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木曾 (軽巡洋艦)

木曾(きそ)は、大日本帝国海軍の球磨型軽巡洋艦の5番艦。艦名は東海地方を流れる木曽川に由来して命名された。1921年、長崎で竣工。竣工後はシベリア撤兵や日中戦争に参加していたが、太平洋戦争開戦後は第5艦隊所属として北方作戦に従事することとなり、1942年のミッドウェー作戦に伴うアッツ島・キスカ島攻略作戦や翌年のキスカ島撤退作戦へ参加する。その後は主として輸送任務に就いた。竣工時に艦橋下に格納庫と艦橋前に滑走台を設置、陸上機を収容できるようにした。そのため他の球磨型より艦橋構造物が大型化した。以降の長良型、川内型も同様の理由で艦橋構造物が大型化している。しかし滑走台の実用性は乏しく後に撤去、以降陸上機は搭載されなくなった。他の5500トン型軽巡洋艦は近代化改装時にカタパルトを設置、水上機を1機搭載したが木曾は大井、北上と共にカタパルトを設置せず、水上機は搭載されなかった。木曾は1,2番煙突上部にそろばん型の雨水除去装置を設置、このため他艦と容易に識別できる。なお他の5500トン型では球磨がそろばん型のものを煙突3本全てに設置、他の艦との識別点になっている。1919年6月10日、起工。1920年12月14日、進水。1921年5月4日、三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)において竣工した。シベリア出兵に参加し、続いて旅順を拠点とし関東州から青島にかけての沿岸の哨戒にあたった。1936年2月26日、二・二六事件に際して、横須賀鎮守府の判断で当日中に東京湾への緊急出動を果たそうとするも、軍令部の要請で出動は取りやめになっている。1939年4月17日、米重巡洋艦アストリアが日本の駐米大使斎藤博の遺骨を載せて横須賀に到着した際21発の礼砲を発射した。1941年(昭和16年)11月10日、木曾は第五艦隊の第21戦隊に編入された。真珠湾攻撃時は千島列島で活動しており、荒天による損傷のため同年末には横須賀に戻った。1942年(昭和17年)1月から4月まで木曾は同型艦の多摩とともに北方水域で活動した。4月、アメリカ軍によるドーリットル空襲が行われると木曾もアメリカ機動部隊追跡に派遣された。19日、木曾は爆撃を受けて損傷し漂流中であった監視艇「第二十一南進丸」を発見し、乗員の救助後砲撃により処分した。5月、アリューシャン列島攻略作戦に参加。1943年(昭和18年)7月、キスカ島撤退作戦に参加する。その後内地や南方方面の陸軍部隊輸送任務等に従事した。9月11日、連合艦隊の下令により丁一号輸送部隊(指揮官隼鷹艦長:空母隼鷹、軽巡《木曾、多摩》、駆逐艦《大波、谷風》、栗田丸)が編制され、海上機動旅団(甲支隊)を輸送する事になった。9月15日、木曾、多摩は宇品を出発、22日カロリン諸島・ポナペへ揚陸した。2隻はトラック泊地へ回航されて待機。10月24日、隼鷹、谷風が甲支隊を輸送してトラックに到着し、木曾、多摩、谷風へ移乗する。3隻は26日にトラックを発ち、27日に進出して部隊を揚陸した。輸送任務完了をもって丁一号輸送部隊は解散した。10月5日、連合艦隊は第十四戦隊司令官伊藤賢三少将(旗艦那珂)を指揮官としてT四号輸送部隊(十四戦隊《那珂、五十鈴》、軽巡《木曾、多摩》、第4駆逐隊《野分、舞風》、駆逐艦山雲、輸送船《栗田丸、日枝丸、護国丸、清澄丸》)を編制した。第一輸送隊(指揮官多摩艦長:多摩、木曾)は10月12日に第十七師団約980名と物資を搭載して上海市を出発。18日にトラックへ到着すると駆逐艦卯月を部隊に編入した。19日に出発しラバウルへ向かうが、21日にニューアイルランド島セント・ジョージ岬北東40浬で米軍機の空襲を受けた。木曾の一番煙突右舷附近に爆弾1発が命中、一時航行不能となるが、復旧に成功した。木曾の自力航行可能を見届けて多摩はラバウルへ向かった。木曾、卯月はラバウルから救援のためかけつけた駆逐艦五月雨と合流、米軍機の攻撃を撃退しつつ21日正午前後にラバウルへ到着し、消火に成功した。多摩は同日中にトラックへ帰投し、応急修理を行った木曾は28日にラバウルを出発、30日にトラックへ戻った。木曾、多摩は10月23日附でT四号輸送部隊から除かれる。戦力を補充すべく27日附で第17駆逐隊(磯風、浦風)が同輸送部隊に編入された。その後も木曾は11月10日に舞鶴へ入港し、翌1944年(昭和19年)2月末まで本格的な修理を行った。この際大幅な改修を受け、14cm主砲の5番・7番砲を撤去し12.7cm連装高角砲1門と機銃の増備が行われた。1944年3月から5月末まで大湊・川内湾で訓練を行った後に横須賀へ入港し、6月30日に父島への陸軍輸送任務を行う。7月3日に横須賀へ帰還後整備補給を行い、8月11日に横須賀を出港。同月12日に呉へ入港する。8月30日、練習警備艦となり、訓練に関しては横須賀海軍砲術学校の指揮下に入る。10月30日、木曾は輸送任務をおこなう隼鷹を第30駆逐隊(夕月、卯月、秋風)と共に護衛しつつ、佐世保からブルネイに向け出港したが、途中11月3日に秋風が米潜水艦ピンタドの雷撃で撃沈された。輸送艦隊はブルネイ湾で重巡利根と合流、11月10日にマニラへ入港した。同日第五艦隊・第1水雷戦隊に編入され、第五艦隊司令部をブルネイに輸送する為に待機していた。12日、隼鷹輸送隊はレイテ沖海戦から生還した駆逐艦時雨を編入し、木曾を残して内地へ帰投。翌日11月13日、マニラ湾に停泊中に米空母機動部隊艦載機の攻撃を受け、木曾は大破着底した。また周囲では駆逐艦初春、曙、沖波、秋霜も沈没もしくは大破着底状態となっている。同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮、竹)はマニラを出港し、シンガポールへ向かった。12月10日、木曾は予備艦に指定された。1945年(昭和20年)3月20日、舞鶴鎮守府籍・軍艦木曾は軍艦籍より除かれた。1955年から1956年にかけて曙とともに現地にて浮揚解体された。艦齢35年は日本海軍の軽巡洋艦として最長を誇る。

出典:wikipedia

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