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両シチリア王国

両シチリア王国(りょうシチリアおうこく、イタリア語:Regno delle Due Sicilie)は、19世紀の南イタリアに存在した王国。ナポレオン戦争後、長らくブルボン家の同君連合下にあったシチリア王国とナポリ王国が合併して成立した。領土は現在のイタリア共和国のラツィオ州の一部、およびカンパニア州、カラブリア州、プッリャ州、アブルッツォ州、モリーゼ州、バジリカータ州、シチリア州に及んだ。「両シチリア」(2つのシチリア)とは、シチリア王国とナポリ王国の2つの国を指す。中世に成立したノルマン・シチリア王国(オートヴィル朝)は両シチリア王国とほぼ同じ範囲を領土としていたが、後の時代にシチリア島とイタリア半島南部の領土とが分裂した。この2つの王国は共に「シチリア王国」を公称したが、イタリア半島側の王国は「ナポリ王国」と呼ばれるようになった。なお、両シチリア王国の呼称は、ノルマン・シチリア王国の時代や、分裂後のシチリア王国とナポリ王国が同一王権下にあった時代などにも用いられる。スペイン王フェリペ5世の息子の一人であるパルマ公カルロ・ディ・ボルボーネは、ポーランド継承戦争に際してオーストリア・ハプスブルク家の支配下にあったナポリ王国とシチリア王国を占領し、1734年に両国の王となった(パルマ公国はハプスブルク家に渡った)。以後、2つの王国は同君連合の下に外国の支配を脱し、スペイン・ブルボン家(ボルボン家)の分家によって統治されることになった。この時カルロはすでに「両シチリア王」を称しており、これをもって両シチリア王国の成立とする見方もある。カルロは1759年にスペイン王カルロス3世となったが、その際に次男カルロス(後のカルロス4世)をアストゥリアス公(スペイン王位継承者)とし、三男フェルナンド(フェルディナンド)にナポリとシチリアの王位を譲った。1799年1月23日、フランス革命軍がナポリに侵入し、パルテノペア共和国を成立させた。ナポリ王フェルディナンド4世=シチリア王フェルディナンド3世はシチリアに退避したが、同年6月19日にルッフォ枢機卿がフランス軍を叩き、ブルボン朝を復興してパルテノペア共和国は滅亡した。1805年、フランス軍は再びナポリを占領し、フェルディナンド4世はパレルモにまた避難した。1806年3月30日、ナポレオン・ボナパルトは兄ジョゼフ(ジュゼッペ)をナポリ王とした。1808年7月15日には代わってナポレオンの妹婿ジョアシャン・ミュラがナポリ王となり、ジョゼフは新たにスペイン王となった。ミュラはこの時「両シチリア王」の称号を公式に用いたが、実際にはシチリアはフェルディナンドが押さえていた。ミュラは1815年5月20日にナポリを見捨て、5月23日にフェルディナンドの息子レオポルドがシチリアからナポリに帰還し、6月17日にはフェルディナンドも戻った。1816年12月8日、フェルディナンドはナポリとシチリアの2つの王国を両シチリア王国の名の下に合併させた。それとともに「ナポリ王フェルディナンド4世」「シチリア王フェルディナンド3世」の併称を改め、「両シチリア王フェルディナンド1世」と称した。フェルディナンド1世の在位は1816年から1825年まで続き、カンパニア、カラブリア、プッリャ、アブルッツォ、モリーゼ、バジリカータ、シチリアを支配した。両シチリア王国は1860年、リソルジメント最終局面でガリバルディ率いる軍勢の侵攻を受け、フェルディナンド1世の曾孫フランチェスコ2世が廃位されるまで続いた。ガリバルディは占領地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、翌1861年にイタリア王国が成立した。

出典:wikipedia

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