962年に5両がオハネ17形に台枠を供出、残りは1963年にスハ50形に格下げして形式消滅した。スロハフ31750形は、スロハフ31700形の後継形式として1932年に田中車輛で3両(スロハフ31750 - 31752)が製造された二三等緩急車である。1941年の車両称号改正によりスロハフ31700形とともにスロハフ30形となり、スロハフ30 14 - 16を付番された。室内配置はスロハフ31700形同様前位に固定式腰掛を設けた定員36名の二等室、後位に定員32名の三等室と車掌室を設け、その中間に便所・化粧室を設けた構造となっている。車体はスロハフ31700形をそのまま丸屋根とした構造で、台枠にUF21を使用し、車体裾のリベットは2列、腰掛は二等用腰掛甲種と三等用腰掛の組み合わせで、三等用腰掛の背摺は木製であった。1932年度予算車であることから室内は枠縁構造でクシ桁には飾り押縁が取り付けられ、また北海道向けとして製造されたことから側窓は二重窓とされ、鎧戸に替えて窓掛装置が取り付けられていたのが特徴である。1945年に1両が事故廃車となり、残りはスハフ34形に格下げされた。スイテ37040形は、特急「富士」用に使用されていたスイテ37000形およびスイテ37010形の置き換え用として増備された一等展望車で、1938年に鉄道省大井工場で2両(スイテ37040・37041)が製造された。1941年10月称号改正によりスイテ49形とされ、スイテ49 1・2が付番された。1937年度予算で製造されたため台枠にUF50A を使用した溶接組み立ての鋼体を有し、台車はTR73を装着する。展望室には1200mm幅の側窓が、その他の場所には700mm幅の側窓が使用され、展望室と一等室の間には向かい合わせ固定座席(ボックスシート)が8名分用意されたほか、車軸駆動冷房装置の搭載 を考慮して調和装置(エバポレータ)の取り付け位置や還気風道(ダクト)があらかじめ準備された。展望室の内装は明るくモダンな洋式が取り入れられ、床面は営業用客車初のじゅうたん敷きとされた。戦時中は使用停止となり、2両とも戦後進駐軍に接収され、2には冷房装置が設備された。接収解除された後、1は一等室をリクライニングシートに改造するとともに冷房装置を設備、2は落成時の状態に復旧して1949年から特急「はと」用として使用され、1953年にマイテ49形に改形式された。以降については、#展望車(改造車)のマイテ49形を参照されたい。マイロネフ37290形は、三直宮 および貴賓客の御乗用として1938年に鉄道省鷹取工場で3両(マイロネフ37290 - 37292)が製造された一・二等寝台緩急車で、1941年10月称号改正時に重量記号変更を併施して スイロネフ38形とされ、スイロネフ38 1 - 3が付番された。定員は一等室8名(寝台数2)、二等室24名(寝台数12)とされた。1937年度予算で製造されたことから台枠にUF50を使用した溶接組み立ての鋼体を有し、台車はTR73を装着する。落成後37290・37291は東京局へ、37292は京都区に配置された。車内は前位に一等寝室(1人用区分室)を2室、後位の二等寝室は寝台格納時に向かい合わせ座席となるプルマン式寝台を鋼製客車で初めて採用し、のちに新造される二等寝台車はこの寝台の構造を基本とした。一等寝室には各部屋ごとに寝台と回転式の安楽椅子とテーブル、隅棚が線対称に設備されていて、間仕切を開放することでお互いの部屋の間を側廊下を通らずに行き来できる構造とされた。また一等寝室の出入台よりには二人用区分室並みの広さを持つ専用の化粧室と便所が設備され、便所には洋式便器が設備された。一等室側には区分室側・側廊下側とも1000mm幅の側窓が採用され、同時期に登場しているスロ30960形(オロ36形)やのちに登場するスハ33650形(オハ35形)、スハフ34720形(オハフ33形)などの広窓車グループへの橋渡し役として重要な意味合いを持つ車両であるといえる。終戦後は、全車進駐軍に接収を受け、車軸駆動冷房装置を搭載して特別車として使用され、1949年にスイロネ37形に改造された。→「その後の改造」の進駐軍用改造車の項も参照のこと。マロネ37400形は、マロネ37350形の増備車として1933年から1941年にかけて日本車輌製造・川崎車輛・田中車輛と鉄道省大井工場で合計46両(マロネ37400 - 37445)が製造された二等寝台車で、定員は42名(寝台数28)および喫煙室2名とされた。1941年の車両称号改正によりマロネ37300形・マロネ37350形とともにマロネ37形とされ、マロネ37 93 - 138が付番された。車体については、1933年製のマロネ37400 - 37402は37350形に引き続き台枠にUF45を使用し、1934年から1937年製のマロネ37403 - 37413はUF48を使用、1939年以降製のマロネ37414 - 37445はUF51を使用し、構体も溶接組み立てとされ、台車はTR73を装着する。室内はマロネ37350形マロネ37397・37398の構造を引き継いでいるが、丸屋根構造となったことから上段寝台の取り付け位置が85mm上昇し、寝台幅もわずかながら拡幅された。台枠にUF48を使用するマロネ37403以降は寝台の構造が変更され、腰掛となる下段寝台の取り付け高さや台枠変更による床下機器の設計変更が、台枠がUF51に変更されたマロネ37414以降でも床下の配管や機器配置の変更が行われている。また1940年落成の一部の車両は内装をベニヤ板一枚張りとされ、シンプルかつ近代的装いとなった。1941年落成車は戦時統制の影響で資材に代用材を使用してグレードが若干下がった。1944年4月戦況の悪化により寝台車としての使用が中止され、1944年7月に20両(93 - 112)が戦時三等車マハ47形(93 - 112)への改造対象とされたが、このうち14両が改造されたのみにとどまる。終戦後マロネ37形として残っていた30両は連合軍に接収され、接収解除後1953年の車両称号改正によりマロネ29形(101以降)に改造され、主要幹線の夜行特急・急行および準急列車に連結された。1960年以降オロネ10形一等B寝台車の増備に伴い定期運用から引退し、末期は臨時団体列車に利用された。その後1961年に3両が蛍光灯照明に改造され、1963年8月に113・114の給仕室に緩急車設備と出入台に手ブレーキを追設しマロネフ29形 (111・112) に改造、1967年11月に127・130(東シナ)の廃車により形式消滅した。なお、本形式は戦後にも増備が計画され、1945年に1940年の設計を基に台枠をUF116台枠の三軸ボギー用としたUF53とした折妻、鋼板屋根の鋼体と鏡板1枚張りの室内構造、台車をTR73の軸受をコロ軸受化したTR77とした設計が行われ、形式図まで完成していたがその後の計画変更により製造は行われなかった。マロネ37480形は、1935年から1936年にかけて日本車輌製造と川崎車輛で合計7両(マロネ37480 -37486)が製造された特別室付二等寝台車で、前位に側通路式の区分室(座席定員6名、寝台数4)2室と後位に長手式2等寝台(座席定員18名、寝台数12)、車室中央部に4名定員の喫煙室を有し、定員は34名(寝台数20)および喫煙室4名とされた。1941年の車両称号改正によりマロネ38形とされ、マロネ38 1 - 7が付番された。1934年に東海道・山陽線以外の路線で一等寝台車が連結中止となった東北・常磐線の201・202列車や青函連絡船を経由して運行される函館・宗谷線列車に充当し、高官・賓客が利用する際、区分室を利用することとした。このうち1936年に製造されたマロネ37484 - 37486は北海道向けのため、側窓の二重窓化や便所・化粧室への蒸気暖房放熱管の設置などの寒冷地対策が施されているほか、区分室の間仕切の羽目構造や桟板が新しい意匠に変更されている。区分室は洗面台がないのを除けば一等車並みの設備を持っていたことから、特別室の二等寝台料金は一等寝台と二等寝台のほぼ中間に相当する金額に設定されていた。終戦後は全車が連合軍に接収され、マイロネ38形とされたが、1952年までに接収解除となりマロネ38形に復元された。1955年の等級制改正の際、区分室に洗面台がなかったことから区分室を含め二等C寝台とされ、その後急行「雲仙」や「北斗」・「みちのく」などで運用され、1964年に全車廃車され形式消滅した。マロネフ37560形は、マロネフ37550形の増備車として1938年に日本車輌製造で3両(マロネフ37560 - 37562)が製造された二等寝台緩急車で、前位より便所・化粧室、喫煙室(定員4名)・給仕室、長手式寝台(定員36名、寝台数24)、化粧室2か所と3位側に便所、4位側に車掌室が設けられていて、片側車掌室となったことから3位側の客用扉は下降窓付きの開き戸とされた。鋼体は台枠にUF50を使用した溶接組み立てとされた。なお、この台車はUF37を三軸ボギー車向けとしたもので、採用したのは本形式と37290形のみである。1941年の車両称号改正によりマロネフ37500形・マロネフ37550形とともにマロネフ37形とされ、マロネフ37 28 - 30が付番された。戦災により1両が廃車となり、残った車両は進駐軍による接収後1952年に返還、1953年の車両称号改正によりマロネフ29形 (101・102) に改形式・改番された。品川客車区に長らく配置され、1956年11月より運行が開始された特急「あさかぜ」(1956年11月 - 1957年9月)および「さちかぜ」(1957年10月 - 1958年9月)に連結されるなど華々しい運用もあったが、1968年に廃車され形式消滅した。マロネロ37600形は、1936から1939年にかけて日本車輌製造と川崎車輛、それに鉄道省大宮工場で合計35両(マロネロ37600 - 37634)が製造された二等寝台および二等座席の合造車である。室内構成は37400形と30850形を折衷した構造となっていて、前位より便所・給仕室、化粧室と定員2名の喫煙室、長手式2等寝台(定員18名、寝台数12)、転換式腰掛(二等用丙種)を配置した2等席(定員32名)、便所・化粧室が配置され、寝台室と座席室の間には仕切り壁が設けられている。1941年の車両称号改正によりマロネロ37形とされ、マロネロ37 1 - 35が付番された。鋼体は、マロネロ37600 - 37625は台枠にUF48を使用して車体裾に1列のリベットが残り、マロネロ37626以降はUF51を使用し溶接組み立て構造とされた。また1936年度予算となったマロネロ37607以降は二等室の扇風機がクシ桁から天井に移設されたことからクシ桁の飾り押縁を廃止し、溶接構造となったマロネロ37626以降は二等室の室内が枠縁構造から押縁構造となり、便所が水洗式便所装置に変更されたことから車内に2か所ある便所・化粧室の上に通風器が追設されている。製造後は、おもに亜幹線や普通列車で使用されたが、二等寝台と二等座席の合造車であることから半車単位での増結が可能であり、そのため、車両の需給調整などの理由で東海道線の急行列車などでも運用されていた。1944年4月に戦局の悪化により寝台車の使用が停止されたことによるあおりを受け、同月に23両 (1 - 18・23 - 29) が戦時三等車マハ47形 (136 - 160) への改造対象になったが、16両 (1 - 11・14 - 18) が改造されたのみにとどまる。残った車両のうち1両は戦災により廃車となり、戦後進駐軍の接収を受け、そのうち4両が改造されたが、1両が復元された。1953年の形式称号改正でマロネロ38形(番号は1 - 6・9 - 13・15・16・21・22。このうち21・22は北海道向け)に改形式・改番が行われた。その後1960年から1961年にかけて7両が客室照明を蛍光灯化され、晩年は準急「利尻」に充当されていたが、一・二等寝台車オロハネ10形の登場により1966年に5・9・10(札サツ)が廃車され形式消滅した。スハネ30000形は、1931年に10両(スハネ30000 - 30009)が製造された、初の三等寝台車。のちのナハネ10形と同様に車両の片側に廊下を設け、枕木方向に三段式寝台を向かい合わせで設置した。当初は寝台を区分するカーテンは一切用意されていなかった。本形式では車両限界を有効活用すべく本系列初の丸屋根構造が採用され、以後の新造車が丸屋根構造へ移行する端緒となった。このため大半の車両では二重屋根車に準じたリベット組み立て構造となっており、過渡期の設計であったことをうかがわせていた。東京 - 神戸間の夜行急行13・14・19・20列車 に1931年2月より5両が投入され、さらに同年6月より増備車5両の完成を

出典:wikipedia

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