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島田信廣

島田 信廣(しまだ のぶひろ、1950年1月28日 - 2007年10月18日)は、日本の元オートレース選手。長野県出身。11期、元船橋オートレース場所属。2002年10月16日の船橋オートレース場で開催されたGIオート発祥53周年船橋オート祭第10レースをもって引退した。弟子は船橋所属の仲口武志(24期)。島田信廣は「鉄人」と謳われ、1990年代に輝かしい戦績を残した名選手である。かつては社会人として普通に働いていたが、1973年にオートレース選手としてデビューした。配属となった船橋オートレース場は当時、島田と同い年でありながら先にデビューを果たしていた「ミスター・オート」飯塚将光の独擅場が長らく続いていた。このスーパースターの影に隠れ、島田がトップに君臨するには長い時間を要した。しかし、主力の1級2気筒車がトライアンフからフジへ変わっていった頃、フジに乗り換えた島田は一気に全国区に登り詰めることとなる。初めてSGを制覇したのは、1990年のスーパースター王座決定戦だった。その時既に39歳で、中堅からベテランへと移っていく年齢であった。しかしその後、島田は前人未到の同一SG5連覇を果たしたのである。飯塚将光が樹立した日本選手権オートレースV6という記録は連覇ではなく、第9、10、15、18、19、21回と間を置いての記録であり、島田が打ち立てたこの記録は未だに破られていない。他にも、全日本選抜オートレース6回、日本選手権オートレース2回、オールスターオートレースを1回優勝した。1994年に優勝したオールスターオートレースでは、1着入線の田代祐一が審議対象となって20分にも及ぶ審議の結果失格となり、繰り上がって島田が優勝した大会だったが、この優勝によって、初のSGグランドスラム(当時4SG)を達成した。整備の鬼としても有名であったが、トライアンフ全盛期の頃は「自分の整備が疎かだった」と述懐している。また、トライアンフやメグロ二気筒の頃は意外にも雨走路を苦手としていた。ところが、1987年の第1回スーパースター王座決定戦がきっかけで島田は猛烈な成長を遂げることとなる。
当時のスーパースター王座決定戦は最終日の一発勝負だったため、王座決定戦出場選手は4日間練習走行のみを行うこととなっていた。その4日間は連日晴れで、島田はかなりの好調を誇っていた。
しかし、最終日はなんと雨。それも、試走が終わるか終わらないかというところで降り出したのだ。当時まだ雨が巧くなかった島田は、晴タイヤを着けていたこともあって惨敗。優勝したのは飯塚の桝崎正で、ただ一人雨タイヤを履いて出走していた。
この敗北に島田は「4日間一体何をやってたんだ!」と大いに嘆いた。そして、奮起した島田は同期で親友でもある釜本憲司(川口オートレース場所属)に雨での走り方を習ったのである。これがきっかけとなり、島田は晴雨関係なく強い選手へと進化を遂げたのだ。
また、多くのベテラン選手がセアの移行に際して苦しむ中、島田はいとも簡単にセアに順応した乗り方になっていた。無論実際はそんなに簡単な話ではなく、セア移行直後の第25回日本選手権に照準を合わせてフォームの改良を行い、相当な練習を行っていたのである。多くのベテランレーサーがセアへの乗り換えで苦戦を強いられた中、セアに乗り換わってからも変わらぬ強さを維持し続けた島田は稀有な選手であると言えた。そして、こうした弛まぬ努力は、島田を若手選手達にとっての巨大な障壁へと進化させていったのである。選手生活自体は29年間と平均的な選手よりもやや短いくらいだったが、全盛期と言うべき時期が40歳代直前から10数年に亘るという、オートレース界のみならず、公営競技界全体としても非常に珍しい遅咲きの選手であった。そこから「鉄人」という異名で呼ばれることとなった。島田は90年代の選手の中では最もファンサービスに力を注いだ選手でもあった。「選手はファンを大切にしろ」と後輩選手に常日頃から説いていた島田の、ファンサービスに関する功績としては、ウイニング・ランを定着させたことが挙げられる。
当時、ウイニング・ランは記念・特別クラスの開催で稀に行われる程度だった。行われたとしても、選手がヘルメットを脱がずに行うこともままあったのだが、島田は積極的にウイニング・ランを行っていた。インタビューなどでも島田のファンサービス精神は旺盛であった。寡黙な選手が多い中、笑顔を絶やさず、リップサービスも忘れなかった。特に、1999年に川口で開催された第31回日本選手権の優出選手公開インタビューでは、大外の8枠に置かれたことに関して、「明日は大外なんで、広木君にスタートを教わっていきます!」と発言した。※ちなみに広木幸生はスタートを苦手としていた。島田はベテランの域に入ってからSGを奪取し続けた。その戦績は、スーパースター王座決定戦5連覇、全日本選抜6度の優勝と、冬場に滅法強く「冬将軍」と呼ばれた。寒い季節のエンジン調整と冷えた走路に合わせたコース取りは、島田の最も得意とするところであった。1999年2月、齢50に間もなく手が届くという歳を迎えた島田は第12回全日本選抜(浜松)に参戦する。新進気鋭の23期、24期が猛威を振るうなか、得意の冬走路で見事優出を果たした。
優勝戦はその若手たちを前に置き、10mハンデの内に片平巧、外に島田信廣という布陣となった。超ベテランながらも最重ハンデ大外の位置に着いた島田は、スタートで片平巧に先んじると好調な若手勢を難なく捌き、僅か3周目で首位に立つ。そして、猛追を見せた片平巧との一騎討ちとなるも2車身差を保ち影を踏ませず、貫禄の優勝を飾った。
その時点で12回目を迎えていた全日本選抜のうち6回を制覇するという偉業を果たすと共に、49歳1ヶ月でのSG制覇という、史上最年長記録を更新した。しかし、島田は思いもよらぬ形で晩節を汚すこととなる。2001年から2002年にかけて、島田は選手会船橋支部内でのトラブルが原因で暫く現場から遠のくこととなった。その理由は今もって明らかにはされていない。その結果、様々な憶測が飛び交う要因ともなった。復帰後、島田は「持病の腰痛が悪化してしばらくレースから遠ざかった」と語ったが、それが偽りであることは誰の目にも明らかであった。復帰はしたものの、その走りは目に見えて衰えを感じさせるほどに精彩を欠き、やがて引退を決意するに至った。引退レースとなった2002年10月16日のGIオート発祥53周年船橋オート祭(船橋オートレース場)最終日、優勝戦進出を果たせなかった島田は一つ前の特別選抜戦に出走し、浦田信輔に大差をつけられての2着に終わった。そして第10レースと第11レースの合間に、ウイニング・ランとはならなかったものの、場内をゆっくり2周し、集まったファンに笑顔で応え、オートレースから去った。オートレース界は、長引く売上不振を打開すべく「構造改革」を断行した。これにより、島田信廣が引退した翌年度から賞金総額が2割削減されるに至った。更に内部改革を実施し、新ランキング制度、レース総数の削減と場外発売展開、オートレースは新たな時代へと確実に変化していった。21世紀に入ってからはレース形態にも大きな変化が生じた。後続車が先行者を序々に抜いていくというオートレース特有のレース模様が、スタート力が重視されるスピードレースへと変貌していったのだ。
島田が栄華を極めた時代から、新たな時代への移り変わりであった。そして、この変化の波にのまれるかのように、期前から10期以下のベテランレーサーが多くが黒潮を去っていった。特に2003年には船橋所属のベテランレーサーがほぼ一斉に大量に引退するという事態まで起きている。島田は引退時に「何も思い残すことはないけど、業界のこれからがちょっと心配だね。」というメッセージを残した。

出典:wikipedia

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