ユキノサンライズは日本の競走馬。菊花賞優勝馬ホリスキー産駒初の中央競馬重賞勝利馬。全17戦中16戦で増沢末夫が騎手を務めた(残りは1991年4月の京王杯スプリングカップで騎手は仁平健二)。引退後は繁殖牝馬となった。子供に1995年生まれで1998年のクイーンカップ優勝馬のエイダイクインがいる。馬齢は旧表記とする。1990年1月5日の中山競馬場の4歳新馬戦(ダート1200m)で単勝1.5倍の1番人気を集め、2着のタケデンビクトリーを7馬身引き離し勝ち上がった。1月20日の500万条件戦(ダート1200m)でも人気を集めたものの、ハントウィッシュに7馬身引き離された2着に敗れた。その後、3月3日中山競馬場の桃花賞では初めての芝レース(芝1600m)にも拘らず1番人気に押され、2着ベルクジャンヌ以下を8馬身引き離し2勝目を挙げた。初重賞のフラワーカップでも1番人気に押されて逃げ切り初重賞勝利を挙げ、「関東馬の代表」として同年の桜花賞で2番人気(1番人気はアグネスフローラ)となったが、レース中に不利を受けた事や外傷を受けた事もあり14着に終わり、春のクラシック期を休養に当てる事となった。4歳秋の復帰戦はエリザベス女王杯だったが、復帰初戦であること、最初3ハロンの通過タイムが35秒ということもあり4コーナーから追い込んだキョウエイタップの14着に終わった。(17番人気)次走は中山競馬場のオープン特別ターコイズステークス(芝2000m)で、再び1番人気に支持されると今までの逃げ一辺倒ではなく、先行差しというスタイルで上がり3ハロン35秒1の末脚で2着のリオデラプラタを1馬身1/2離して4勝目を挙げた。1991年、5歳初戦は中山競馬場の日刊スポーツ賞金杯(芝2000m)だった。ターコイズステークスの好走、斤量54kgということもあり1番人気に推されるが、カリブソングの6着に終わり、次走は東京競馬場のオープン特別戦銀嶺ステークス(ダート1400m)となった。ダート戦は4歳1月の条件戦以来1年ぶりにも拘らず1番人気に推されるものの、ハッピーギネスの6着に敗れた。その後、2回中山開催(2月24日)の中山牝馬ステークスに出走するも先の2戦で掲示板(5着以内)を外し、なおかつ同レースにダイイチルビーが出走する事もあり、2番人気となった。しかし斤量差(ダイイチルビー56kg、ユキノサンライズ54kg)もあり、逃げ切って勝利した。これは5歳になって初めての勝利であった。3月10日、中山記念では前年度の有馬記念で2着だったメジロライアンが出走することでライアンの単勝倍率が1.4倍となったが、ユキノサンライズがメジロライアンを1馬身差抑え、逃げ切って勝利した。その後は京王杯スプリングカップで酒井とのコンビでダイイチルビーの2着、安田記念では再び増沢とコンビを組んだもののダイイチルビーの16着に終わり春シーズンは休養に当てることとなった。秋初戦はオールカマーに増沢騎乗で出走したものの大井所属のジョージモナーク、ホワイトストーンの6着に敗れた。次走は福島競馬場のカブトヤマ記念に出走し、ここで再び1.5倍の圧倒的な1番人気に支持されたもののハシノケンシロウ、メジロサンフランから遅れること2と1/2馬身という結果に終わった。カブトヤマ記念から1ヵ月後、陣営は立て直しのため福島記念に出走させ1番人気の支持を得たものの、2番人気のツインターボとは微差の人気であった。結果は7歳牝馬ヤグラステラの3着だった。そして12月の愛知杯に出走するが、ここでも逃げたもののヤマニンシアトル、ホワイトアローの3着に終わり5歳を終えることとなった。愛知杯終了後、陣営は現役続行を考えていたが後ろ脚に軽い故障が発生し完治に半年近くかかることから1年引退を早め、故郷の東振牧場に帰った。
出典:wikipedia
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