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全日本プロレス

全日本プロレス(ぜんにほんプロレス)は、日本のプロレス団体。興行会社としての正式社名はオールジャパン・プロレスリング株式会社(オールジャパン・プロレスリングかぶしきがいしゃ)。正確(法人登記上)には2度運営企業が破綻している。以前の運営会社は全日本プロ・レスリング株式会社(ぜんにほんプロ・レスリングかぶしきがいしゃ)及び全日本プロレスリングシステムズ株式会社(ぜんにほんプロレスリングシステムズかぶしきがいしゃ)。1971年12月、アントニオ猪木が経営改善の下にクーデターを画策したとして日本プロレス選手会を除名されて日本プロレスを永久追放された(詳しくは「密告事件」を参照)。その余波が日本プロレスのテレビ中継に波及することとなった。当時は日本テレビとNETテレビ(現:テレビ朝日)の2局放映体制であった(詳しくは「BI砲の時代」を参照)。NETの看板選手であった猪木を日本プロレスの内部事情で失ったことでNETはこれまで日本テレビとの関係からNETの中継に出場できなかったジャイアント馬場の出場を強硬に要求して協議の結果、日本プロレス幹部は日本テレビとの取り決めを破り馬場のNETの中継への出場を解禁。このため日本テレビは「契約不履行」を理由に日本プロレス中継の打ち切りを決定。極秘裏に報復手段に近い形で日本テレビに関係が近かった馬場に接触。馬場もまた独立へ向けて準備を進める形となった。1972年7月29日、馬場は日本プロレスの退団してプロレス団体の設立を表明。日本テレビのバックアップを受ける形で馬場は渡米してサーキットを行い、その上でドリー・ファンク・シニア、フリッツ・フォン・エリック、ブルーノ・サンマルチノなどの有力者に接触して協力を要請して豪華外国人選手の招聘に成功。日陣営も「親馬場派」ともいえる大熊元司、マシオ駒、サムソン・クツワダらを確保。この中でも日本プロレスの若手選手であった百田光雄、取締役兼リングアナウンサーとして百田義浩に加え、役員として力道山未亡人の百田敬子も旗揚げに参加したことで「力道山(百田)家のお墨付き」を得ることにも成功。さらには手薄な日本人陣営をカバーするために国際プロレス代表取締役社長の吉原功との会談でサンダー杉山を獲得、当時若手選手であったデビル紫、鶴見五郎らが参戦して国際プロレスとの協調路線をしばらく維持。馬場ら全日本勢も協力の見返りとしてしばしば国際プロレスの興行に参戦している。馬場は将来の投資として旗揚げ直後にミュンヘンオリンピックレスリング代表であった鶴田友美(現:ジャンボ鶴田)を獲得。渡米修行から1年後の国内デビュー以降タイトルに頻繁に挑戦させるなど、将来のエース候補として英才教育を受けさせた。ザ・デストロイヤーが手薄な日本人陣営に助っ人として加わり、1979年まで約6年半にわたり定着参戦。馬場に次ぐ看板選手として初期の全日本の興行活動に貢献。1973年4月、日本プロレスが崩壊、最後まで日本プロレスに残留した大木金太郎ら9人の日プロ残党は「力道山家預かり」となることを発表。その過程で日本テレビや力道山家の意向などもあり、大木ら9選手は全日本へ合流する形となったが馬場は当初から大木らの受け入れには難色を示していたとされている。そのため、馬場はマッチメイクなどで「旗揚げからの所属(子飼い)組」と「日プロからの合流組」との間で扱いに格差を付けていた。この扱いに対して上田馬之助と松岡巌鉄が反発して10月9日に退団、次いで大木も1974年1月のシリーズを無断欠場し全日本から一時撤退した。ジャイアント馬場が培ったアメリカ(主にNWA)での人脈を生かして多くのスター外国人選手を招聘するなど、力道山時代の「日本人レスラー対外国人レスラー」の系譜を受け継いだ。当時は新日本プロレスのストロングスタイル路線と比較され、全日本のプロレスは動きが緩やかな印象を与えがちだったが、試合中の高度な駆け引きや受けの要素など、アメリカン・プロレスの源流に重きを置いた。この時期に鶴田を輩出してミル・マスカラスやテリー・ファンクなどアイドル的な人気を博したベビーフェイスの外国人選手も登場。1977年、世界オープンタッグ選手権に端を発するザ・ファンクスとアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの流血の抗争劇も人気を呼んだ。1981年、新日本との引きぬき合戦が勃発、5月にブッチャーが引き抜かれるが7月にタイガー・ジェット・シン、さらに12月にスタン・ハンセンを引き抜き返す。また、馬場や鶴田に次ぐ第3、第4の選手として天龍源一郎や大仁田厚らも台頭。馬場が高年齢を理由にタイトル戦線から退いた後には、「明るく、楽しく、そして激しく」を掲げ、日本人選手の対戦が主軸となった。その他、中継権を持っていた日本テレビと関連が特に深い時期であり、日本テレビの役員だった松根光雄が出向の形で全日本の社長ポストに就いていた(馬場は会長ポスト、後に社長に就任)ほか、大八木賢一(後に全日本専務、現在はノア専務)など、多くの日本テレビ関係者が出向で全日本に在籍した。天龍を中心に「見る者にも、痛みの伝わるプロレス」が繰り広げられた。1984年、新日本を離脱した長州力らジャパンプロレスの選手らが参戦したが、その後にジャパンプロレスが分裂し長州力らが新日本プロレスに戻ったのをきっかけに天龍は阿修羅・原と「天龍革命」を起こして鶴田、ハンセン、ブルーザー・ブロディらとタイトル争いを演じている。1987年、ハル薗田が、新婚旅行を兼ねて南アフリカへ試合のために向かう途上、航空機の墜落事故に遭遇し、不慮の死を遂げた。薗田は31歳という、これから脂の乗ってゆく年代の選手であるだけに期待されており、またマシオ駒亡き後の若手に対するコーチ役を務めていたことから組織としても小さくない痛手となった。1988年、長く待望されていた3つのヘビー級王座の統一が図られるが決定戦のたびに引き分けや不透明決着に終わる(王座戦の決着としてはありふれた手段だった)。最初の統一戦から約1年が経過した1989年4月16日、後楽園ホール大会におけるメインイベントの鶴田対ハンセン戦も反則裁定に終わり、ついに激怒したファンが暴動寸前にまで陥る。3冠統一は2日後鶴田により成されたが、この事件がきっかけとなって、全日本の試合からあからさまなリングアウト・反則裁定が排除され、技による完全決着がつけられるようになる。これが、後の鶴田対超世代軍、四天王の激戦を呼ぶ伏線となった。1990年、天龍源一郎をはじめとする多くの選手がSWSに移籍して存続が危惧される。だが鶴田に2代目タイガーマスクとして活躍していた三沢光晴が率いる「超世代軍」が挑む構図が生まれ、新たなブームを引き起こして再生。鶴田が率いる正規軍と超世代軍と外国人選手の戦いが主軸となった。1992年、鶴田が病気のため、一線から退くと戦いは四天王プロレスと呼ばれる形へ発展。ジャパンプロレスのハイスパートレスリング、天龍革命によってもたらされた激しいプロレスを出発点とする危険度の高い技を次々と繰り出すスタイル(詳しくは「王道プロレス」を参照)は先鋭化し続け、三沢、川田利明戦などはテレビ解説をしていた馬場に「高度すぎて俺には解説できない」と言わしめるほどだった。この時期に空前絶後の利益をおさめ、年間7回の日本武道館大会を中心に経営的な成功を勝ち取る。日本武道館大会は1990年代全般でプレイガイド発売即チケット完売となるほどの人気で1998年には東京ドームで初興行を開催。「王道プロレス」のキャッチコピーが浸透。1999年1月31日、馬場が死去。5月7日、三沢が社長に就任。馬場存命中には行わなかったビッグマッチでの大胆なカード編成を試みた。また三沢、仲田龍らは、新日本などで行われていた花道やレーザー光線などを使った華やかな演出を提案し続けた。しかし伝統の保持を第一優先と主張する、馬場夫人である馬場元子との軋轢が生じ、社長を解任された。その結果、元子と馬場の姪、馬場幸子、渕正信を除く全役員が辞任。社長解任後、三沢を含めた選手26人、練習生1人、大半の職員が全日本プロレスを離脱して、三沢らはプロレスリング・ノアを設立(詳しくは「三沢光晴の経歴」を参照)。その後、日本テレビは全日本プロレス中継を終了し、所持していた全日本プロレス株も手放す。放送枠は「コロッセオ」を経て「プロレスリング・ノア中継」に切り替えた。全日本プロレスに残留したのは川田、渕、レフェリーの和田、リングアナウンサーの木原文人、広報1人、そして馬場元子の6名となった。川田は後に、馬場死去後は全日本には実際にはフリーの立場として上がっていて、専属契約はしていないことを告白しているが上記通り2004年までは全日本の役員に名を連ねていた。その他は留学という形での参戦だった太陽ケア、当時は元参院議員として衆院選活動中でプロレス復帰も流動的な馳浩のみだった。その後、天龍の復帰、フリー、他団体、馬場時代からの常連外国人選手の参加により運営を維持していた。また、この時期に川田と渕が新日本の興行に出場した。翌年の東京ドーム大会で武藤敬司が全日本に初参戦。ケアに勝利した後、共闘してBATTを結成。その後、新日本所属選手としては初となる三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座を獲得して年末のタッグリーグ戦を制するなど、2001年の日本武道館大会のメインをすべて武藤が務めることになる。2002年2月26日、新日本を退団した武藤、小島聡、ケンドー・カシン、HAWを退団したカズ・ハヤシが移籍。武藤の社長就任直後は、三沢光晴社長時代と同様に株式譲渡が無く、再びオーナーとサラリーマン社長という形での軋轢が生じた。その後、渕正信とレフェリーの和田京平の生え抜き役員が武藤側に回り、渕、川田利明、レフェリーの和田の3名連名で武藤への株式譲渡懇願書を馬場元子に提出。武藤には無償で株式が譲渡され、馬場元子はオーナーを退き、事務所を六本木から移転。シリーズ興行の定番タイトルだった「ジャイアント・シリーズ」などを変更、WWEでエージェントを行っているジョニー・エースとの繋がりでジャマールらWWEを解雇されたレスラーが多く参戦し、全日の伝統である「日本人レスラー対外国人レスラー」を受け継ぎつつ、「明るく、楽しく、激しく、新しい」プロレスをメインコンセプトに、馬場全日本のカラーだった「王道プロレス」に代わる「パッケージプロレス」を提唱、実践していることが武藤全日本の特徴である。通常の興行は橋本真也が率いるプロレスリングZERO-ONEとの対抗戦後、TAKAみちのく率いるRO&Dが参戦。その後TARUが率いるVOODOO-MURDERS、佐々木健介、中嶋勝彦、鈴木みのる、NOSAWA論外、MAZADA、TAKEMURA、再び全日本リングに参戦している高山善廣にケアを加えたGURENTAIの定期参戦、元大阪プロレスの菊タロー、K-1から曙らの参戦により、新たなファン層の獲得にも成功した。特別興行では2002年6月9日、A BATHING APEとのコラボレーションによる「BAPE STA!!PRO-WRESTLING」をZEPP TOKYOで開催。普段は見られない覆面レスラーが多数登場した。好評につき2003年と2004年にはツアーで開催。2008年12月23日に4年ぶりに開催。また石井和義率いる株式会社ケイ・ワンと協賛で2002年11月17日、横浜アリーナでプロレス版「Dynamite!」として「ファンタジーファイトWRESTLE-1」を開催、第2弾は2003年1月19日に東京ドームで行われた。武藤は「WRESTLE-1」の世界を「ファンタジーファイト」と表現した。なお、この興行の模様をフジテレビが地上波で放送した。ただし、それは「ボブ・サップのプロレスエンターテインメントショー」と銘打たれ、プロレス中継というよりは、当時人気だったボブ・サップを中心としたバラエティ番組として放送された。また、ファン感謝デーや近年、毎年6月10日に開催される「武藤祭」は非常に好評で、芸能人を使ったF-1タッグ選手権など、ファンに楽しんでもらえることを中心に構成されている。武藤が司会を務める番組「武藤敬司☆SHOW」で対談した船木誠勝らが興行に関わったり、夏目ナナや吉沢明歩などAV女優によるコラボ興行を開催。また江崎グリコプロダクトマネージャーで全日本プロレスのコンディショニングコーチの桑原弘樹、武藤、ゴールドジムの協力によるプロレスラー流のトレーニング方法やサプリメントなどの栄養学を参加者に公開する「武藤塾」を毎年開催しており、年に1度、新人オーディションを開催して見事に合格して入団した選手がいる。近年、多くの選手やスタッフがブログを始めており、試合だけでなくプライベートやイベントの情報も公開している。かつては全日本プロレスの主要大会と言えば日本武道館大会だったが、資金の関係で2004年2月22日を最後に撤退した。その後は代々木第2体育館に加えて、年1回、2回、両国国技館でのスペシャル興行「プロレスLOVE in 両国」としてプロレス界では初の試みとなる、複数の企業から出資金を募り1つのイベントを作り上げる製作委員会方式で開催。2004年4月、テレビ東京で約4年ぶりとなるテレビ中継番組「プロレスLOVE 〜夜のシャイニング・インパクト〜」が開始された。2005年3月以降は両国大会のみ放映。2007年4月6日、「全日本プロレス マザー」がGAORAからの映像提供による放送で千葉テレビで開始。その後、岐阜、京都、神奈川で放送されている。また、地上波以外での全国規模の中継ではGAORAが毎週1回、土曜日更新(生中継や再放映有り)で録画中継している他、FIGHTING TV サムライでも随時中継している。GAORAの中継においてはFIGHTING TV サムライの協力を取り付けている。2011年5月29日、スーパーヘイトが試合後に嘔吐・昏倒したため病院に搬送され、「急性硬膜下血腫」の診断を受けて緊急手術が行われた。5月31日、VOODOO-MURDERSのリーダーのTARUが、試合当日にビジネス上での口論からヘイトを数発殴打した事を自ら会社に申告。これに伴い、6月1日、TARUの無期限出場自粛を発表すると共にTARUがスーパーヘイトを殴打したとき控え室に居た稔、河野真幸、MAZADAの無期限出場停止処分とVOODOO-MURDERSの解散も発表された。6月7日、一連の事件の責任を取り、武藤が社長を辞任して(選手兼取締役としては留任)取締役の内田雅之が第7代社長に就任。6月19日、全日本プロレスの名物レフェリーとして知られていた和田が契約を打ち切られ退団。武藤が早急に謝罪会見を開かなかった事を批判したところ、「会社への裏切り」と見なされ武藤から退団するよう求められたという。2012年11月1日に、スピードパートナーズ(現:八丁堀投資)の社長(当時)白石伸生が全日本プロレスの株式を100%取得しオーナーになる。旧来の全日本プロ・レスリング株式会社を、過去のコンテンツ版権管理などのわずかな役割を残した上で、資本金1億円で全日本プロレスリングシステムズを設立して事業内容を引き継ぎ、新しい運営会社としてスタートを切った。白石はfacebookで問題発言を繰り返して槍玉として上げられた新日本プロレスなど外部の人間が抗議するなど反感を呼び、結果として全日本の分裂騒動に発展することとなり、新日本との関係が悪化する要因となった。その後、白石の強権執行により、2013年6月1日に新役員体制が発表され、白石が新社長に就任するとともに、武藤敬司は取締役会長を辞任。武藤本人によれば「もともとワンマッチ契約というか、契約までいかない覚書みたいので出てたから」という立場であったとのことで、会長辞任と同時に全日本を退団していたことも後に明らかになった。その後、武藤側は白石との間で全日本プロレスの株式の買い戻し等の交渉を進めていたが交渉が不調に終わったことから退団者と新団体の旗揚げを示唆。全日本の選手、スタッフを中心に全日本プロレス退団を呼びかけで船木、河野、KAI、真田聖也、中之上靖文、浜亮太、田中、カズ、近藤、大和ヒロシ、アンディ・ウー、練習生全員、そして一部のスタッフが退団を表明。一方で大森、諏訪魔、ジョー・ドーリング、征矢学、SUSHI、バーニングの5人が全日本への残留を明言したほか、ケア、レフェリーの和田が限定的ではあるが全日本へ復帰する方針を明らかにするなど、白石による新体制を支持する選手、スタッフも少なくはないが、全ての練習生とスタッフの大半が退社しており、武藤側が作り上げた体制は全日本プロレスからほぼ消滅。システムズの設立と同時に法人としての全日本プロレスは1度目の破綻。7月5日、全日本プロレスは新体制を発表してバーニングの5人を所属選手(秋山準と金丸義信は復帰)としてレフェリーの和田が名誉レフェリーという形で復帰した。白石伸生代表の下、13人(選手10人、スタッフ3人)で再出発することとなった。一方、武藤らは7月10日に新プロレス団体「WRESTLE-1」を旗揚げした。7月14日には態度を保留していたフリーの渕正信が取締役相談役に就任する形で所属に復帰。従前に比べ手薄となった選手層の補強は以後も積極的に行われており、9月1日付で、曙が入団したほか、10月には練習生4人が入寮。8月1日、スピードパートナーズ社内で全日株を保有することに反発した幹部たちに対して白石オーナーは自身のスピードパートナーズ社の全株式を売却すると決定。同日、辞任の上スピードパートナーズ社は株式会社八丁堀投資に社名変更。同社の傘下企業だった全日本プロレスリングシステムズやエステ、アパレルなど計5部門を自身の資産管理会社の株式会社レッドウォールジャパンに移して全日本プロレスリングシステムズの新しい親会社となった。9月11日付けで井上博太が代表に昇格し、白石前代表はオーナーとして後方支援を続ける。2014年5月13日八丁堀投資は経営不振により破産。全日本プロレスは実質的に2度目の破綻。2014年6月4日、秋山準が同年7月1日付で自らが社長となる新法人を設立した上で全日本の運営を全日本プロレスリングシステムズから引き継ぐ方針であることが明らかになった。所属全選手が秋山に追従する方針である他、馬場元子も秋山を支援する意向を明らかにしている。背景には2014年に入ってから所属選手へのギャラの支払いが滞り始めていたことがあるという。一方旧法人のオーナーの白石は自らのブログで、資金面の問題について「選手、フロントに甘えがあったので、支援金額を1月から固定化した」、「団体経営を理解させるための治療薬」と述べた上で、新会社設立について「様々なスポンサーが設立時に出資しやすくするため」と語り、今後は数あるスポンサーの中の一社として団体を支援していく考えを明らかにしている。2014年7月1日、全日本プロレス選手団により設立された全日本プロレス・イノベーション株式会社と同じく設立された同社の完全子会社となるオールジャパン・プロレスリング株式会社が発足してオールジャパン・プロレスリング株式会社を興行の運営会社とする形で秋山新体制をスタートさせた。全日本プロレス・イノベーションの事務所は山形県山形市のケーブルテレビ山形の社内に置かれ、通信放送やグッズ、ファンクラブ、ゲームキャラクターなどの企画、運営を行うコンテンツ会社としての役割を受け持ち、同社が10%の出資を行い、同社の吉村和文社長が会長に就任。オールジャパン・プロレスリングの事務所は7月7日に、もともと合宿所として使用していた横浜市青葉区の施設に移転するほか、諏訪魔が取締役、馬場元子が取締役相談役に就任することが発表された。しかし以後も経営は苦しい状況が続いており、2015年秋に入り、潮崎豪、曙、鈴木鼓太郎、金丸義信が相次いで退団を発表。興行数が減少していることもあり、2016年からは選手への給料を従前の固定給から試合の出場給に改める代わり、所属選手の契約形態を専属契約から「所属だが他団体への出場も自由」(いわゆる「専属フリー」)の形に変更する方針も明らかにされている。また諏訪魔が専務取締役を辞任。2016年2月、公式サイトの閲覧にパスワードを求められるようになり、会社側は不正アクセスにより、サイトを閉鎖したと発表。尚、情報漏洩はないとしている。閉鎖中は公式ファンクラブサイトを使用し、情報を発信していたが、2016年3月31日に、公式サイトはリニューアルの上再開。9月30日、BS11にて月一の情報番組「全日本プロレスイレブン」の放送開始を発表。毎月第3月曜日の11:00~11:30の時間帯で、初回放送は10月17日。馬場と三沢が中心だった時代、若手選手に一流選手との対戦で更なる実力を発揮してもらうという育成の狙いからベテラン選手を相手にした「七番勝負」シリーズが展開され、ジャンボ鶴田の「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」、2代目タイガーマスク(現:三沢光晴)の「猛虎七番勝負」等を開催した。上述2名の他、小橋、秋山らもこのシリーズを経験してスターダムを駆け上がった。このシリーズは後に三沢が主催したプロレスリング・ノアでも開催された。武藤が社長に就いてからも本間朋晃や諏訪間(現:諏訪魔)が挑戦している。宮本和志は本間をパートナーにタッグマッチで挑戦。天龍源一郎は2003年に若手選手を鍛える目的のシングル七番勝負を行った。全日本の旗揚げ当時、日本プロレスはまだ健在で参加選手が足りないこともあり、国際プロレスの協力を仰いだ。その後も1970年代末まで国際プロレスとは交流を持ち、1977年から1978年にかけては対抗戦形式のシリーズも開催された。ライバルである新日本プロレスとの交流はほとんど行われず、わずかに東京スポーツ主催の「プロレス夢のオールスター戦」があるだけだった。その後、新日本から離れた長州力らジャパンプロレスと提携して交流を持つも、ジャパンプロレス崩壊後は独立姿勢を打ち出す。その後、坂口征二が新日本の社長となったことから交流が復活し、1990年2月の新日本プロレス東京ドーム大会への選手派遣、「日米レスリングサミット」(全日本、新日本、WWF共催)などの交流があったものの、天龍源一郎らの離脱と長州の新日本復帰により、その後は途絶えた。プロレス多団体時代を迎え、団体交流が盛んになってからも、全日本では団体交流を行わず、「鎖国」と呼ばれる独立姿勢を保つ。しかし1990年代も末になるとメンバーが固定していることによるマンネリ化が著しく、ついに「門戸開放」と呼ばれる他団体交流策を打ち出す。ただし、これはあくまで「他団体の選手を全日本に招請する」方針であり、UWFインターナショナル、みちのくプロレス、FMW以外の団体については、全日本の選手が他団体に上がることはほとんど無かった。これらの団体からでも、誰もが出場できる訳ではなく、馬場がメジャー団体として使えると判断した技術力の高い選手(垣原賢人、高山善廣、新崎人生、ハヤブサ、邪道、外道)だけが出場できた。また、全日本プロレスを脱退したレスラーの復帰は、裏切り者は許さないとする馬場の方針で行われなかった。三沢が社長になってからはより積極的な団体交流を打ち出して新日本の闘魂三銃士らとの対談がマスコミに掲載されるなどしたが、フロントとの対立であまり積極的な交流には至らず、三沢らが離脱した後は、選手の穴埋めを図るために、かつて全日本に在籍した天龍や旧WARの選手、武藤敬司、蝶野正洋など新日本の選手、インディペンデントの選手が一気に参戦するようになった。武藤が社長就任直後から交流していたプロレスリングZERO-ONEとの全面戦争が勃発。橋本が奪った三冠ベルトの奪還をねらう全日勢などの熱い戦いが繰り広げられた。その後、三冠王者になった川田はシングルマッチを経験した橋本、小川直也とタッグを結成してハッスルに参戦。2004年には、ハッスルのリングで三冠ヘビー級選手権試合が行われた。グレート・ムタ、小島、カズもスポット参戦。「KAIENTAI DOJO」のTAKAみちのくも定期的に参戦。外国人軍団「RO&D」を引っ張っていた時期から、試合前に前説を行い、以後、他の選手が前説を行う形が定着している。武藤がTNAとの業務提携のため単身渡米し、お互いの選手派遣、若手選手の交換留学などを実現させている。また武藤が世界中のプロレス団体に参戦するなどして、気に入った選手に直接オファーを出したり、選手から参戦を直訴されることも多くなっている。全日本を離脱した三沢が社長として旗揚げしたプロレスリング・ノアとは、お互いの方針から交流がなく絶縁とも言われたが2004年7月、武藤と三沢のタッグマッチが行われて試合後に小島が三沢にシングルマッチでの対戦を直訴して、三沢が4年ぶりに古巣に参戦。その後10月の武藤敬司デビュー20周年記念興行では武藤と三沢がタッグを組んだ。武藤の新日本脱退、全日本の社長就任でこの両者の対戦の可能性は絶望的と考えられていたため注目された。2005年8月と10月、「WRESTLE-1 GP」が開催。全日本からムタ、諏訪間(現:諏訪魔)、ノアからは三沢、小川良成、秋山が参戦したが両団体の選手が絡むことはなかった。2006年、佐々木健介のデビュー20周年興行に全日本、ノアが協力。健介とのトークで出場した武藤と小島が、試合後に健介とタッグを結成した小橋とリング上で握手している。小島は小橋のことを今でも尊敬する人物の1人として挙げている。2008年、丸藤正道が参戦して土方隆司を破って世界ジュニアヘビー級王者になると近藤との試合では年間最高試合賞を獲得。2009年2月6日、カズとの選手権試合では興行史上初めてジュニアヘビー級の選手権試合がメインで行われた。その後、三沢が急逝。小島の呼びかけにより、小橋が古巣に参戦して対戦。その後、三沢追悼興行に武藤が参戦して田上明とタッグを結成して小橋&高山善廣組と対戦。2003年以降、新日本との交流を打ち出して2005年には新日本の提案により、全日本の三冠ヘビー級王座と新日本のIWGPヘビー級王座それぞれのベルトを賭けた、史上初のWタイトルマッチが両国国技館で行われ、小島聡が天山広吉を破り四冠統一王者になったが、5月に天山に敗れてIWGPヘビー級王座から転落。翌年には新日本プロレスG1 CLIMAX2006に、5年ぶり7度目の出場をしたが、決勝で天山に敗れて準優勝に終わった。その後、小島と天山は共闘することになり、年末の世界最強タッグ決定リーグ戦では、2003年1月4日以来の「テンコジ」を復活させて優勝を果たした。2007年1月4日、新日本の東京ドーム大会に全面協力することを発表。IWGPヘビー級王座に太陽ケアが挑戦、また三冠ヘビー級王座に新日本の永田裕志が挑戦するタイトルマッチが行われた(双方王座防衛)。また武藤&蝶野組対天山&小島組という団体の垣根を越えた新旧世代のタッグマッチがあり、試合後、およそ8年ぶりのタッグを結成して勝利した武藤と蝶野が、闘魂三銃士の同胞だった橋本真也の生前の姿がスクリーンに映されトレードマークだった白い鉢巻を掲げるセレモニーがあった。2008年1月4日、東京ドームでグレート・ムタが参戦して後藤洋央紀と対戦。4月には武藤が中邑真輔に勝利してIWGPヘビー級王者になった。7月には欠場中の小島が新日本のリングに参戦して天山を救出。テンコジを復活する形になり、そのままG1に参戦を表明。8月31日、全日本の興行で初めてIWGPヘビー級選手権試合を開催。王者である武藤がG1 CLIMAX優勝者の後藤洋央紀に勝利して防衛に成功。小島と天山はその後、新日本のG1タッグリーグ戦、全日本の世界最強タッグリーグ戦でダブル優勝を果たした。10月に行われた蝶野のデビュー25周年記念試合で蝶野&武藤&小橋組対中西&小島&秋山組のメジャー3団体による豪華な6人タッグマッチが実現。2008年頃からは、女子プロレスラーの参戦も主に地方巡業で見られるようになっている。一方で同じく横浜に道場を置いていたNEO女子プロレスに小島が参戦。2008年以降、新日本、全日本、ノアの3団体でプロレスラーの共通ライセンスを発行する構想も浮上するなど良好な関係を築いていたが(詳細はプロレスラー#共通ライセンス構想を参照)、2010年6月に全日本が一方的に同構想から離脱したことに新日本とノアが反発して全日本は「ライセンス構想と選手の交流は別の話」、「鎖国しているわけではないので来る者は拒まず」との姿勢を打ち出しているものの以後、新日本とノアは態度を硬化させ、特にノアとの交流は一時完全に途絶えた。一方で関西を地盤とする準メジャー団体のDRAGON GATEとは2011年に、共通の放送局であるGAORAの開局記念番組として「スーパーファイト2011」を開くに至った。2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生したため、「被災者へのチャリティー目的などでメジャー団体が一致団結する必要がある」との認識から、新日本、ノアとの関係が改善。4月のチャンピオン・カーニバルに新日本から永田裕志、ノアから秋山が参戦することが決定するなど、両団体との交流が復活した。10月23日、両国国技館で三冠ヘビー級王座はノアの秋山、世界タッグ王座はAAAのダーク・オズ&ダーク・クエルボ、世界ジュニアヘビー級王座はDDTプロレスリングのケニー・オメガ、アジアタッグ王座は大日本プロレスの関本大介&岡林裕二へ、史上初めて4つのタイトル全てが同日に他団体へ流出。2012年7月1日、ともに立ち上げ40周年を迎える新日本プロレスとの合同興行サマーナイトフィーバー in 両国 WE ARE PRO-WRESTLING LOVE!を両国国技館で開催した。前述の通り白石伸生が自身のfacebookを通じて他団体に対して挑発的な態度を取り続けた結果、新日本プロレス会長の木谷高明、武藤らが猛反発をして木谷は東京スポーツのインタビューで全日本との絶縁を宣言。一連の騒動が後に分裂騒動に発展。またノアと決別する形で退団したバーニングの5人が全日本に所属したため、ノアとの関係も微妙なものとなり、交流は行われていない。他にプロレスリングZERO1、大日本なども白石の「鎖国」発言を機に交流相手をWRESTLE-1に鞍替えした。新体制移行後に交流している団体はDDT、DRAGON GATE、KAIENTAI DOJO、プロレスリングFREEDOMS、IGFなどが挙げられる。その一方でフリー選手などが参戦して選手層を埋めている。秋山体制に移行してからは曙が再びZERO1に参戦するようになったが新日本、ノアとの交流は再開しておらず、分裂時のいきさつからWRESTLE-1との交流も行われていない。白石のfacebookは後に閉鎖されてブログへ移行。ブログへ移行後も新日本、ノア、WRESTLE-1、IGFへの挑発的な態度を繰り返していたが、白石のブログ自体は2015年5月以降更新が途絶えている。2014年末、ユニオンプロレスから福田洋が半年間のレンタル移籍することになっていたが福田の怪我により一旦白紙に戻った。2015年、諏訪魔がIGFの藤田和之との対戦を熱望。IGFの大阪大会に諏訪魔単身で乗り込みアピールしたが、当のIGF側からは交流をはぐらかされた。また、大日本に関しては新日本やノアと同じく交流が途絶えていたが、2015年12月20日の大日本の興行に諏訪魔の出場が決定して交流を再開。2015年12月1日、名古屋ダイアモンドホールで開催した世界最強タッグ決定リーグ戦のリング上で世界初の箏曲演奏(野村祐子)。2016年、大日本とは再び交流を行っており全日本には関本、岡林、橋本和樹が参戦して大日本側には諏訪魔を筆頭に数名が参戦中。さらには、両団体の若手主体興行を月1回、交互に開催している(全日本側の興行タイトルは「AJ PHOENIX」、大日本側は「D-RIZE」)。また自主興行の減少をカバーするため、過去のトラブルから交流が途絶えている新日本、ノア、WRESTLE-1を除く団体との交流が積極的に行われている。2016年5月4日のWRESTLE-1後楽園ホール大会で武藤から闘いたい相手として秋山が指名され来場して8月11日のWRESTLE-1横浜文化体育館大会で武藤とのタッグ対決が決定。これで新日本、ノア以外のおおよその団体との交流が復活する事になった。2016年から参戦した選手のみ列記。

出典:wikipedia

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