全国青年大会(ぜんこくせいねんたいかい)は、毎年11月に東京で開かれる35歳以下の地域青年を対象とした全国規模のスポーツ・文化の祭典。全青大(ぜんせいたい)と略される。全国農協青年組織協議会や各種宗教団体が主催する「全国青年大会」という同名イベントが複数存在するが、ここで紹介する全国青年大会とは無関係。日ごろ取り組んでいるスポーツや文化活動の発表の場として、予選大会等を経た各都道府県代表の青年男女が集まり、4日間(11月上中旬の金曜~月曜)にわたり披露する。参加者の交流と友情を深め、平和な地域社会を創りだし、スポーツと文化の裾野を拡げることに重点を置いている。なお、2005年(平成17年)の第54回までの大会参加者数は延べ35万人。第1回大会来賓の三笠宮崇仁親王は「日本が、もしかつて大陸に武力的に進出したような甘い夢がまださめやらずして、再び武装して外に出るようなことがあれば、これは第三次世界大戦の誘引になることを痛切に感ずる。なんといっても再び日本人が武装して国外に出ないことを、皆さんにはっきり持っていただきたい」と語った。その後も、平和への努力こそが若者の大会である青年大会の基本理念であることが、長きにわたって受け継がれている。戦後の青年団による競技大会の復活(戦前は同種の大会として「明治神宮競技大会」があった)の取り組みは、青年団の全国組織結成の過程において、1946年(昭和21年)からはじまった国民体育大会に「青年団の部」を加えるよう関係団体に要望を出すところから始まった。この取り組みは全国青年大会が開催されるまで日本青年館の事業として継続される。1951年(昭和26年)、日本青年団協議会が結成。翌1952年(昭和27年)の大会において、「神宮外苑を中心に青年団の体育的な競技、キャンプなどのペーゼントを展開し青年団生活における正しいレクリエーションの意義を理解すると同時に、実践を通してこれが指導能力向上の機会たらしめたい」旨の事業方針案が可決された。同年、サンフランシスコ講和条約発効を記念して「講和記念全国青年大会」が開催される運びとなった。しかし、文部省から、日青協は法的資格のある団体ではない、全国の青年団全てを包括した団体ではない、経費を支出していない、等の理由から大会の主催団体として認められないという意向を伝えられた。これは、青年学級の法制化に日青協が反対の立場を取っていた事が背景にあったからともいわれている("「全国青年問題研究集会」の項を参照")。日青協は当然反発し、「青年団の主体性を守るため大会参加をとりやめるべき」という意見も出たが、結局第1回の大会は日青協の「主管」という形で行く事となった。なお、日青協が主催団体となるのは第3回大会からである。体育の部は国民体育大会(少年の部は除く)や国際競技会、文化の部は日展等全国公募展などに参加経験のあるトップレベル競技者や職業(プロフェッショナル)競技者には参加資格がなく、普段は働きながら、地域で地道にスポーツや文化活動に携わる35歳までの青年に参加資格がある点が最大の特徴。ただし、競技によっては一定条件を満たせば参加可となる場合もある。(バドミントン・卓球・ボウリング・写真展・生活文化展は5年経過すれば良い。ソフトボール女子と美術展は5年経過すれば良かった)従来は勤労青年のみ対象だったが、第50回から学生も参加できるようになった。ただし、人数制限があり、各競技の学生連盟に登録していないことなど厳しい条件がある。従来は35歳以下の青年のみ対象だったが、第58回から年齢制限が緩和され、36歳以上(上限なし)でも出場可となった。参加枠は、これまでの学生枠と分け合う形となる。団体競技では、人数不足解消で出場可となる団体が増えることが期待される。しかし、何歳でも出場可なため、青年層とかけ離れた高齢選手ばかりが参加しないかという懸念もある。日青協は平成24年度第2回理事会(平成24年9月8~9日)で、第62回(平成25年)から芸能文化の部(以下、文化)を全青大から分離し、別事業として開催することを提案。一部加盟団が猛反対したが、最終的に賛成多数で承認された。(第61回大会で出場8チーム未満の種目を廃止する附帯決議も承認)分離の目的は、スポーツ振興くじ助成金を得るため、全青大をスポーツに特化した大会にすることにある。しかし、全青大が長年にわたりスポーツと文化を“車の両輪”として扱ってきたにも拘らず、財政的に苦しく、参加者が減少傾向にある(後述)とはいえ「金が欲しいから文化を切る」ともとれる日青協の姿勢は、関係者から大顰蹙を買っている。日青協は、来年から代替事業「全国青年文化祭」を全青大と同日に行う計画。ただし、どの種目を同文化祭で行うかなど詳細は未定。助成金が得られなかった場合でも、分離の方針は変わらないとしている。大会は全日程参加が原則だが、職場環境の厳しさ等から開会式、閉会式のどちらも欠席者が増加傾向にある。開会式閉会式日本青年館のほか、東京体育館、国立オリンピック記念青少年総合センター、講道館、江戸川区総合文化センターなどが会場として使われる。過去には国立競技場、両国国技館、日本棋院市ヶ谷会館、将棋会館など各競技の聖地と言える会場が使われていた。体育の部芸能文化の部交流プログラム体育の部芸能文化の部「開催までの経緯」にあるように、当初は全国青年大会の主催をめぐり日青協と文部省は対立していた。1954年(昭和29年)の第3回大会に際し日青協は、「文部省との共催、もしくは日青協の主催で無い限り日青協は参加しない」という強い態度で文部省と折衝をもった。これに対し文部省は同年8月、日青協を主催団体と認めるという回答を示し、各加盟団もそれを受け予選会開催など慌しく対応した。ところが翌月9月の開催打ち合わせの会合において、文部省は「大会を全勤労青年の総合大会にする」という名目で、ボーイスカウト日本連盟や日本キリスト教青年会などを加えた、実に14団体の主催による大会にする事を突如発表した。これまで果たしてきた青年大会における青年団の主体的な役割を無視し、行政主導の「官製」青年大会の方向に進もうとする事に対し日青協は猛反発し、ついに「全青大不参加」の声明を発表するに至った。この日青協の態度にボーイスカウト日本連盟や日本キリスト教青年会などの青年団体も同調して主催を返上し、さらにマスコミを含めた世論もその態度を支持した。ただし都道府県青年団では、日青協の加盟団としては不参加を表明するも、参加希望の選手にまでそれを強制できないとして、県教育委員会からの申し込みによる参加を容認したところも一部であった。事態を憂慮した全国都道府県教育長協議会が収拾のために仲介に乗り出し、日青協は大達茂雄文部大臣と直接交渉に及ぶ事となった。その結果、今大会は日青協が主催に加わりかつ主管して運営に当たる事、今後は日青協と文部省、都道府県教育委員会とよく協議して計画を立てる事などが確認され、日青協の不参加は回避された。1969年(昭和44年)の第18回大会は、「一部」(地域の部)と「二部」(職域の部)という二部制に分かれて開催された。これは、従来の地域青年団員の参加に加えて、体育部門において職場・事業所単位での参加を認めるというものだった。しかし、勤労青年に広く参加の門戸を開くという意義はともかく、青年団と関係の無い職場チームの青年が出場する事が果たして青年団の組織強化につながるかという疑問が検討段階から指摘されていた。第18回大会直後の日青協理事会においてもこの疑問が俎上に挙がった。全青大は勤労青年の大会であるという原則から見ても参加者を青年団員のみに絞るべきではないという意見もあったものの、次年度の大会でも二部制を取り入れるという開催要項案は否決されてしまった。そこで執行部は翌1970年(昭和45年)の定期大会において、二部制は次年度開催予定の第20回大会から改めるという案を提示し、議論は一旦は収束した。しかし、実際の廃止はその後文部省や各都道府県の教育委員会との意見調整がつかなかったため、1975年(昭和50年)の第24回大会まで持ち越された。ちなみに、この時二部制廃止に伴う参加者の減少が懸念されたが、実際は逆に前年度大会より参加者が500人以上増えるという結果になった。1981年(昭和56年)の第30回大会では参加者数が史上最大の7748名に達するなど、1980年代には参加者数がピークを迎え、交歓会の規模も大きくなってきた。そこで運営スタッフ不足の解消のために、1983年(昭和58年)の第32回大会から、各道府県団から選手や選手団役員と別に「運営協力員」を選出し、主催者の役員・職員とともに開会式や交歓会の運営の任に当たるという制度がはじまった。この運営協力員制は現在においても継続されている。全青大参加者は、第30回の7748人をピークに年々減少し続け、第57回はついに3000人を割り込んだ。…などが大きな原因と考えられる。せっかく都道府県大会で好成績をあげ代表権を得ても、前述の理由で出場を辞退する団体・個人も増加している。また、予選となる都道府県大会も参加者が減少しており、大会が存続の危機にたたされている。演劇は、最盛期には数十都道府県が参加し、1会場で間に合わず2会場で実施されていた。しかし、第57回は何と1団体しかなかった(ただし、獨協高校演劇部が研究公演で参加している)。この年は、人形劇の参加も1団体のみだった。第54回までは全都道府県が参加していたが、第55回以降は1人も参加しない県もある。主催する日青協の態度・声明が、特定の政治団体のそれに類似していると感じる人が日青協そのものを敬遠し、大会へ参加したがらないケースもみられる。 "※日本青年団協議会や青年団の項を参照。"広島県で「5年前5000名を誇っていた参加者が昨年(2005年)は3500名を下回り、来年以降の(全国青年)大会存続が危ぶまれている為、今年(2006年)で最後となる可能性があります」と書かれた県大会の案内文書が出回り、大騒ぎとなった。しかし、この文書はまったくのガセネタで、日青協は2007年の第56回大会を開催し、騒動の発端となった広島県も選手団を派遣した。
出典:wikipedia
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