青山 二郎(あおやま じろう、明治34年(1901年)6月1日 - 昭和54年(1979年)3月27日)は日本の装丁家・美術評論家。骨董収集鑑定でも著名であった。明治34年(1901年)東京市麻布区新広尾町1丁目(現東京都港区)の資産家の家に生まれた。幼い頃から絵画や映画に興味を持ち、自らも画才を発揮した。中学生の頃から焼き物・骨董品蒐集にも興味を持ち、昭和2年(1927年)26歳の若さで実業家・横河民輔の蒐集した中国陶磁器2000点の図録作成を委託されるなど、その鑑識眼は天才的と評された。昭和5年(1930年)舞踊家の武原はんと結婚し、麻布一の橋に所帯を構え、作家の永井龍男が隣りに越してきたのを皮切りに、小林秀雄、中原中也、河上徹太郎、三好達治、大岡昇平ら文学仲間が出入りするようになり、青山を中心とする集いは「青山学院」と称された。その他にも北大路魯山人、宇野千代、白洲正子、加藤唐九郎など多彩な面々と交流し、その高等遊民的な生き方は多くの作家によって語られている。東京市麻布区新広尾町(現東京都港区)に青山八郎右衛門・きん夫妻の次男として生まれた。明治42年(1909年)4月飯倉小学校に入学。小学校時代、水府流(古式水泳)の泳ぎを習得、毎夏、三浦三崎にて過す。麻布中学在学中から絵画や陶器に親しみ、中国・朝鮮や日本の焼き物を探求した。大正8年(1919年)4月日本大学法学科に入学。しかし大学へは通わず、東京帝大で開かれた奥田誠一主宰の「陶磁器研究会」に通う。若き日に柳宗悦や浜田庄司たちの民藝運動に参加するも、やがて柳たちが提唱する民藝理論に矛盾を感じ離れていった。大正13年(1924年)以降、柳の甥の石丸重治と雑誌『山繭』に関わり、そこで小林秀雄と運命的な出会いをする。骨董を愛玩するなかで鍛えた眼で本質をずばりと見抜き、ときに手厳しい批評を行った。酒席で親友の小林を幾度も泣かせたといわれる。自宅には小林秀雄、河上徹太郎、中原中也、永井龍男、大岡昇平といった文人たちが集い、「青山学院」と呼ばれた。白洲正子、宇野千代なども弟子にあたる。晩年は都心の高級マンション「ヴィラ・ビアンカ」で暮らし、静岡県伊東市に別荘を設けた。昭和54年(1979年)3月27日、自宅にて死去。法名は春光院釋陶経。
出典:wikipedia
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