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小林信彦

小林 信彦(こばやし のぶひこ、1932年12月12日 - )は、日本の小説家、評論家、コラムニストである。中原弓彦(なかはら ゆみひこ)の筆名も用いた。筆名を作ったのは、小林が正業につかないのを親戚が嫌っていたからであるという。「日本のことを勘違いして論じるアメリカ人」という設定のウィリアム・C・フラナガン名義の作品もある。また1958年、失業中に書いた「消えた動機」という推理短篇が江戸川乱歩時代の『宝石』誌1959年2月号に掲載され、のち三木洋(処女長篇『虚栄の市』の登場人物の一人と同名)という変名のもとにテレビ化および映画化(山田洋次監督『九ちゃんのでっかい夢』)されたことがある。その他の筆名に有馬晴夫、類十兵衛、スコット貝谷など。早稲田大学第一文学部英文学科卒業。血液型B型。風間賢二は小林をさして「我が国における元祖おたく作家」と評した。東京市日本橋区米沢町2-5(のちの東京市日本橋区両国18-5、現在の東京都中央区東日本橋2-18-5)に生まれる。江戸時代から9代続いた老舗和菓子屋「立花屋」の長男であった。代々婿養子が跡を継ぐ家風であったが、やり手であった祖父は自分の息子に跡を継がせようと考えていた。だが、その「長男」(小林の父)は自動車の運転・修理が趣味であるようなモダンな趣味人であり、商人としては無能で後に小林の一家が没落する原因となった。小林はこの父親に歌舞伎や寄席などに連れていかれ、「芸人のうまい下手を、くどくどと説明するのは野暮」と教わった。両国は商人町であり、小林は「このような町が本来の江戸以来の下町である」と作家となった後に繰り返し主張、浅草や柴又を「下町」と呼ぶ安易な「下町ブーム」に嫌悪を感じ、自分の生地について何度もエッセイや小説に描写している。落語に淫して育つ。下町の商人家庭には、小林の世代のインテリ少年の大半が愛読した『少年倶楽部』などはなく、読書も落語の速記本が主であった。母方の祖父は山形県村山市出身で、沖電気の創業時のメンバー、沖牙太郎の右腕といわれた高宮信三。同社を退社後独立して、港区青山に高宮歯科工業という会社を設立した。信彦は子供の頃から山の手の祖父宅へ遊びに行って、この母方の祖父から自身の精神成長に大きな影響を受けたという。信彦の信は信三の信から付けられている。慶應義塾幼稚舎を受験したが失敗し、日本橋区立千代田小学校(のち国民学校と改称)に入学。小学1年生の時の志望職業は第1が「上野動物園園長」、第2が落語家だった。幼少時から浅草で映画や軽演劇、ショウを見る。なかでも古川ロッパの喜劇に熱狂し、自宅でロッパの声真似をしていた。また、人形町では末広亭で落語を聞き、明治座で新派や新国劇を見ていた。学校の「お話の時間」に、同級生の前で落語を演じる。小学3年生の時に戦争が始まる。『無法松の一生』と『姿三四郎』を封切時に見る。1944年8月、千代田国民学校在学中に埼玉県入間郡名栗村(現在の飯能市)へ集団疎開。疎開先で疎開者同士での陰湿ないじめに遭い、この時の悲惨な体験は後に純文学長篇『冬の神話』となって実を結んだ。小説『東京少年』(2005年)も再度この時の体験を扱っている。この時の体験が、のちの「他人を容易に信じられない。執念深く、恨みがましい」性格を生んだと思われる。戦争末期に、担任教師から将来の希望を問われ「小説家になりたいであります」と答えた。1945年3月10日の東京大空襲で生家が焼失。かつて父が病気で中退した、文京区大塚の東京高等師範学校附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に無試験入学するが、空襲で校舎が焼失していたため、再疎開先の新潟県高田市(現・上越市)の県立高田中学校(のち新制の新潟県立高田高等学校)に学んだ。在住先は新井市(現・妙高市)。1946年12月、東京に戻って青山の母方の実家に住み、東京高師附属中学に復学。このころ下町と山の手の文化的なギャップに開眼。中学では美術研究会に所属し、一学年上にのちの美術評論家の高階秀爾がいた。中学時代、神田の冨山房でシムノンと徳川夢声の著書を万引きしようとして店員に捕らえられ袋叩きにされたことがある。1948年、東京高等師範学校附属高等学校(1949年に東京教育大学附属高等学校と改称、現・筑波大附属高校)に進む。同期には、嘉納行光(元全日本柔道連盟会長)、藤井裕久(元財務大臣)、鈴木淑夫(元日本銀行理事)、徳山明(元富士常葉大学学長)、中江陽三(元NHKアナウンサー)、吉田庄一郎(元ニコン会長)などがいた。高校では、友人たちと4人で映画研究会を設立(メンバーのうち、銀行員になった荻昌孝以外の2名は東宝のプロデューサーとなり、のちにクレージー映画で小林と共に仕事をした)。高校の文化祭「桐陰祭」では、アメリカ人劇作家"H・B・ガーガン"なる人物の作品と称して(実は架空の人間)自作の西部劇を上演したことがある。また、戦後再上映されたマルクス兄弟の映画を見て、そのアナーキーなギャグに衝撃を受ける。1949年を「自分の人生で一番面白かった年」と後に語るが、1950年の朝鮮戦争の開戦により核戦争の恐怖にとらわれる。この時代のことは小説『世間知らず』に描かれている。なお高校の1年後輩には、『ニッポン無責任時代』などの脚本家となる田波靖男がいた。同じ1950年、神保町のゾッキ本屋でさまざまな本を買う。『太宰治全集』で「人生の進路を決定」され、ヘンリー・フィールディングの『ジョゼフ・アンドルーズ道中記』で「英文科に進学する」こととなり、安藤鶴夫『落語鑑賞』で桂文楽独特の語り口を活字化する技術に衝撃を受けた。1951年、早稲田大学と慶應義塾大学のそれぞれ文学部を受験して合格。東京大学を受けるのが当たり前とされる高校にあって、文系科目の成績は全校で一桁の実力だったので東大受験を勧められたが、理系科目が苦手だったため東大を受験しなかった。実家が没落して経済的に貧しかった引け目から早稲田に入学。面接試験では英文科志望の理由を問われて「物語性に惹かれたからです」と答え、教授から苦笑された。山本山でアルバイトしながら学業を続け、大学図書館では戦前の『キネマ旬報』を渉猟した。早稲田大学第一文学部英文学科の同級生に作家の生島治郎と映画評論家の河野基比古がいる。1952年に父親が死去。翌1953年に店を売って、四谷に引越し、下町とは縁が切れた。1955年、大学卒業直前に埴谷雄高編集の文芸雑誌『近代文学』1955年3月号(近代文学社)に有馬晴夫名義で短篇「白い歯車」を発表。母校早大を舞台に学生運動を扱った、後年の短篇「ある晴れた午後に」の原型とも言える作品である。3月に早稲田大学第一文学部英文学科を卒業。卒論ではサッカレーと悪漢小説(ピカレスク)の関係を扱った。いざとなれば英語教師で食べて行けると考えて英文科に入学したにもかかわらず、教職課程の単位の一つを「意図的に」取り損ねたため、公立校の教員になることができなかった。唯一採用の口があった私立高校は校内暴力の評判があったため、就職を辞退。マスコミ関係への就職を望み、讀賣新聞社や光文社、さらにスポーツ新聞社や映画会社の入社試験を受けたが、空前の就職難時代だったのでことごとく失敗。三省堂に英語辞書の校正係として採用される話はほぼ決まりかけたが、直前で不採用になった。飯島小平教授に研究者への道を勧められ、小林自身も早稲田大学に残ってヘンリー・フィールディングを研究する希望を持っていたが、大学時代に父を結核で亡くしていたうえ、日本橋の実家の土地を騙し取られていたことによる生活苦もあり、不本意ながらセールスマンとして叔父経営の塗料会社に就職、鬱屈した日々を送る。気晴らしに推理小説、昭和初期の大衆文学を読む。1956年6月、横浜市中区矢口台に転居し、日英混血の親類が米兵相手に営んでいた貸家会社・有限会社レオポルド&サンに勤務。エルビス・プレスリーを聞き、衝撃を受ける。このころの体験は、後年の純文学長篇『汚れた土地』に反映されている。同じころ、400枚のユーモア本格ミステリを江戸川乱歩賞に応募して落選。駐留軍の縮小という時代の流れの中で会社が経営不振に陥り、不渡り手形を出したうえ、社内の派閥抗争に巻き込まれて社長から暴行を受け、1958年7月に失職。失業保険を受給しつつ職安に通う毎日を送る。一度は浜松の航空自衛隊の英語教師の口を紹介されたこともあるが、再軍備反対論者として辞退。1958年9月「大学院を受験する」と身分を偽って池袋の学生下宿に潜り込み、ここに逼塞して江戸川乱歩が社主の推理小説雑誌『宝石』に「雑誌の改善案」を投稿する。先の見通しが立たず、しばしば自殺を考えた。1958年秋、失業保険が切れる直前に、投稿していた「雑誌改善案」で実力が見込まれ宝石社の顧問として採用された。月俸は当時としても格安の5000円。1959年1月、6月創刊予定だったミステリ雑誌『ヒッチコックマガジン』の編集長に、江戸川乱歩の後押しで抜擢された。これは、宝石社の顧問だった田中潤司、宇野利泰、長谷川修二たちが就任を拒んだために小林のもとに回ってきた仕事で、「3号まで赤字ならクビ」という条件で始まったが、実際には13冊目でやっと黒字に転じたものである。このときの月俸は、当時の一般会社員の初任給に満たない1万円(金額は「地獄の読書録」巻末の田中潤司との対談内での発言による)。当時、宝石社には戦前の『新青年』のバックナンバーが全冊揃っていたため、この雑誌を耽読して大きな影響を受けた。同誌の編集長としては、最初期の星新一や筒井康隆の活動をサポートした功績も大きい。また海外のショート・ショートを積極的に紹介、また純文学畑の作家である山川方夫らに、ショート・ショートを依頼するなどし、そのスタイルを日本に根づかせた。一方で『ヒッチコックマガジン』は、大藪春彦の協力を仰いだ増刊号『ガン特集』が好評を得るなど小林の趣味とは違う方向に進み、「若者のライフスタイル・マガジン」の様相を帯びた。その「洗練されたライフスタイル・マガジン」としての面は、後に木滑良久らが、平凡出版(のちのマガジンハウス)で『平凡パンチ』、『an・an』、『POPEYE』等の雑誌を創刊するにあたって大きな影響を与えた。なお、1962年に太平洋をヨットで単独横断した堀江謙一は、ヨットの上で航空雑誌と『ヒッチコックマガジン』を読んでいたという。薄給を補う目的と雑誌の宣伝を兼ねてテレビやラジオにたびたび出演したところ人気を得て、マルチタレントの走りとして当時のマスコミの寵児となった。1962年3月には、青島幸男・永六輔・前田武彦の3人とともに「多角経営派」の名のもと、『サンデー毎日』から記事にされたことがある(「俺たちゃ"職業不定族"」)。1963年1月、萩原津年武、大坪直行ら折り合いが悪かった者たちの策謀で宝石社を解雇された(表向きは自主退職。なお、当時、早川書房の編集者だった常盤新平は小林の解雇に同情する様子をみせながら、裏で『ヒッチコックマガジン』の次代編集長への打診を受けていたとされ、小林の恨みを買うことになる)。この時の苦い体験は〈信じていた者に裏切られる〉テーマとして、以後たびたび小林作品のモチーフとなった。「疎開経験」「実家の土地を騙し取られた体験」に加えて、この際の体験が「容易に他人を信用しない」性格にさらに拍車をかけたと思われる。ただし、大坪直行は後年「僕も悪者にされちゃっているけど、本人に相談もしないで辞めさせるのは僕は反対だった。中原さんは才人でしたよ。教わることも多かった」と回想している。『ヒッチコックマガジン』時代の体験は、小説『虚栄の市』『夢の砦』に描かれている。ただし、『夢の砦』では時代を1959年から1962年にかえ、主人公から「作家的要素」を取り除いている。また、『夢の砦』は夏目漱石の『坊っちゃん』の1960年代版だとも語っている。フリーになった後は、映画、ミステリ、テレビなどの評論の執筆や『九ちゃん!』『植木等ショー』などテレビバラエティ番組の構成作家業のかたわら純文学を発表するようになり、1964年に中原弓彦名義で処女長篇『虚栄の市』を河出書房から刊行(なお、前年の1963年に校倉書房から初の著書である喜劇映画論『喜劇の王様たち』を刊行しているが、刊行本の半分を取次が受け取らない事態になり、また出版社からの印税も出ず「代わりに本で」と言われ途方に暮れていた)。『虚栄の市』は好評ではあったが、「コミック・ノベル」自体が当時の日本の文壇には受け入れられず、十分な理解を得られなかった。そのため小林は「私小説的な、個人的体験を書けばよいのか」と考え、学童集団疎開時の陰惨な体験を描いた第二作『冬の神話』を1966年11月に上梓。だが今度は「あまりに暗すぎる」と言われ、不評であった。なおこの作品から本名(小林信彦)で発表するようになった。のちに『地獄の読書録』にまとめられるような、膨大な書評をこなしたが、SFでは小松左京や筒井康隆の才能を、逸早く発見。また、アリステア・マクリーンやギャビン・ライアルが冒険小説の第一人者になることを予言した。また、山田風太郎の忍法帖も繰りかえし高評価した。1969年10月以降はテレビの仕事が途絶えたため、小説の執筆に専念。その後『オヨヨ』シリーズや『唐獅子』シリーズなどのパロディ性に富んだエンターテインメント作品、『神野推理』シリーズや『紳士同盟』シリーズなどのミステリ系の作品等を執筆。並行して長編『夢の砦』、連作短編『家族漂流 東京・横浜二都物語』としてまとめられた自伝的要素の強い純文学作品を発表。たびたび直木賞・芥川賞候補にノミネートされた。しかし放送作家としてのキャリアが災いして、選考委員たちから「新人の資格がない」「テレビの世界で金を稼いでいるのは不純」との反対を受けて受賞を逸した。その事情は文壇諷刺的作品『悪魔の下回り』に反映されている。自らの文学観が日本の文学界とあまりに違うことに業を煮やし、夏目漱石にはじまりジョセフ・ヘラー、フレドリック・ブラウンなど「笑いの文学」を中心に論じた、文学論『小説世界のロビンソン』を1989年に刊行した。『吾輩は猫である』は、落語の知識がないとギャグが楽しめないことを指摘。また文芸評論家の常套句「人間が描けていない」に対抗し、「フラット・キャラクター」という、ディケンズの小説に登場するような「典型的なキャラクター」の有効性も提示した。連作エッセイ集『パパは神様じゃない』『つむじまがりの世界地図』や「W・C・フラナガンによるエッセイ」等は、浅倉久志によって「ユーモア・スケッチ」と名づけられた、かつてアメリカで人気を博した「生真面目な文体で、馬鹿馬鹿しいことを記す」内容で、日本人作家には他に追随例がほとんどないユニークなものである。1970年代、晶文社から「バラエティ・ブック」と称するコラム集を何冊も刊行。これは、当時のサブカルチャー愛好者に大きな影響を与え、のちに小西康陽『これは恋ではない』(幻冬舎、編集者:高畑圭)、安田謙一『ピントがボケる音』(国書刊行会、編集者:樽本周馬)など、その様式を真似た「リスペクト本」を生んだ。1986年、「戦前の下町アメリカニズム」と「戦争を楽しんでしまう日本人」を描いた、自伝的かつ〈笑いの文学〉の集大成的作品『ぼくたちの好きな戦争』で「小説家・小林信彦・第一期終了」を宣言。以降の小説では、〈笑いの文学〉を封印し、現在・過去の時代風俗を丹念に描いた作品(業界小説や、タイムトラベル物、自伝的な作品)や谷崎潤一郎を意識したフェティシズム的な作品、パトリシア・ハイスミスの影響を受けた「異常者が日常に入り込んでくる」小説などを発表。だが「小説家・第二期」は、最初の2作(『極東セレナーデ』『世間知らず』)は好評であったが、以降の作品は第一期の作品と比べて特筆して優れているとは言い難いとの批判もある(ただし、小林自身も『マニアックな読者ばかりいて「カルト作家」とよばれるのは、決してありがたいことではない。読者は同じような作品を求めるが、自分の作家的必然性から、作風を変えざるを得ない。失望して離れていく読者も出るだろう』と語っている)。特に1993年の『怪物がめざめる夜』は、主人公である悪役の設定が凡庸であるとの批判があった。また、塩山芳明のように小林のコラムを高く評価しつつ小説は一切認めないとする者もいる。一方、『世界の喜劇人』や『日本の喜劇人』などで初めて喜劇を本格的な評論の対象に採りあげた。『世界の喜劇人』の原型となった「喜劇映画の衰退」は、1961年に『映画評論』誌に掲載され、イデオロギー批評が全盛の当時に突如出現した異色の評論として多くの人々に衝撃を与えた。その後も『天才伝説 横山やすし』、『おかしな男 渥美清』、『植木等と藤山寛美』など喜劇役者の評伝を執筆し、高く評価されている。これらの評論は、小林のポリシーとして間接的な資料類に頼らず、「できる限り、自分自身が体験したり、自分の目で見聞きしたものから」論じられている。個人的体験から普遍性を導くという稀有な傑作となっている。また、背広を着た立川談志のピンでのトークや漫談時代の明石家さんまのトークが「アメリカのスタンダップ・コミック芸」にあたることや、『ビートたけしのオールナイトニッポン』での村田英雄をからかう企画が「キャンプ・ユーモア」であることを指摘するなど、「笑いの本場」であるアメリカの芸能との比較も行っている。映画評論についても、双葉十三郎に私淑して『映画評論』誌を中心に1960年代から盛んに行い、マルクス兄弟再評価や「日活無国籍アクション映画」を同時代から既に評価。映画作家としてのクリント・イーストウッドを一貫して支持している。映画評論が本業ではないが、豊富な鑑賞経験から「確かな映画見巧者」として多数の映画ファンの信頼を得ている。1960年代を「テレビの黄金時代」と呼び、それ以降はテレビ番組はほとんど見なくなったが、1980年代の深夜番組『オールナイトフジ』をいち早く評価するなど、アンテナは鋭く張っている。『オールナイトフジ』については、蓮實重彦編集の映画研究雑誌『リュミエール』創刊号で、「アイドル伊代ちゃんの暴力性」という松本伊代を称える文章を書いている。また『私説東京繁昌記』、『私説東京放浪記』などの東京を題材としたエッセイも、小林の個人的体験をもとに東京の歴史的な地層を解き明かす内容で、小林の東京に対する強いこだわりが感じられる。なかでも、小林がこだわっていた生地「西両国」については、『和菓子屋の息子』(1996年)『日本橋バビロン』(2007年)において、当時の地図を再現までして詳しく描写した。なお、小林は1964年東京オリンピック前の東京の無計画な開発については歴史的な愚行として再三激しい怒りと批判を表明しており、オリンピック開催中は東京の喧騒を嫌がり関西に滞在していた。1991年から1992年にかけて松村雄策とビートルズ論争を行った。以前は「権威的な朝日・岩波文化に対する過激な批判者」であった小林だが、1980年代以降にはマスコミなどで幼稚な笑いや基本的な知識が不足した評論類などが氾濫したため、「皮肉にも、私が伝統的なことを教えなければならない『文化的には保守的』な立場になってしまった。私の姿勢自体は一貫しているのだが、『世の中』が変わってしまった」と嘆くようになった。また、かつては政治的発言をあまりしないタイプの作家だったが、近年の連載エッセイでは、原発や自民党への激しい批判が繰り返されている。美空ひばりの死去の直後には、非常に批判色の濃い文章を発表。以前から抱いていた、著名人死去の際に賛辞一色で埋め尽くされるマスコミの軽躁への苦々しい思いによるものであるが、日本的慣習に反する行為でもあり話題を呼んだ。小林は元々ひばり批判派の急先鋒であった服部良一の仕事を高く評価する立場でもあり、歌手としての資質は認めつつもその業績には批判的であった。

出典:wikipedia

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